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『時間喰い』  作者: ネコロビン


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第9話 同族喰い

喰いたい。

 喰いたい。

 喰いたい。

 レインは、ふらふらと街を歩いていた。

 どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。

 足元がおぼつかない。

 視界がぼやける。

 呼吸は浅く、心臓が激しく脈打っていた。

「……く……いたい……」

 口元から唾液が垂れた。

 拭うことさえしなかった。

 すれ違う人々が、不審そうにこちらを見る。

 若い女性が足早に離れていく。

 子供を連れた母親が、道の反対側へ移動した。

 レインには、そんなことを気にする余裕などなかった。

 人がいる。

 目の前に、たくさんの人がいる。

 誰もが時間を持っている。

 生きている。

 これから何年も、何十年も生きていく。

 その時間が欲しかった。

「……誰でも……いい……」

 レインは壁に手をついた。

 膝が震える。

 もう、立っていることすら苦しかった。

 胸が痛い。

 心臓を直接握り潰されているようだった。

「……あ……ぁ……」

 レインは胸を押さえた。

 喰わなければ死ぬ。

 そのことだけは、はっきりと理解できた。

 もう限界だった。

 四十日間。

 誰の時間も奪わずに耐え続けた。

 けれど、それも終わりだった。

 正しいとか、間違っているとか。

 そんなことは、もう考えられない。

 ただ、生きたかった。

 死にたくなかった。

 それだけだった。

     ◇

「いやあああっ!!」

 突然、女性の悲鳴が響いた。

 レインは足を止めた。

 声は、すぐ近くの路地裏から聞こえてきた。

「……?」

 ぼんやりと顔を上げる。

 もう一度、悲鳴が聞こえた。

「やめて! お願い!」

 レインは、吸い寄せられるように歩き始めた。

 何が起きているのか。

 そんなことを考えたわけではなかった。

 ただ、声のする方へ身体が動いた。

 建物と建物の間。

 薄暗い路地裏。

 その奥に、人影が二つ見えた。

 レインは壁に寄りかかりながら、目を細めた。

 男がいた。

 三十代くらいに見える、黒い上着を着た男だった。

 そして、その男の前に女性がいた。

 女性は壁に押しつけられていた。

 男の片手が、女性の頭を掴んでいる。

「や……め……」

 女性が苦しそうに声を漏らした。

 レインは、思わず建物の陰に身を隠した。

 何かがおかしい。

 そう感じた。

 男は女性を殴っているわけではなかった。

 首を絞めているわけでもない。

 ただ、頭を掴んでいるだけだった。

 それなのに。

「……あ……?」

 レインの目が見開かれた。

 女性の髪が、変わり始めていた。

 黒かった髪に、白いものが混じっていく。

 一本。

 また一本。

 白髪が増えていく。

 そして、ほんの数秒のうちに。

 女性の髪は、ほとんど真っ白になっていた。

「……な……んだ……?」

 レインは目を離せなかった。

 変化は、それだけではなかった。

 女性の頬に皺が刻まれていく。

 肌から張りが失われ、目元が落ちくぼんでいく。

 首筋が細くなった。

 露出していた腕にも深い皺が現れ、手の甲には血管が浮き上がっていく。

 まるで、何十年もの歳月が一瞬で流れているようだった。

 女性の身体が、みるみる老いていく。

「……あ……ぁ……」

 もはや悲鳴すら上げられないのか、女性はかすれた声を漏らすだけだった。

 男は、そんな女性を見つめていた。

 そして。

「……ああ、いいな」

 男が笑った。

「やっぱり、若い奴は違う」

 その声には、満足感が滲んでいた。

 レインは息を呑んだ。

 知っている。

 この光景が、何なのか。

 エマから聞いた。

 セラからも聞いた。

 自分自身も、経験している。

 だが、実際に目の前で見るのは初めてだった。

 人間から寿命を奪う。

 その行為が、どれほど恐ろしいものなのか。

 レインは今、初めて目の当たりにしていた。

「……時間……喰い……」

 男は、時間喰いだった。

     ◇

 ドクン。

 レインの心臓が、大きく跳ねた。

「……うっ!」

 胸を押さえる。

 痛い。

 先ほどまでとは比べものにならないほどの痛みだった。

 目の前で、人間の時間が奪われている。

 それを見た瞬間から、身体の奥で何かが暴れ始めていた。

 喰いたい。

 喰いたい。

 喰いたい。

 レインは壁に爪を立てた。

「……う……あぁ……」

 口元から唾液が溢れた。

 呼吸が荒くなる。

 目の前の男は、まだ女性の頭を掴んでいた。

 女性はすでに老婆のような姿になっていた。

 それでも、男は手を離さない。

「……もう少しだな」

 男が呟いた。

 レインの視線が、男の手に向いた。

 その手が、女性の時間を奪っている。

 人間の寿命を喰っている。

 自分と同じ存在。

 時間喰い。

 その瞬間。

 レインの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。

 ――あいつも、時間を持っている。

 男は今、女性の寿命を奪っている。

 そして、これまでにも多くの時間を奪ってきたのかもしれない。

 だったら。

 あの男の中には。

 どれほどの時間が、蓄えられているのだろう。

「……あ……」

 レインの身体が震えた。

 もう、まともに考えられなかった。

 ただ。

 あの男が欲しい。

 あいつの時間が欲しい。

 それだけが、頭の中を埋め尽くしていく。

 レインは壁から手を離した。

 足がもつれる。

 膝が折れかけた。

 それでも、倒れなかった。

 男は、こちらに気づいていない。

 女性の時間を奪うことに夢中になっていた。

 レインは一歩を踏み出した。

 そして、もう一歩。

 身体が重い。

 心臓が苦しい。

 視界が暗くなっていく。

 今にも意識を失いそうだった。

 それでも、歩いた。

 生きたい。

 死にたくない。

 喰いたい。

 レインは最後の力を振り絞った。

     ◇

「……ふう」

 男が小さく息を吐いた。

 女性の身体から、ほとんど力が抜けていた。

 男は口元を緩めた。

「あと少し……」

 そのときだった。

 背後に、何かの気配を感じた。

「……ん?」

 男が振り返ろうとした。

 だが。

 そこには、すでにレインが立っていた。

 青白い顔。

 落ちくぼんだ目。

 乱れた髪。

 口元から垂れる唾液。

 その姿は、まるで死にかけた人間のようだった。

「……なんだ、お前?」

 男が眉をひそめた。

 レインは答えなかった。

 ただ、男を見つめていた。

 目の前にいる。

 時間を持っている。

 自分が生きるために必要なものを。

 男が女性から手を離した。

「おい、聞いてんのか?」

 レインの唇が動いた。

「……喰わせろ」

「……は?」

 男が表情を変えた。

 だが、もう遅かった。

 レインの両手が伸びた。

 男の首を、背後から掴む。

「なっ……!」

 男が叫ぼうとした、その瞬間。

 レインは喰い始めた。

     ◇

 ――あ。

 何かが流れ込んできた。

 熱い。

 身体の奥に、熱いものが広がっていく。

 胸を締めつけていた苦痛が、少しずつ消えていく。

 震えていた指先に力が戻る。

 視界が明るくなる。

 呼吸が楽になる。

 そして。

 全身を、強烈な幸福感が駆け抜けた。

「……あ……ぁ……」

 レインの口から、声が漏れた。

 気持ちがいい。

 何だ、これは。

 こんなにも。

 こんなにも、気持ちがいいのか。

「ぐっ……! お、お前……!」

 男が暴れ始めた。

 レインの腕を掴み、引き剥がそうとする。

 しかし、レインは離さなかった。

 離せなかった。

 男の身体から、次々と時間が流れ込んでくる。

 人間とは違う。

 この男の中には、奪い集めた時間が蓄えられていた。

 その時間が、猛烈な勢いでレインへ流れ込んでいた。

「や……めろ……!」

 男が叫んだ。

 レインは聞いていなかった。

 いや、聞こえてはいた。

 それでも、やめようとは思わなかった。

 もっと。

 もっと欲しい。

 まだ足りない。

 四十日間、ずっと苦しかった。

 眠れなかった。

 食べても満たされなかった。

 誰かの時間を奪いたいという欲求に、何度も押し潰されそうになった。

 そのすべてが、今。

 消えていく。

「あ……は……」

 レインは笑っていた。

 自分が笑っていることにも、気づいていなかった。

「……うま……い……」

 男の抵抗が激しくなる。

 身体を捻り、レインを壁に叩きつけようとした。

 それでも、レインの手は離れなかった。

 男も時間喰いだった。

 ただの人間ではない。

 同じように、相手の寿命を奪うことができる。

 男は必死にレインの腕に手を伸ばした。

 今度は、自分がこの少年の時間を奪おうとしたのだ。

 だが。

「……ぐ……あぁ……!」

 力が入らなかった。

 男の身体が、急速に衰え始めていた。

 レインの飢えは、限界を超えていた。

 流れ込む時間を、ただひたすらに喰らい続けていた。

 男の髪が白くなっていく。

 顔に皺が刻まれる。

 腕が細くなる。

 先ほど女性に起きていた変化が、今度は男の身体に現れていた。

「や……め……」

 声がかすれる。

「た……の……む……」

 男は、もはや抵抗することもできなかった。

 レインの腕を掴んでいた手が、ゆっくりと落ちていく。

 それでも、レインは喰い続けた。

 止まらなかった。

 もっと。

 もっと。

 まだある。

 まだ時間が残っている。

 残っているものを、すべて。

 すべて喰いたい。

 男の膝が折れた。

 レインはその身体を支えるように首を掴んだまま、さらに時間を奪った。

 そして。

 最後の時間が、流れ込んできた。

「…………」

 男の身体から、完全に力が抜けた。

 レインの手が離れる。

 男はそのまま地面に崩れ落ちた。

 もう、動かなかった。

     ◇

「……はぁ……はぁ……」

 レインは荒い呼吸を繰り返した。

 両手を見つめる。

 震えが止まっていた。

 身体が軽い。

 胸の痛みも消えている。

 頭がはっきりしていた。

 あれほど苦しかったのに。

 今は、何の苦痛もなかった。

 それどころか。

 身体の奥から、力が溢れてくるようだった。

「……あ……」

 レインはゆっくりと息を吸った。

 そして、吐いた。

 気持ちがいい。

 何もかもが、気持ちよかった。

 まるで、長い悪夢から目覚めたようだった。

 飢えが消えた。

 苦しみが消えた。

 身体が満たされていた。

「……これだ……」

 レインは自分の胸に手を当てた。

 心臓が、規則正しく脈打っている。

 先ほどまで、死ぬほど苦しかった心臓が。

 今は、何事もなかったかのように動いていた。

「……これ……」

 思わず笑みがこぼれた。

「……この感覚……」

 生きている。

 自分は、まだ生きている。

 レインは空を見上げた。

 建物の隙間から、青い空が見えた。

 陽の光が眩しかった。

 四十日間、ずっと苦しんできた。

 何度も死ぬかと思った。

 実際、もう死にかけていたのだろう。

 でも。

 生き延びた。

「……はは……」

 小さく笑った。

 そして、もう一度、自分の両手を見た。

 この手で。

 今、自分は誰かの寿命を奪った。

 それも、残された時間をすべて。

 相手が死ぬまで。

「…………」

 レインはゆっくりと顔を下げた。

 足元には、老い果てた男が倒れていた。

 先ほどまで、三十代ほどに見えた男。

 その男が今は、何十年も歳を重ねた老人のような姿になっていた。

 胸は動いていない。

 呼吸もしていない。

 死んでいた。

 自分が、殺した。

 レインはその事実を理解した。

 けれど。

 後悔よりも先に、満足感があった。

 人を殺したという恐ろしさよりも、生き延びられた喜びの方が大きかった。

 それが、何よりも恐ろしかった。

「……俺……」

 レインは小さく呟いた。

「……笑ってた……」

 男の時間を奪っている間。

 自分は、確かに笑っていた。

 苦しんでいる男を見ても、手を離さなかった。

 やめてくれと懇願されても、喰い続けた。

 そして今も。

 もう一度、あの感覚を味わいたいと思っている自分がいた。

     ◇

「……ぁ……」

 小さな声が聞こえた。

 レインは振り返った。

 女性だった。

 男に襲われていた女性が、壁にもたれかかるように倒れていた。

 真っ白になった髪。

 深い皺が刻まれた顔。

 細くなった腕。

 先ほどまで若い女性だったとは、とても思えない姿になっていた。

「……あ……あぁ……」

 女性は何かを言おうとしていた。

 けれど、言葉にならないようだった。

 レインは、その姿を見つめた。

 もし、自分が来なければ。

 あの男は、女性の時間をすべて奪っていたのだろう。

 そして女性は、ここで死んでいたのかもしれない。

 しかし。

 レインは女性を助けるために男を襲ったわけではなかった。

 ただ、喰いたかった。

 生きるために。

 自分の飢えを満たすために。

 あの男の時間が欲しかった。

 それだけだった。

「……大丈夫……ですか?」

 レインは女性に近づいた。

 女性は怯えたように身体を震わせた。

 レインの姿を見て、さらに怯えているようだった。

 無理もなかった。

 女性は、すべてを見ていたのかもしれない。

 男が自分の時間を奪うところも。

 レインが男の時間を奪い尽くすところも。

「……救急車……」

 女性がかすれた声で呟いた。

「……お願い……」

「……分かりました」

 レインは頷いた。

 ポケットを探った。

 しかし、スマートフォンがなかった。

 家に置いてきたのだろう。

「……すみません。少しだけ待っててください」

 レインは路地を出た。

 通行人に声をかけ、救急車を呼んでもらった。

 事情を聞かれたが、うまく説明できなかった。

 ただ、路地裏で女性が倒れていると伝えた。

 そして、救急車が来る前にその場を離れた。

 自分が何者なのか、説明することなどできなかった。

     ◇

 レインは街を歩いていた。

 もう、ふらついてはいなかった。

 足取りはしっかりしている。

 視界もはっきりしていた。

 道を歩く人々が、目に入った。

 会社員。

 学生。

 買い物帰りの老人。

 誰もが、普通に生活している。

 そして。

 レインは気づいた。

 もう、人間を見ても喰いたいと思わなかった。

 先ほどまで、誰もが食べ物に見えていた。

 それなのに、今は違う。

 何とも思わない。

 ただの人間に見える。

「……そうか」

 レインは足を止めた。

 人間の寿命を奪わなければ生きられない。

 ずっと、そう思っていた。

 セラもエマも、そうして生きている。

 だから、自分もいつかは人間を喰わなければならない。

 そう考えていた。

 でも。

 違った。

 時間喰いからも、時間を奪える。

 それも、普通の人間とは比べものにならないほどの時間を。

 自分は今、それを知った。

「……俺……」

 レインは両手を見つめた。

 あの男は、女性を襲っていた。

 放っておけば、女性の時間をすべて奪っていたのだろう。

 そして、また別の人間を襲っていたかもしれない。

 そんな時間喰いが、他にもいるとしたら。

 自分は、その時間を喰って生きられる。

 人間を喰わなくても。

 生きていける。

 レインはしばらく考えた。

 あの男を殺したことが、正しいとは思わなかった。

 自分が誰かを救ったとも思わない。

 ただ、自分が生きるために相手を喰った。

 それだけだ。

 それでも。

 自分にとって、ひとつの答えが見つかった。

「……決めた」

 レインは小さく呟いた。

 もう、人間を喰いたくない。

 他人の人生を奪ってまで生きたくない。

 けれど、自分も死にたくない。

 だったら。

 危険な時間喰いを探せばいい。

 人間を無差別に襲い、これからも奪い続けるような時間喰いを。

 そして、その時間を喰う。

 それが正義なのかどうかは、分からない。

 いや。

 正義であるはずがない。

 自分も、相手と同じ時間喰いなのだから。

 それでも。

 レインは顔を上げた。

「……俺は、人間を喰わない」

 静かに、そう口にした。

 そして。

「時間喰いを喰って、生きてやる」

 その言葉に、迷いはなかった。

     ◇

 レインは歩き始めた。

 身体の奥には、先ほど奪った時間が蓄えられている。

 以前とは違う。

 足取りが軽い。

 身体に力が満ちていた。

 自分でも、まだ理解できないほどの力が。

 そして、レインは知らなかった。

 時間喰いが他の時間喰いを喰うという行為が、どれほど危険なものなのか。

 自分が喰った男よりも、はるかに長く生きている時間喰いがいることも。

 蓄えた時間によって、時間喰いの身体能力が大きく変わることも。

 そして。

 その力を限界以上に引き出せば、蓄えた時間そのものが猛烈な勢いで失われていくことも。

 まだ、何ひとつ知らなかった。

 ただ、レインは自分の生き方を決めた。

 人間を喰わずに生きる。

 そのために、時間喰いを喰う。

 たとえ、それが。

 自分自身を、さらに恐ろしい怪物へと変えていく道だったとしても。

 レインは、もう戻るつもりはなかった。

 四十日間の飢えは終わった。

 しかし。

 時間喰いとしての、レインの本当の生存競争は、まだ始まったばかりだった。

第9話 終

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