278話 クアウテモックの遺志
「チュィルトリ! 一番大事なことを聞くぞ!」
「日本はイスパニアを追い出す。アステカの民を助ける。これは嘘ではない。おまえは皇帝クアウテモックの血を引く者として立ち上がり、民を率いる覚悟と気概はあるか?」
チュィルトリは沈黙した。
何かに抗うように唇を結び、視線を宙にさまよわせている。迷い、揺れている。だが――その目に、光が宿った。
「……はい、あります!」
「私は幼い頃から、皇帝クアウテモックが受けた激しい拷問の話、そして首を吊られて殺されたという話を聞いて育ちました」
「その名を語ることに、どれほどの覚悟が要るか――ずっと、迷っていました。自分に、果たしてそれだけの責任が負えるのかと……」
「ですが、ようやく決心がつきました。私は、アステカの民のために――この命を捧げます!」
「嘘は、ないな?」
チュィルトリは、胸に手を当て、しっかりと頷いた。
「ケツァルコアトルの神に、誓います」
「もう一つ、確認しておきたいことがある」
「アステカ帝国では……生きた人間の心臓を捧げたり、子どもを神に生贄として捧げたりしていたな?」
「……よくご存じで。はい、神への生贄は、アステカ帝国の建国以来、百年以上にわたって続けられてきたと聞いています」
「それを――今すぐやめろ。もし続けるつもりなら、おまえたちを助けるつもりはない!」
俺の言葉に、ルーシーの顔つきが変わる。眉をひそめ、視線がわずかに揺れた。
「……イスパニアの連中も、その儀式に嫌悪感を抱いていたのではないか?」
「はい。とても強く驚いていました。止めるようにと何度も言われました」
「ならば問う。おまえたちが、これまで生贄を捧げてきた神は――アステカの民に何か報いてくれたか? 国が滅びようとしていた時、侵略され、奴隷にされた時……その神は何かしてくれたのか?」
「……我らは、侵略された時も、捕らえられた時も、必死に祈りました。ですが、何も起きませんでした。何の助けもなかった」
「少なくとも私は、もうアステカの神など信じていません」
「ではチュィルトリ――おまえが指導者となったなら、生贄の儀式は二度と行わないと、はっきり約束できるか?」
「……はい。お約束します」
「本当にそれでいいのか? それはアステカ人が、長い年月、連綿と続けてきた儀式なのだろう? 簡単に捨てていいのか!」
「長きにわたり続けてきたその儀式の果てに――今のこの惨状があるのです。民もすでに悟っています。仮に生贄の儀式を廃しても、これに強く反対する者は、アステカの民の中にもほとんどいないでしょう」
「イスパニア人たちは、アステカの神を捨て、キリスト教を信じるよう幾度となく強要してきました。しかし、我々を奴隷として扱う者たちの神を――どうして信じることができましょうか」
「今の私たちには、もはや信じる神は存在しません」
「ですが、我々が心から信じられるものが、ただ一つあります。それは――実際に我々を救い、奴隷の身から解き放ってくださった、日本の皆さまです」
「どうか、我らアステカの民を導いてください。共に未来を切り拓いていただきたいのです」
「さっきも言ったが、我らにお願いするだけというのはダメだ。あなたたち自らが行動するのを我らが助けるのだ!」
「もちろんです。命を懸けて行動します。今度こそ、自らの手で道を切り開いてみせます!」
チュィルトリの瞳には、はっきりと強い意志が宿っている。――嘘ではない。覚悟は本物だろう。
「……分かった。時が来たら、“クアウテモック二世”を名乗るといい」
「ですが……私がそう名乗ったところで、果たして誰が信じてくれるでしょうか」
「――これがあれば、どうだ」
俺はそっと箱を開け、中に収められていたケツァールの羽根で作られた冠を取り出して見せた。
「こ……これは……! この冠を、どうやって……?」
「私を加護してくださっている神から授かったものだ。いずれ必要な時が来たら、おまえに渡すつもりでいる。ただし――今はまだ、その時ではない」
「冠の存在は誰にも話すな。そして、“クアウテモック二世”を名乗る必要もない。その時が来れば、私の方から声をかける」
「……承知しました。ですが、大執政官様を加護されている神とは、どのようなお方なのですか?」
「“豊穣神様”と呼ばれる神だ。大地に実りをもたらし、民の暮らしを豊かにしてくださる」
「日本の皆さんが乗ってきた船、使っている武器も豊穣神様の加護なのですね。私は豊穣神様を信じたいと思います。教義は何かあるのですか?」
(なんだ、急に妙な方向に話が飛び始めたけど……!)
「教義などはない。ただ一つ――豊穣神様は、民の幸せだけを願っておられる。生贄を求めることも、決してない」
「なんと……! あなた様は、その神のお言葉を聞くことができるのですね。どうか、私も信者として迎えていただけないでしょうか!」
「……豊穣神様は、誰であれ拒まれることはないだろう」
「ありがとうございます!」
チュィルトリは、兵に伴われながら満足げな表情で部屋を後にしていった。




