第四章 下弦の月と、目覚めの真実
チッチッチッ――
柱時計の規則正しい音が聞こえる。明朝。東の空が淡く色づき始め、夜空の端に薄っすらと「下弦の月」が青白く残る頃。
悠月は、心の底から拒絶したくなるような、暗く重苦しい夢を見ていた。両親に反発し、ダンスを辞め、夜の街を徘徊する夢。進路の相談ができず、両親がトラックと衝突して意識不明になり、羽中病院のICUで冷たくなっていく夢。そして、自分が上弦の月の下で屋上から飛び降りる夢……
(嫌だ……嫌だ……! あれは夢だよね? 今の幸せが本当なんだよね……!?)
「悠月ちゃん! 悠月ちゃん!! 目を覚ましてくれ!」
(ん…………? 身体が……鉛のように重い……)
必死に呼びかける声に引きずられるように、悠月は重い瞼をゆっくりと開けた。視界に飛び込んできたのは、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにした祖父・省三の顔だった。
「悠月ちゃん! やっと……やっと目を覚ましたね! よかった……神様、ありがとうございます……!」
省三は膝をつき、悠月の手を握りしめて号泣していた。
「守衛さんから『屋上で女の子が倒れている』って連絡が来たときは、本当に肝が冷えたよ……! 屋上で過呼吸を起こして倒れていたんだよ。すぐに看護師さんを呼んでくるからね!」
省三が部屋を飛び出していく。混乱する頭のまま、悠月はベッドの横にある窓ガラスに視線を向けた。そこに映っていたのは――小さな子どもでも、コンクールで優勝した小学五年生でもなく、見慣れた中学三年生の制服を着た、成長した自分の姿だった。
(戻……ってきちゃったんだ……)
声が震えた。あの温かく幸福に満ちた十一年間の記憶は、幻だったのか。自分は再び「両親が事故で意識不明の重体」である、残酷な現実の世界へと引き戻されてしまったのだ。
「看護師さん、こちらです!」
省三が若い看護師を連れて走ってきた。看護師は悠月のバイタルを確認すると、すぐにポケットのピッチを取り出し、主治医へ連絡を入れた。
「先生、辻悠月ちゃんが目を覚ましたそうです。……はい、先生から『あのこと』についてご説明いただけますか?」
『あのこと』
という言葉を聞いた瞬間、悠月の全身に氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
(あのことって……まさか……お父さんとお母さんの容態が急変して……死んじゃったの……!?)
まもなくして、両親の主治医が重い足取りで病室へと入ってきた。
「悠月さん、気がつきましたか。……あなたが屋上で過呼吸により倒れてから、今日でちょうど五日間が経っています。その間、ご両親は……」
医師の口が動いている。けれど、悠月の脳は激しい恐怖から、その音声を完全にシャットアウトした。キーンという高い耳鳴りだけが頭の中で鳴り響く。
(やだ……聞きたくない! 聞きたくない!!)
悠月は布団を跳ね除けると、主治医と省三の制止を振り切り、裸足のまま病室を飛び出した。廊下を走り、トイレの個室に飛び込んで鍵をかける。
タイルの冷たい水道水で何度も顔を洗い、激しく上下する胸を必死に抑えつけた。鏡に映る自分の顔は、絶望で土気色になっていた。
(嘘だ……嘘だと言ってよ。あの深い月明かりの向こうで、あんなに時間をかけてダンスを頑張ったのに。お父さんとお母さんに『大好き』って伝えられたのに……。結局、私の想いは現実の刻を動かせなかったの? お父さんとお母さんは、死んじゃったの……!)
溢れ出る涙が止まらない。自分の無力さと、突きつけられた現実の残酷さに、悠月は個室の中で蹲り、声を出さずに泣き続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。泣き疲れて空っぽになった悠月は、覚悟を決め決めてトイレのドアを開けた。両親の死という現実から、もう逃げることはできない。最期に二人の冷たくなった顔を見に行こう
――そう心に決めて、重い足取りで廊下を歩いた。
病室へ戻る途中、中庭に面した日当たりの良い大きな窓がある廊下に差しかかった。春の柔らかな日差しが差し込むその場所で、悠月の足がピタリと動かなくなった。
窓のすぐそばに、車椅子に座った一人の男性がいた。脚に重厚なギプスを巻き、下腿を骨折しているものの、その表情には生き生きとした血色が戻っていた
――淳だ。
そして、その車椅子の後ろにしっかりと立ち、愛おしそうに彼の肩に手を置いている女性がいた――唯だ。
二人は窓の外を見上げていた。窓の外では、春の終わりを告げる美しい桜吹雪が、舞い散っていた。
カサッ、と悠月の足音が響く。気配に気づいたのか、二人は同時にゆっくりと振り向いた。そして、呆然と立ち尽くす悠月の姿を見とめると、世界で一番温かい、太陽のような笑顔を浮かべた。
二人の声が、重なって響く。
「おかえり、悠月」
両親は、生きていた。亡くなってなどいなかった。それどころか、事故の規模からすれば奇跡としか言いようがないほど軽症だったのだ。淳はトラックの衝撃で下腿を骨折したものの命に別状はなく、唯も数日間の意識不明の重体から鮮やかに目を覚まし、懸命な処処置によって脳や内臓への深刻な後遺症も一切残っていなかったのだ。
「お母さん……? お父さん……!? 私……私…………!!」
悠月の中で、ピンと張り詰めていた糸がプツリと切れた。その場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆って、子どもに戻ったように声を上げて号泣した。
「悠月!」
淳が車椅子を急いで漕ぎ寄せ、唯が膝をついて、泣きじゃくる悠月の身体を両腕で力強く抱きしめた。淳も車椅子から身を乗り出し、悠月の頭を愛おしそうに何度も何度も撫でた。
「悠月、すごく頑張ったね。……おかえり」
唯の優しい声が、耳元で揺れる。
「お父さん……お母さん……なんで……? 事故で、意識が戻らないって……」
泣きじゃくる悠月を抱きしめながら、淳が静かに語りかけた。
「僕たちね、病院のベッドでずっと意識を失っている間……不思議な光の中にいたんだ」
「光…………?」
「そう。まるで時空の隙間に迷い込んだみたいな場所でね。悠月がもの凄く一生懸命にダンスを頑張っている気配が、ずっと胸に届いていたんだよ。幼い姿の悠月が泣きながら、でも笑顔で僕たちの指導についてきてくれて……大きな舞台で、世界で一番綺麗なダンスを踊っている姿が、僕たちの深く眠る意識に何度も流れてきたんだ」
唯も涙を浮かべながら頷いた。
「お父さんもお母さんもね、昔、ダンスを頑張るところから結ばれたでしょう? だからね、その光の向こうで悠月が命を燃やして踊る姿を感じたら……胸が熱くなって、涙が止まらなくなって……『こんなところで眠っていられるか!』って、暗闇を破って目覚める力が湧いてきたの」
淳が悠月の濡れた頬を拭いながら、優しく微笑んだ。
「悠月が、月の導きの中で僕たちの魂を引っ張り上げてくれたんだよ。悠月が僕たちを助けてくれたんだ。……ありがとう、悠月」
その言葉を聞いた瞬間、悠月の胸の中で、すべての真実がひとつに繋がった。自分が屋上から落ちたとき、完全な時空改変ではなく「精神の追体験」という形で過去へ飛び、そこで過ごした十年間は、現実世界における「五日間の昏睡状態」の裏側で確実に交錯していた魂の記憶だったのだ。
その時間の中で血の滲むような努力の末に掴んだ愛とダンスの輝きが、暗闇を彷徨う両親の心臓を強力に叩き起こし、現実世界の二人を死の淵から引き揚げたのだ。時空を超えた親子愛が、運命の呪いを再び打ち破った瞬間だった。
「お父さん……お母さん……ごめんなさい! 酷いことたくさん言って、心配させて……ごめんなさい……!」
「いいんだよ、悠月。僕たちの指導が厳しすぎたんだ。悠月を追い詰めてしまってごめんね」
「ううん! 私、お父さんとお母さんの子どもでよかった! 私を置いていかないでくれて、本当にありがとう……!」
窓の外では、満開の花びらが、祝福の拍手のように三人を見守るように包み込んでいた。
第四章をお読みいただき、本当にありがとうございました。
時空を超えた魂の記憶が、暗闇の中にいた両親を呼び覚ます――親子三人が再び抱きしめ合えた奇跡に、胸を熱くしていただけたなら幸いです。
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明日はいよいよ最終章。二度と解けない絆で結ばれた家族の未来を、ぜひ最後まで見届けてください。




