第7話 生き残った者
人間は、何日食べなければ死ぬのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、自分が時間喰いになってからだった。
普通の人間なら、水さえあれば数週間は生きられると聞いたことがある。
では、時間喰いは?
人間の寿命を奪わずに、どれくらい生きていられるのだろう。
レインには分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かっていることがある。
昨日よりも、今日の方が苦しい。
そして、おそらく明日はもっと苦しくなる。
「……くそっ」
レインは洗面台に手をついた。
鏡に映る自分の顔は、以前と何も変わらない。
目も、鼻も、口も。
どこからどう見ても普通の人間だ。
なのに。
身体の内側では、何かが確実に変わっていた。
手を伸ばせば、誰かの時間を奪える。
その力を使えば、今の苦しみから解放される。
そう分かっていることが、何よりも恐ろしかった。
スマートフォンが震えた。
セラからだった。
『今日、時間ある?』
レインは短く返信する。
『ある』
『じゃあ、この前話した人に会いに行こう』
画面を見つめた。
誰からも時間を奪わずに生きようとした人。
セラは確かに、そう言っていた。
もしかしたら、その人なら何かを知っているのかもしれない。
レインは少し考えてから返信した。
『分かった』
◇
待ち合わせ場所は、街の西側にある小さな駅だった。
駅前には古びた商店街が続き、営業しているのか分からない店も多い。
「こっち」
セラは迷うことなく歩き始めた。
「どこに行くんだ?」
「クリーニング屋さん」
「……クリーニング屋?」
「うん」
「その人、そこで働いてるのか?」
「お店の人だよ」
レインは少し驚いた。
時間喰い。
人間の寿命を奪って生きる怪物。
そんな存在が、ごく普通に街で働いている。
考えてみれば、自分も数日前までは普通の学生だった。
セラだって、街中を歩いていても誰も気に留めない。
人間と時間喰いを見分ける方法なんて、一般の人々は知らないのだ。
「……なあ、セラ」
「何?」
「時間喰いって、どれくらいいるんだ?」
「知らない」
「知らないのか?」
「うん。数えたことないし」
「……そうだよな」
「でも、レインが思ってるよりはいると思うよ」
セラは何でもないことのように答えた。
レインは商店街を行き交う人々に目を向けた。
買い物袋を持った女性。
自転車を押す老人。
仕事の電話をしている男性。
その中にも、自分たちと同じ存在が紛れているのだろうか。
そう考えた瞬間、目の前の日常が少しだけ違って見えた。
◇
クリーニング店は、商店街の端にあった。
大きなガラス窓。
店内には、透明なカバーに包まれた衣服が何十着も並んでいる。
看板には『エマクリーニング』と書かれていた。
「こんにちはー!」
セラが勢いよく扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、女性の声がした。
現れたのは、四十歳前後に見える女性だった。
肩まで伸びた黒い髪。
落ち着いた表情。
白いシャツの上に、紺色のエプロンを着けている。
「セラ。今日はどうしたの?」
「この前話した子、連れてきた」
女性はレインに目を向けた。
「……あなたがレイン?」
「はい」
「そう。私はエマ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
レインは思わず頭を下げた。
ごく普通の挨拶だった。
相手が時間喰いだと知らなければ、親切な店員にしか見えない。
「少し待っててね。もうすぐ店を閉めるから」
エマはそう言って、カウンターに戻った。
レインは小声でセラに尋ねた。
「……本当に時間喰いなのか?」
「そうだよ」
「普通の人にしか見えないんだけど」
「レインだってそうでしょ?」
「……まあ」
確かに、その通りだった。
数分後。
エマは入口の札を『準備中』に変えた。
「お待たせ。奥にどうぞ」
◇
店の奥は小さな休憩室になっていた。
テーブルと椅子が四脚。
古い冷蔵庫。
壁にはカレンダーが掛かっている。
エマは三人分のお茶を用意した。
「それで、私に何を聞きたいの?」
椅子に腰を下ろしながら、エマが尋ねた。
レインは少し迷った。
聞きたいことは、いくつもあった。
どうすれば時間を奪わずに生きられるのか。
時間喰いになった人間は、元に戻れるのか。
この飢えを、どうすれば消せるのか。
けれど、最初に口から出たのは別の質問だった。
「……あなたは、何歳なんですか?」
セラが吹き出した。
「ちょっと! 女の人に最初に聞くこと、それ?」
「あっ、いや! そういう意味じゃ……」
レインは慌てた。
だが、エマは気にした様子もなく笑った。
「時間喰いだから気になったのね?」
「……はい」
「正確な年齢は秘密。でも、あなたが思っているよりずっと長く生きているわ」
レインは驚いた。
「何十年も……ですか?」
「もっとよ」
「……」
「時間喰いは、人間から時間を奪い続ければ、長い年月を生きられる。もちろん、事故や怪我で死なないわけじゃないけど」
エマはお茶を一口飲んだ。
「それが私たちの身体なの」
レインは自分の手を見た。
長く生きられる。
普通の人間なら、夢のような話なのかもしれない。
けれど、そのためには。
誰かの寿命を奪い続けなければならない。
「……セラから聞きました」
レインは顔を上げた。
「あなたは昔、誰からも時間を奪わずに生きようとしたって」
「ええ」
エマは静かに頷いた。
「本当よ」
「だったら……!」
思わず身を乗り出した。
「どうしたんですか? 何か方法を見つけたんですか?」
エマはすぐには答えなかった。
その沈黙が、レインには不安だった。
「……レイン」
「はい」
「期待させてしまったなら、ごめんなさい」
その言葉だけで、レインには答えが分かってしまった。
「私は、失敗したの」
◇
「最初は、あなたと同じだったわ」
エマは昔を思い出すように話し始めた。
「誰かの時間を奪うなんて、絶対に嫌だった。自分が生きるために誰かを犠牲にするなんて、そんなことは許されないと思っていた」
「……」
「だから、奪わなかった」
「どれくらい……?」
「正確に覚えているわ」
エマは指を一本立てた。
「五十八日」
レインは息を呑んだ。
「五十八日……」
「ええ。もちろん、それは私の場合よ。誰でも同じだけ我慢できるとは限らない」
エマは自分の手を見つめた。
「最初は、ただお腹が空いたような感覚だった。でも、それがだんだん変わっていった」
レインは黙って聞いていた。
「眠れなくなった。身体が重くなった。何をしていても、人間のことばかり考えるようになった」
エマは苦笑した。
「買い物に出かけても、目に入るのは商品じゃない。レジの店員。隣に並んでいるお客さん。道を歩いている人」
「……」
「誰もが、私にとって食べ物に見えた」
レインの背筋に冷たいものが走った。
自分にも覚えがあった。
あの商店街で、怒鳴っていた男。
レインは、あの男の時間を奪う理由を探していた。
「……それでも、我慢したんですか?」
「ええ」
「どうして?」
「私は人間だと思いたかったから」
エマは即答した。
「時間喰いになっても、心まで怪物になりたくなかった」
その言葉は、レインの胸に深く刺さった。
自分と同じだった。
誰かを傷つけたくない。
奪いたくない。
人間でいたい。
「……それで、五十八日目に?」
「ええ」
エマは静かに頷いた。
「私は時間を奪った」
「……誰からですか?」
「知らない人」
レインは顔を上げた。
「……え?」
「名前も知らない。どこに住んでいたのかも知らない。どんな仕事をしていたのかも」
エマの声は穏やかだった。
けれど、その表情からは笑みが消えていた。
「夕方、駅の近くを歩いていた男性だったわ」
「……」
「道を尋ねられたの」
レインは何も言えなかった。
「その人は、ただ道を聞いただけ。私は教えてあげた。そして……」
エマは自分の右手を見つめた。
「別れ際に、肩に手を置いた」
レインの喉が鳴った。
「……奪ったんですか?」
「ええ」
「その人は……」
「死んではいないわ」
レインは小さく息を吐いた。
しかし、次の言葉で、その安堵は消えた。
「でも、私は確かにあの人の寿命を奪った」
エマは顔を上げた。
「その人が今どうしているのか、私は知らない」
「……」
「もう死んでいるかもしれない。まだ元気に暮らしているかもしれない。結婚して、子供が生まれているかもしれない」
エマはそこで言葉を切った。
「でも、あの人が本来生きられたはずの時間を、私は奪ったの」
レインは拳を握った。
「……後悔してるんですか?」
「しているわ」
「だったら、どうして……」
「生きたかったから」
エマはレインを見つめた。
「それだけよ」
部屋が静まり返った。
壁掛け時計の秒針だけが、小さな音を立てていた。
◇
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
レインが口を開いた。
「どうぞ」
「五十八日も我慢したのに……最後は、自分で奪うって決めたんですよね?」
「そうよ」
「誰かに操られたわけでも、勝手に時間を奪ってしまったわけでもない」
「ええ」
エマは静かに答えた。
「時間喰いは、触れただけで寿命を奪うわけじゃない。自分で喰うと決めなければ、奪わない」
「……」
「だから、私は自分の意思であの人の時間を奪ったの」
レインは俯いた。
それは、自分が最も恐れていることだった。
いつか自分も、そうなるのだろうか。
我慢し続けた末に。
生きたいという欲求に負けて。
何の罪もない人間から、寿命を奪ってしまうのだろうか。
「……じゃあ」
レインの声が震えた。
「俺たちは、どうすればいいんですか?」
エマは答えなかった。
「誰かを喰わなきゃ生きられない。でも、喰ったら誰かが犠牲になる」
レインは顔を上げた。
「だったら、俺たちはどうすればいいんですか!」
思わず声が大きくなった。
セラが少し驚いたようにこちらを見る。
レインはすぐに俯いた。
「……すみません」
「謝らなくていいわ」
エマは首を振った。
「私も、何度も同じことを考えたから」
「……」
「でもね、レイン」
エマは彼をまっすぐ見つめた。
「その答えを、私は持っていないの」
レインは唇を噛んだ。
どこかで期待していた。
長く生きた時間喰いなら、何かを知っているのではないか。
人を傷つけずに生きる方法を見つけているのではないか。
けれど。
目の前の女性も、ただ生き残っただけだった。
◇
「エマさん」
それまで黙っていたセラが口を開いた。
「もうひとつ、話してあげたら?」
「……そうね」
エマは少し考えた。
そして、レインに尋ねた。
「あなたは、悪い人間なら時間を奪ってもいいと思う?」
レインは息を呑んだ。
昨日、考えたばかりのことだった。
「……一度だけ、思いました」
「そう」
「でも、それは違うって……」
「どうして?」
「……誰が悪い人間なのか、俺が決めていいはずないから」
エマは小さく頷いた。
「その通りだと思うわ」
そして、続けた。
「でもね、私もそう考えたことがあるの」
「……え?」
「最初に時間を奪ったあと、もう二度と無関係な人を犠牲にしたくないと思った」
エマはお茶を一口飲んだ。
「だったら、悪い人間から奪えばいいんじゃないかって」
レインは黙った。
「犯罪者。人を傷つけた人。誰かを不幸にした人。そんな人たちなら、寿命を奪っても許されるんじゃないかって」
「……」
「でも、それを考え始めるとね」
エマは静かに言った。
「世界中が、悪い人間だらけになっていくの」
レインは顔を上げた。
「……どういうことですか?」
「最初は、本当にひどいことをした人だけ。でも、そのうち少しずつ変わっていく」
エマは指を折った。
「人を騙した人。誰かを怒鳴った人。約束を破った人。嘘をついた人」
「……」
「誰にだって、悪いところはあるでしょう?」
レインの脳裏に、昨日の男が浮かんだ。
商店街で店員に怒鳴っていた男。
確かに、あの男の態度はひどかった。
けれど。
だからといって、寿命を奪っていいわけではない。
「……理由を探してるんですね」
レインは呟いた。
「そう」
エマは頷いた。
「自分が生きるために、相手を悪人にしようとするの」
その言葉は、恐ろしいほど的確だった。
レインは昨日の自分を思い出した。
あの男を喰いたいと思った。
そして、喰ってもいい理由を探した。
まさに、エマの言う通りだった。
「……俺も、そうなるんでしょうか」
「分からないわ」
「……」
「でも、そうなりたくないと思っているうちは、まだ自分の選択を考えられる」
エマは少しだけ微笑んだ。
「それが、いつまで続くかは分からないけれど」
◇
店を出る頃には、夕方になっていた。
エマは二人を入口まで見送ってくれた。
「レイン」
帰ろうとしたところで、声をかけられた。
「はい」
「ひとつだけ、忘れないで」
エマは静かに言った。
「私は、あなたに誰も喰わずに生きろとは言えない」
「……はい」
「だからといって、喰ってもいいとも言えない」
レインは頷いた。
「生きることを選ぶのも、奪わないことを選ぶのも、あなた自身よ」
エマは少しだけ表情を曇らせた。
「でも、どちらを選んでも、誰かがその結果を背負うことになるかもしれない。それだけは忘れないで」
「……分かりました」
レインは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
エマは微笑んだ。
「またいらっしゃい」
◇
帰り道。
レインとセラは、しばらく黙って歩いていた。
夕焼けが街を赤く染めていた。
「……どうだった?」
セラが尋ねた。
「……何が?」
「エマさん」
レインは少し考えた。
「……思ってたのと違った」
「そっか」
「何か答えを知ってる人だと思ってた」
「うん」
「でも、答えなんてなかった」
セラは頷いた。
「そうだね」
レインは足を止めた。
「……なあ、セラ」
「何?」
「エマさんは、今も時間を喰ってるんだよな?」
「うん」
「……そうか」
あれほど後悔している人でも。
誰かの寿命を奪うことが間違っていると理解している人でも。
生きるために、喰い続けている。
「……俺、怖いよ」
レインは呟いた。
セラは何も言わなかった。
「いつか俺も、誰かを喰っていい理由を見つけるのかもしれない」
「……」
「そして、何も感じなくなるのかもしれない」
レインは自分の両手を見つめた。
「それが怖い」
セラは少しだけ考えた。
そして、静かに言った。
「私は、何も感じなくなったわけじゃないよ」
レインは顔を上げた。
「……え?」
「時間を喰うとき、何も考えてないわけじゃない」
セラは笑わなかった。
「怖いし、嫌だと思うこともある」
「……」
「でも、生きたいって思う気持ちの方が強いんだ」
レインは黙っていた。
「だから、喰うの」
その言葉は、どんな言い訳よりも残酷だった。
セラは悪人ではない。
エマも、きっと悪人ではないのだろう。
少なくとも、普通の人間として出会っていれば、そう思えたはずだった。
けれど、二人は人間の寿命を奪っている。
それが現実だった。
◇
夜。
レインは部屋のベッドに横たわっていた。
今日、エマから聞いた話を思い返していた。
五十八日。
誰からも時間を奪わずに耐え続けた日々。
そして、五十八日目。
見ず知らずの人間の寿命を奪った。
レインは天井を見つめた。
「……五十八日か」
自分は、あと何日耐えられるのだろう。
十日か。
二十日か。
それとも、明日には限界が来るのだろうか。
分からなかった。
分かるはずもなかった。
けれど。
レインはゆっくりと目を閉じた。
リリアの顔が浮かんだ。
いつもの笑顔。
いつもの声。
あの人は、自分が時間喰いになるなんて思ってもいなかっただろう。
そして、自分も。
あの人の時間を奪うことになるなんて、思っていなかった。
「……ごめん」
声に出してみた。
当然、返事はなかった。
許してもらえるはずもない。
奪った時間は、二度と戻らないのだから。
レインは布団を握りしめた。
生きたい。
けれど、誰も喰いたくない。
矛盾した願いだった。
そして、その矛盾を解決する方法を、誰も知らない。
エマも。
セラも。
自分も。
レインは小さく息を吐いた。
「……俺は」
その先の言葉が出てこなかった。
生きる。
そう言い切ることもできなかった。
奪わない。
そう誓うこともできなかった。
ただ、明日も朝が来る。
そして、自分はまた選ばなければならない。
誰かの時間を奪うのか。
それとも、奪わずに苦しみ続けるのか。
レインは目を閉じた。
眠っている間だけは、この飢えを忘れられる。
それが今の彼に残された、唯一の安らぎだった。
――けれど、その夜。
レインは夢を見た。
知らない男が、目の前に立っていた。
男は何も言わない。
ただ、レインを見つめている。
レインは男に手を伸ばした。
触れた瞬間。
男の表情が恐怖に変わった。
それでも、レインは手を離さなかった。
男の時間を奪い続けた。
そして。
男が倒れたあと、夢の中のレインは笑っていた。
満足そうに。
幸せそうに。
――ああ、やっと腹が満たされた。
「……っ!」
レインは飛び起きた。
全身が汗で濡れていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、自分の両手を見る。
何もない。
誰にも触れていない。
誰の時間も奪っていない。
ただの夢だった。
「……夢、か」
レインは胸を押さえた。
心臓が激しく脈打っている。
そして、気づいた。
夢の中で、男の寿命を奪ったとき。
自分は確かに、幸せだと感じていた。
恐ろしいほどの満足感。
身体の奥から湧き上がる、生きているという実感。
その感覚だけが、目覚めたあとも残っていた。
レインは震える手で顔を覆った。
「……やめてくれ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど。
身体の奥から、確かに声が聞こえてくるような気がした。
――もっと、生きたい。
レインは目を閉じた。
その願いが、自分自身のものだということだけは、否定できなかった。
第7話・終




