第8話 限界
あの日、エマの店を訪ねてから、四十日が経った。
レインは、まだ誰の時間も奪っていなかった。
それは、彼が自分に課した唯一の約束だった。
どれほど苦しくても、誰かの寿命を奪わない。
その約束だけを守り続けていた。
だが――。
人間の意思というものは、どこまで身体の欲求に抗えるのだろうか。
レインは、その答えを知り始めていた。
◇
最初の十日ほどは、まだ普通に生活できていた。
朝起きて、顔を洗い、朝食を食べる。
学校には戻れなかったが、散歩に出かけるくらいの元気はあった。
セラとも何度か会った。
エマの店を訪ねたこともある。
何をしていても空腹のような感覚は消えなかったが、それでも会話を楽しむ余裕は残っていた。
「少し顔色よくなったんじゃない?」
ある日、セラがそう言った。
「そうか?」
「うん。前より元気そう」
「……慣れたのかもしれない」
レインは笑った。
本当に、そう思っていた。
時間喰いとしての身体に慣れれば、この飢えも少しずつ弱くなるのではないか。
そんな期待があった。
しかし、それは間違いだった。
飢えが弱くなったのではない。
ただ、飢えていることに慣れただけだった。
◇
二十日を過ぎた頃から、生活が変わり始めた。
まず、眠れなくなった。
正確には、眠ることはできる。
眠っている間は、あの不快な飢えから解放される。
だが、眠りにつくまでが苦しかった。
ベッドに横になり、目を閉じる。
すると、昼間に見かけた人々の顔が浮かぶ。
コンビニの店員。
バス停に並んでいた老人。
公園で子供を遊ばせていた母親。
そして、頭の中で誰かが囁く。
――あの人なら、どれくらい奪える?
「……やめろ」
レインは布団を頭までかぶった。
考えたくない。
そんなことを知りたくない。
けれど、目を閉じれば閉じるほど、人々の顔が浮かんできた。
いつしかレインは、外出することをやめた。
人間を見なければ、少なくとも喰いたいと思うことはない。
そう考えたからだった。
だが、家に閉じこもっても飢えは消えなかった。
冷蔵庫を開ける。
パンを食べる。
水を飲む。
腹は膨れる。
それなのに、身体は何ひとつ満たされなかった。
「……なんでだよ」
レインは食べかけのパンを見つめた。
「ちゃんと食ってるだろ……」
返事はなかった。
当然だった。
身体が求めているものは、食べ物ではないのだから。
◇
三十日目。
セラが訪ねてきた。
インターホンが鳴っても、レインはすぐには出られなかった。
玄関まで歩くだけで、ひどく疲れる。
ようやく扉を開けると、セラが立っていた。
「……レイン?」
彼女の表情が変わった。
「ちょっと、何その顔!」
「……何だよ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫……」
「全然大丈夫じゃないでしょ!」
セラはレインの顔を覗き込んだ。
頬はこけ、目の下には濃い隈ができていた。
髪も乱れたままだった。
「ちゃんと寝てる?」
「……寝てる」
「ご飯は?」
「食ってるよ」
「嘘じゃないよね?」
レインは答えなかった。
セラは小さくため息をついた。
「……もう、無理しないでよ」
「……」
「エマさんも心配してたよ」
レインは壁に寄りかかった。
立っているだけでも、身体が重い。
「……俺さ」
「うん」
「最近、ずっと考えてるんだ」
「何を?」
「……誰かの時間を、少しだけ奪えばいいんじゃないかって」
セラは黙った。
「一年とか……いや、もっと少なくてもいい。ほんのちょっとだけなら……」
レインは顔を伏せた。
「誰も気づかないんじゃないかって……」
「……レイン」
「分かってるよ」
レインは小さく首を振った。
「そんなこと、しちゃいけないって」
セラは何も言わなかった。
「でも……」
レインの声が震えた。
「最近、それが本当に悪いことなのか、分からなくなってきた」
セラはゆっくりと手を伸ばした。
レインの肩に触れようとして、途中で止める。
「……死んじゃうよ」
小さな声だった。
「このままじゃ、レインが死んじゃう」
「……」
「私は、レインに死んでほしくないよ」
レインは唇を噛んだ。
分かっていた。
セラは正しい。
生きたいなら、時間を奪うしかない。
エマもそう言っていた。
でも。
「……今日は帰ってくれ」
「レイン……」
「頼む」
セラはしばらく立っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
扉が閉まる。
レインはその場に座り込んだ。
そして、両手で顔を覆った。
「……ごめん」
その謝罪が誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
◇
三十五日目。
レインは、もう日付を数えることをやめていた。
壁のカレンダーには、途中まで印がつけられている。
毎日、一日を耐え抜いた証としてつけていた印だった。
だが、今となっては意味がなかった。
何日耐えたところで、飢えが消えるわけではない。
むしろ、日に日に強くなっていく。
心臓が苦しかった。
鼓動が速い。
胸の奥を、何かに握り潰されているような感覚が続いていた。
身体が熱くなったかと思えば、突然寒気が襲ってくる。
指先が震える。
足に力が入らない。
それでも、レインは時間を奪わなかった。
奪いたくなかった。
いや。
もう、その気持ちすら曖昧になり始めていた。
「……喰いたい」
気づけば、声に出していた。
レインは驚いて口を押さえた。
自分の声だった。
誰に言わされたわけでもない。
「……違う」
首を振る。
「俺は……喰わない……」
そう言い聞かせる。
だが、身体は別の答えを出していた。
喰いたい。
喰いたい。
喰いたい。
まるで、頭の中に同じ言葉が刻み込まれているようだった。
◇
三十八日目。
スマートフォンが鳴った。
セラからの着信だった。
レインはベッドの上で、ぼんやりと画面を見つめた。
着信音が鳴り続ける。
手を伸ばそうとした。
しかし、腕が重かった。
画面が暗くなる。
少しして、また着信があった。
今度はエマだった。
レインは震える指を伸ばした。
通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『レイン?』
「……はい」
『よかった。セラから連絡があったの。ずっと電話に出ないって』
「……すみません」
『身体はどう?』
「……」
『レイン?』
レインは答えようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
何を話せばいいのか、分からなかった。
『……今からそちらへ行くわ』
「……来ないで」
思わず口にしていた。
『え?』
「……来ないでください」
『どうして?』
レインは目を閉じた。
エマも、セラも。
時間喰いだ。
普通の人間とは違う。
けれど、今の自分には、二人が何に見えるのか分からなかった。
友達なのか。
頼れる相手なのか。
それとも。
「……怖いんです」
『……』
「俺、もう……自分が何をするか……」
言葉が途切れた。
エマはしばらく黙っていた。
『……分かったわ』
静かな声だった。
『でも、電話だけは出てちょうだい』
「……はい」
『約束よ』
レインは頷いた。
電話越しでは見えないと分かっていても、そうすることしかできなかった。
通話が終わる。
スマートフォンが手から滑り落ちた。
床に鈍い音が響く。
レインは拾わなかった。
◇
そして、四十日目。
朝。
レインは床に倒れていた。
いつベッドから落ちたのか、覚えていなかった。
目を開ける。
天井がぼやけている。
何も考えられない。
頭が重い。
身体の節々が痛む。
呼吸をするたびに、胸の奥が苦しくなる。
「……ぁ……」
声が出なかった。
口の中が乾いている。
それなのに、唾液が溢れてきた。
口元から床へ落ちる。
レインは震える腕で身体を起こそうとした。
だが、力が入らない。
もう一度。
もう一度。
三度目で、ようやく上半身を起こすことができた。
「……く……」
喉の奥から、声が漏れた。
「……いたい……」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
頭の中に浮かんでくるのは、人間の顔ばかりだった。
知らない人。
すれ違っただけの人。
もう何年も会っていない同級生。
そして。
リリア。
「……っ!」
レインは激しく首を振った。
違う。
違う。
違う!
リリアのことまで、そんなふうに考えたくなかった。
あの人の時間を奪ってしまった。
もう二度と、あんなことはしたくない。
そう思っているはずなのに。
身体が求めていた。
誰でもいい。
誰でも。
誰でもいいから。
「……喰わせろ……」
レインは床に爪を立てた。
指先に力が入る。
心臓が激しく脈打った。
胸の奥から、何かが突き上げてくる。
「……う……あぁ……」
苦しい。
痛い。
喰いたい。
喰わなければ。
死ぬ。
その言葉が浮かんだ瞬間、レインの身体が震えた。
――死ぬ。
自分が、死ぬ。
ここで。
この部屋で。
誰にも知られずに。
それが、たまらなく恐ろしかった。
「……嫌だ……」
涙が溢れた。
「……死にたく……ない……」
レインは床に額を押しつけた。
もう、限界だった。
◇
どれくらい時間が経ったのだろう。
レインは、玄関の前にいた。
どうやってここまで来たのか、覚えていなかった。
壁に手をつき、身体を支えている。
扉の向こうから、車の走る音が聞こえた。
人の話し声。
子供の笑い声。
遠くで犬が吠えている。
いつもと変わらない日常。
そのすべてが、レインを呼んでいるように感じた。
人がいる。
外には、たくさんの人がいる。
時間を持った人間が。
生きている人間が。
「……喰い……たい……」
口元から唾液が垂れた。
レインは震える手でドアノブを握った。
開けてはいけない。
外に出てはいけない。
まだ、頭のどこかでそう考えている自分がいた。
今の自分が外に出れば、何をするか分からない。
誰かを傷つけるかもしれない。
誰かの人生を奪うかもしれない。
それでも。
身体は、もう言うことを聞かなかった。
「……く……」
レインはドアノブを回した。
扉が開く。
冷たい外気が顔に触れた。
眩しい陽の光。
青い空。
道路を走る車。
少し離れた歩道を、買い物袋を提げた女性が歩いていた。
レインはその姿を見つめた。
以前なら、何とも思わなかったはずだ。
ただの通行人。
どこにでもいる、普通の人間。
けれど、今は違った。
女性が歩いている。
生きている。
まだ何年も、何十年も生きていくのかもしれない。
その時間が。
欲しかった。
「……あ……」
レインの口が、わずかに開いた。
唾液が顎を伝った。
足が勝手に動き出す。
一歩。
また一歩。
玄関から道路へ。
壁に手をつきながら、ふらふらと歩き始めた。
もう、リリアの顔は浮かばなかった。
セラの言葉も。
エマの忠告も。
何も考えられなかった。
頭の中を埋め尽くしているのは、ただひとつの欲求だった。
喰いたい。
喰いたい。
喰いたい。
「……誰でも……いい……」
レインはよろめいた。
膝が折れそうになる。
それでも、歩き続けた。
生きたい。
死にたくない。
そのためには。
誰かの時間を。
「……喰わ……なきゃ……」
レインは顔を上げた。
目の前には、人々が行き交う街が広がっていた。
その誰もが、自分の人生を生きている。
その誰もが、残された時間を持っている。
そして今。
レインには、そのすべてが――。
食べ物に見えていた。
第8話 終




