第6話 奪わない理由
朝、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の床を照らしている。
レインはベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。
時計は午前七時十二分。
以前なら、そろそろ制服に着替えている時間だった。
だが、今日も学校へ行くつもりはなかった。
行けないのではない。
行こうと思えば行ける。
ただ、教室に座り、友人たちと笑い、何事もなかったように授業を受ける。
そんな自分が想像できなかった。
「……腹減った」
思わず口にしてから、レインは苦笑した。
昨日の夜は、ちゃんと夕飯を食べた。
今朝もパンくらいなら食べられるだろう。
けれど、身体が求めているのは食べ物ではない。
もっと別のものだ。
人間の、残された時間。
それを奪えば、この不快な感覚は消える。
レインは両手を顔に押し当てた。
「……最悪だ」
誰かの人生を奪いたい。
そんなことを考える自分が、嫌だった。
しかし、嫌だと思ったところで、欲求が消えるわけではなかった。
そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。
画面には、セラからのメッセージが表示されていた。
『起きてる?』
レインは短く返信した。
『起きてる』
すぐに次のメッセージが届く。
『じゃあ外に出て』
『なんで?』
『いいから』
「……なんだよ、それ」
レインはため息をつきながら、ベッドから起き上がった。
◇
家の前には、セラが立っていた。
薄手の上着に短いスカート。
片手にはコンビニの袋を提げている。
「おはよう」
「……おはよう」
「顔色悪いね」
「おかげさまで」
「私、何かした?」
「してないけど」
セラは袋からサンドイッチを取り出した。
「はい」
「え?」
「朝ご飯」
「……食べたけど」
「じゃあ昼ご飯」
強引に押しつけられ、レインは受け取るしかなかった。
「それで、何の用?」
「散歩」
「は?」
「ずっと家にいるんでしょ?」
「……まあ」
「だったら歩こうよ」
セラはそう言うと、さっさと歩き始めた。
「ちょっと待てよ。俺、行くって言ってない」
「じゃあ来なくてもいいよ」
振り返りもしない。
レインは数秒迷ったあと、玄関の鍵を閉めた。
「……勝手な奴」
そう呟いて、後を追った。
◇
平日の午前中。
街には、いつもと変わらない日常が広がっていた。
仕事へ向かう人。
買い物帰りの老人。
ベビーカーを押す母親。
公園で遊ぶ小さな子供たち。
レインは、すれ違う人々を見ながら歩いていた。
以前は、何とも思わなかった光景だ。
けれど今は違う。
目の前の誰もが、自分の欲しいものを持っている。
時間。
これから生きるはずの、何年、何十年という時間。
「ねえ」
セラが声をかけた。
「何?」
「今、何考えてる?」
「……別に」
「嘘」
「なんで分かるんだよ」
「同じだから」
セラは足を止めた。
道路の向こう側では、横断歩道の信号が青に変わり、人々が一斉に歩き始めていた。
「あの人たちの時間、欲しいと思った?」
「……」
「思ったんでしょ?」
「……少し」
「少し?」
「分かったよ。欲しいと思った」
レインは苛立った声で答えた。
「でも奪わない。それだけだろ」
「うん」
セラはあっさり頷いた。
「それができるならね」
「……何が言いたいんだ?」
「今は我慢できる。それは分かるよ。でも明日は? 一週間後は? 一年後は?」
「……」
「ずっと我慢するの?」
レインは答えられなかった。
答えを持っていなかった。
「私はね」
セラは少しだけ声を落とした。
「最初、誰からも奪わないって決めてた」
「……え?」
「レインと同じ。絶対に喰わないって」
「じゃあ……」
「無理だった」
彼女は笑わなかった。
「我慢して、我慢して、もう嫌だって何度も思って。それでも生きたくて」
そこで言葉を切った。
「……奪った」
レインは何も言えなかった。
「その人、何も悪いことしてなかったんだ」
セラは横断歩道の向こうを見た。
「普通の人だった。たぶん、家族もいたと思う」
「……」
「でも、私はその人の時間を喰った」
信号が赤に変わった。
人の流れが途切れる。
「だからさ、私に偉そうなことを言う資格なんてないんだよ」
セラは再び歩き始めた。
レインも、その背中を追った。
◇
二人は駅前の商店街に入った。
平日とはいえ、人通りは多かった。
店先で客を呼び込む声。
自転車のベル。
飲食店から漂う料理の匂い。
そんな、ごく普通の日常だった。
「なあ、セラ」
「何?」
「お前は今も……喰ってるのか?」
「うん」
あまりにも簡単な返事だった。
「……そうか」
「嫌いになった?」
「いや……」
レインは言葉を探した。
セラが寿命を奪っている。
それは分かっていたはずだった。
それでも、本人の口から聞くと胸がざわついた。
「怖いとは思う」
「私が?」
「……うん」
「そっか」
セラは少しだけ笑った。
「それでいいと思うよ」
そのときだった。
「おい! ふざけんなよ!」
突然、怒鳴り声が響いた。
二人が振り返ると、商店街の一角で男が店員に詰め寄っていた。
男は三十代くらい。
顔を真っ赤にして、何かを怒鳴っている。
「だから、俺が頼んだのはこれじゃねえって言ってんだろ!」
「申し訳ありません。すぐにお取り替えしますので……」
「謝れば済むと思ってんのか!」
男はカウンターを強く叩いた。
周囲の人々が足を止める。
しかし、誰も近づこうとはしなかった。
「……嫌な奴」
セラが呟いた。
レインも同じことを思った。
男の怒鳴り声はさらに大きくなる。
「店長呼べよ! お前じゃ話になんねえんだよ!」
店員の女性は、今にも泣き出しそうだった。
レインは拳を握った。
胸の奥で、何かが動いた。
――あいつなら。
突然、そんな考えが浮かんだ。
あんな奴なら、少しくらい奪ってもいいんじゃないか。
何年も奪わなくたっていい。
一年。
いや、ほんの少しでも。
そうすれば、自分の飢えも少しは楽になるかもしれない。
そして、あの男も大人しくなる。
誰かを助けられる。
――だったら。
「レイン」
セラの声がした。
レインはハッとした。
自分が、いつの間にか男の方へ歩き出していたことに気づいた。
「……何?」
「今、何考えた?」
「……」
「答えて」
セラの声は、先ほどまでとは違っていた。
レインは男を見た。
まだ怒鳴っている。
周囲の迷惑など、まったく気にしていない。
「……あいつの時間なら」
小さく呟いた。
「奪ってもいいんじゃないかって」
セラは何も言わなかった。
「だって、そうだろ? あんな奴、周りに迷惑かけて……」
そこまで言って、レインは口を閉じた。
自分が何を言おうとしているのか、理解してしまった。
あんな奴。
悪い人間。
周囲に迷惑をかける人間。
だから、寿命を奪ってもいい。
――誰が、それを決めるんだ?
レインは男から視線を逸らした。
「……違う」
セラが首を傾げる。
「何が?」
「違うんだ」
レインは自分の手を見つめた。
「俺は、あの人を助けたいんじゃない」
店員の女性が、何度も頭を下げていた。
「ただ、あいつの時間を喰いたいだけだ」
そのための理由を、必死に探していただけだった。
レインは唇を噛んだ。
そして、もう一度男の方を向いた。
「……でも」
今度は、しっかりとした足取りで歩き始めた。
「ちょっと待って!」
セラが腕を掴もうとする。
「大丈夫」
レインは振り返った。
「喰わないから」
◇
「あの」
レインが声をかけると、男が振り向いた。
「あ?」
「店員さん、困ってますよ」
「何だ、お前?」
「言いたいことは分かりますけど、そんなに怒鳴らなくても……」
「ガキは引っ込んでろ!」
男が一歩近づいた。
レインは反射的に身構えた。
怖い。
当然だった。
相手は自分より身体が大きい。
殴られるかもしれない。
けれど、それ以上に怖いことがあった。
この男の寿命を奪おうと思えば、自分にはそれができる。
殴り返す必要もない。
力で勝つ必要もない。
相手にどんな家族がいようと、どんな人生が残っていようと。
それを奪えてしまう。
「何とか言えよ!」
男がレインの胸ぐらを掴んだ。
その瞬間。
レインの身体を、強烈な欲求が駆け抜けた。
――喰え。
喰ってしまえ。
目の前にいる。
触れている。
今なら奪える。
レインの指先が震えた。
男はなおも怒鳴っていた。
「聞いてんのか!」
――喰えば、終わる。
その考えが浮かんだ瞬間、レインは目を閉じた。
リリアの顔が浮かんだ。
優しく笑っていた。
いつものように、自分の名前を呼んでいた。
その笑顔が、消えた。
「……離してください」
「あ?」
「離してくれって言ってるんです」
レインは男の手を掴んだ。
ただ、胸ぐらから引き離すために。
それ以上のことはしなかった。
「お客様! やめてください!」
別の店員が飛び出してきた。
騒ぎを聞きつけた商店街の警備員も駆け寄ってくる。
「どうしました?」
周囲の人々が事情を説明し始めた。
男は何かを言い返していたが、警備員に促され、渋々店の外へ出ていった。
レインはその場に立ち尽くした。
店員の女性が、深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございました……」
「……いえ」
レインはそれだけ答えた。
自分の手が、まだ震えていた。
◇
「馬鹿じゃないの?」
商店街を抜けたところで、セラが言った。
「……何が?」
「殴られるかもしれなかったんだよ?」
「分かってる」
「それに、あの人の時間を喰いたかったんでしょ?」
「……うん」
「だったら、わざわざ近づかない方がよかったのに」
「そうかもな」
レインはベンチに腰を下ろした。
セラも隣に座る。
しばらく、二人は黙っていた。
「……怖かった」
レインが呟いた。
「男の人が?」
「違う」
レインは首を振った。
「俺が、俺じゃなくなることが」
セラは何も言わなかった。
「あいつを喰っていい理由が、次から次へと浮かんできたんだ」
レインは自分の手を見つめた。
「悪い奴だから。誰かを困らせてるから。俺だって苦しいから」
声が震えた。
「そうやって考えてたら、本当に奪ってもいい気がしてきた」
「……」
「でも、それを始めたら……」
レインは言葉を切った。
次は誰だろう。
犯罪者。
嫌いな人間。
自分を傷つけた人間。
理由なんて、いくらでも作れる。
そして、いつか。
理由すら必要なくなるのかもしれない。
「……俺、そうなりたくない」
セラは膝の上で手を組んだ。
「じゃあ、どうするの?」
「分からない」
「ずっと奪わない?」
「……分からない」
「死ぬかもしれないよ?」
「それも……分かってる」
情けない答えだった。
何も決められていない。
けれど、今のレインには、それ以上のことを言えなかった。
セラはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そっか」
「呆れた?」
「ううん」
彼女は首を振った。
「ちょっと羨ましい」
「……何が?」
「まだ、そうやって悩めること」
レインが顔を上げる。
セラは空を見ていた。
「私もね、最初はいっぱい考えたんだ」
その表情は、どこか寂しげだった。
「どうして私がこんな身体になったんだろうって。どうして誰かを犠牲にしないと生きられないんだろうって」
「……」
「でも、いつの間にか考えなくなっちゃった」
セラは笑った。
いつもの明るい笑顔だった。
だからこそ、レインには何も言えなかった。
「喰わなきゃ生きられない。だったら喰うしかない」
彼女は自分の両手を見下ろした。
「そう考えた方が、楽だから」
レインはその横顔を見つめた。
セラは、自分よりずっと長く、この苦しみと付き合ってきたのだろう。
何度も悩み、何度も諦めたのかもしれない。
そんな彼女に、簡単に間違っているとは言えなかった。
「……なあ、セラ」
「何?」
「お前は、今の自分が嫌いか?」
セラは少し驚いた顔をした。
そして、考え込んだ。
「……どうだろう」
しばらくして、そう答えた。
「嫌いなところは、いっぱいあるよ」
「……」
「でも、死にたくないんだ」
その言葉は、驚くほど静かだった。
「私、まだ生きたい」
レインは俯いた。
同じだった。
自分も死にたくない。
あれほど恐ろしいことをしてしまったのに。
リリアの時間を奪ってしまったのに。
それでも、生きたいと思っている。
その事実から、目を逸らすことはできなかった。
◇
帰り道。
セラが突然、思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ」
「何?」
「レインに会わせたい人がいるんだ」
「……誰?」
「時間喰い」
レインは足を止めた。
「お前以外にもいるのか?」
「いるよ。私たちだけのはずないでしょ?」
「……そうだけど」
頭では理解していた。
自分とセラ以外にも、同じ存在がいる。
けれど、それを現実として考えたことはなかった。
「どんな奴なんだ?」
「ちょっと変わった人」
「……それだけ?」
「うん」
セラは笑った。
「でも、レインには会っておいた方がいいと思う」
「どうして?」
「その人ね」
セラは少しだけ声を落とした。
「昔、誰からも時間を奪わずに生きようとしたことがあるんだって」
レインは息を呑んだ。
「……それで?」
「さあ?」
「さあって……」
「詳しいことは、本人に聞いて」
セラは再び歩き出した。
レインはその背中を追いながら考えた。
誰からも奪わずに生きる。
それは、今の自分が望んでいることだった。
その人は、どうなったのだろう。
諦めたのか。
それとも、何か方法を見つけたのか。
答えがあるなら、知りたい。
たとえ、自分にとって都合の悪い答えだったとしても。
「……会ってみたい」
レインが言うと、セラは振り返った。
「うん。じゃあ決まり」
そして、いつもの調子で笑った。
「ただし、ひとつだけ忠告」
「何?」
「その人の話を、全部信じない方がいいよ」
「……え?」
セラは前を向いた。
「時間喰いだから」
それ以上、何も言わなかった。
レインは、その言葉の意味を考えながら歩いた。
時間喰い。
他人の寿命を奪って生きる存在。
その中に、善人や悪人という区別はあるのだろうか。
あるとすれば、誰がそれを決めるのだろう。
そして、自分は。
いったい、どちらなのだろう。
レインは答えを出せないまま、歩き続けた。
ただ、ひとつだけ。
今日、自分は誰の時間も奪わなかった。
それがどれほど小さなことなのかも、分かっていた。
それでも。
今のレインにとっては、何よりも大切な一日だった。
――明日も同じ選択ができる保証は、どこにもなかった。
第6話・終




