第5話 普通の一日
朝、目が覚めた。
時計は七時を少し過ぎていた。
レイン・ハースは天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
学校へ行かなければ。
そう思った。
けれど、すぐに思い出した。
自分はもう、以前と同じ人間ではない。
レインは布団をめくり、身体を起こした。
窓の外から、路面電車の走る音が聞こえてくる。
いつもの朝だった。
ただ一つ。
台所から、母親の声が聞こえないことを除けば。
◆
冷蔵庫には、昨日作ったシチューが残っていた。
レインは鍋に移して温め直した。
少し水分が減っていたので、牛乳を足す。
母親がよくやっていたことだった。
「……これでいいのかな」
独り言を呟く。
鍋から湯気が立ち上った。
皿によそい、パンと一緒に食べる。
昨日より、少しだけ美味しくなっていた。
レインは小さく頷いた。
「……うん」
普通に食事ができる。
普通に眠れる。
普通に歩ける。
身体は、何の問題もなかった。
それなのに。
胸の奥には、相変わらず奇妙な飢えがあった。
人間の時間を欲しがる、あの感覚。
レインはスプーンを置いた。
「……今日は、どうしよう」
学校へは行けない。
人が多すぎる。
昨日の葬儀で、思い知らされた。
友人の肩に触れられただけで、時間を喰いたくなった。
教室に戻れば、もっと多くの人間がいる。
自分が何をしてしまうか、分からない。
レインは携帯端末を取り出した。
学校から、何件もメッセージが届いていた。
担任の教師。
トーマ。
クラスの友人たち。
『無理しなくていいからな』
『落ち着いたら連絡して』
『何か必要なものがあったら言って』
どれも優しい言葉だった。
レインは返信画面を開いた。
『しばらく休みます』
それだけ打って、送信した。
◆
午前十時。
レインは家の掃除を始めた。
何かしていないと、余計なことを考えてしまう。
居間の床を掃き、台所を片づける。
洗濯物を干し、ゴミをまとめる。
母親が毎日していたことだった。
やってみると、思っていたより時間がかかった。
「……こんなに大変だったんだ」
レインは洗濯物を見上げた。
リリアは仕事をしながら、これを毎日こなしていた。
自分は学校から帰ると、食事ができるまで部屋で過ごしていた。
時々、皿洗いを手伝う程度だった。
「……もっと、手伝えばよかったな」
風が吹いた。
洗濯物が揺れた。
レインはしばらく、それを眺めていた。
◆
昼過ぎ。
携帯端末が鳴った。
知らない番号だった。
レインは少し迷ってから通話に出た。
「……はい」
『レイン君か?』
聞き覚えのある声だった。
「……ローデンさん?」
『ああ。昨日は突然訪ねてすまなかった』
「……いえ」
『体調はどうだ?』
「普通です」
『飢えは?』
レインは黙った。
『……あるんだな』
「……はい」
『今は一人か?』
「はい」
『それならいい。できるだけ人との接触を避けてくれ』
「……分かってます」
少し強い口調になってしまった。
ローデンは気にした様子もなく続けた。
『それから、一つ確認したい』
「……何ですか」
『昨日、葬儀場で誰かに声をかけられなかったか?』
レインは顔を上げた。
「……どうして?」
『君の周辺で、少し気になる動きがあった』
「……女の子に会いました」
『女の子?』
「セラって名乗ってました」
通話の向こうで、沈黙があった。
『……セラ』
「知ってるんですか?」
『……いや、名前だけでは分からない』
ローデンは少し間を置いた。
『その少女は、何か言っていたか?』
「自分も時間喰いだって」
『……そうか』
「それから……」
レインは昨日の会話を思い出した。
『お葬式って、人がいっぱい集まるでしょ』
あの言葉。
冗談だと言っていた。
けれど、本当に冗談だったのだろうか。
「……人の時間を喰ったことがあるって、言ってました」
『何人か分かるか?』
「数えてないって」
再び、沈黙。
『レイン君』
「……はい」
『その少女には、できるだけ近づかない方がいい』
「……どうしてですか」
『時間喰いは、必ずしも仲間ではない』
レインは黙った。
『同じ存在だからといって、同じ考え方をしているとは限らない』
「……」
『君を利用しようとする者もいる』
レインは携帯端末を握りしめた。
「……分かりました」
『何かあれば、すぐ連絡してくれ』
通話が切れた。
レインは画面を見つめた。
セラ。
昨日、初めて出会った時間喰い。
明るく笑っていた少女。
けれど、その笑顔の奥には、何かがあった。
「……利用、か」
レインは小さく呟いた。
◆
午後三時。
レインは家を出た。
食材が少なくなっていた。
買い物に行かなければ、夕食を作れない。
ローデンには人との接触を避けろと言われた。
けれど、家に閉じこもっているだけでは生活できない。
レインは人通りの少ない道を選んだ。
大通りを避け、住宅街を抜ける。
小さな食料品店があった。
店内には客が二人しかいなかった。
レインは少し安心した。
牛乳。
卵。
パン。
野菜。
必要なものだけを籠に入れる。
レジへ向かった。
「いらっしゃいませ」
若い女性店員が笑顔で迎えた。
レインは目を伏せた。
商品を並べる。
店員が会計を進める。
「合計で、二十四セルです」
レインは携帯端末をかざした。
支払いが終わる。
「ありがとうございました」
店員が袋を差し出した。
レインは手を伸ばした。
その時。
店員の指先が、ほんの少し触れた。
――欲しい。
胸の奥が熱くなった。
喉が鳴った。
レインは袋を掴み、慌てて手を引いた。
「……ありがとうございました」
足早に店を出る。
外に出てから、深く息を吐いた。
「……はぁ」
何もしていない。
誰の時間も奪っていない。
それなのに、ひどく疲れた。
「……これが、毎日続くのか」
レインは買い物袋を見つめた。
学校へ行くことも。
買い物をすることも。
友人と話すことも。
これからは、すべてが危険になる。
普通に生きるだけで、誰かを傷つけるかもしれない。
◆
「買い物、できたんだ」
突然、後ろから声がした。
レインは振り返った。
そこには、セラが立っていた。
昨日と同じ、淡い茶色の髪。
今日は明るい色の上着を着ている。
片手には、小さな紙袋。
「……セラ」
「やっほ」
少女は笑って手を振った。
「また会ったね」
「……どうしてここに?」
「買い物」
セラは紙袋を持ち上げた。
「パン買ってきた」
「……」
「何、その顔」
「……いや」
レインは少し迷った。
ローデンの言葉が頭をよぎる。
『その少女には、できるだけ近づかない方がいい』
けれど。
目の前のセラは、普通の少女にしか見えなかった。
「……セラは」
「うん?」
「普段、何してるの?」
セラは首を傾げた。
「普段?」
「……時間喰いとして、どうやって生活してるのかと思って」
「ああ」
セラは少し考えた。
「普通に生活してるよ」
「……普通に?」
「うん。買い物して、ご飯食べて、寝て、たまに仕事して」
「……仕事?」
「いろいろ」
曖昧な答えだった。
「……人間と一緒に?」
「そりゃそうでしょ」
セラは笑った。
「街に住んでるんだから」
レインは黙った。
「……怖くないの?」
「何が?」
「……人間の近くにいること」
セラは少し考えた。
「怖い時もあるよ」
「……」
「でも、ずっと一人でいたら、つまんないじゃん」
レインは顔を上げた。
「……つまらない?」
「うん」
セラは当たり前のように頷いた。
「私たちだって、生きてるんだから」
その言葉が、妙に胸に残った。
◆
二人は人通りの少ない公園へ移動した。
ベンチに座る。
少し距離を空けて。
セラは紙袋からパンを取り出した。
「食べる?」
「……いいの?」
「もちろん」
レインは小さなパンを受け取った。
甘い香りがした。
一口食べる。
「……美味しい」
「でしょ?」
セラは嬉しそうに笑った。
「ここのパン、好きなんだ」
レインはパンを見つめた。
普通の食べ物。
普通の味。
普通の会話。
時間喰い同士だということを忘れそうだった。
「……セラ」
「うん?」
「時間喰いって、他にもいるの?」
「いるよ」
「……たくさん?」
「さあ。数えたことない」
セラは肩をすくめた。
「でも、街に何人かはいると思う」
「……」
「会ったことあるし」
レインは顔を上げた。
「……どんな人?」
「いろんな人」
セラは指を折りながら話した。
「すごく長く生きてる人とか、普通に働いてる人とか、いつも怒ってる人とか」
「……」
「あと、すぐ喰う人」
レインの手が止まった。
「……すぐ?」
「うん。お腹が空いたら、すぐ」
セラはパンを一口食べた。
「そういう人もいる」
「……人を殺して?」
「必ず殺すわけじゃないよ」
レインは顔を上げた。
「……え?」
「時間を全部喰わなければ、その人は生きてる」
「……」
「ただ、寿命は短くなるけどね」
レインは黙った。
「少しずつ喰う人もいるよ。相手に気づかれないくらい」
「……そんなことが」
「できる」
セラは頷いた。
「でも、難しいんだよね」
「……何が?」
「止めるの」
セラは自分の手を見つめた。
「喰い始めると、もっと欲しくなるから」
レインは、母親の手を握った夜を思い出した。
あの時。
確かに、止められなかった。
「……セラは、止められるの?」
セラは少し笑った。
「……時々ね」
その答えが、レインには恐ろしかった。
◆
公園には、小さな子供が何人か遊んでいた。
母親たちが、少し離れた場所で話している。
レインは無意識に、そちらを見た。
子供が笑っている。
母親が手を振っている。
普通の光景だった。
けれど。
――欲しい。
胸の奥が熱くなった。
レインは慌てて目を逸らした。
「……また?」
セラが尋ねた。
「……うん」
「大変だね」
「……セラは平気なの?」
セラは子供たちを見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……平気じゃないよ」
レインは顔を上げた。
「私だって、ずっと我慢してる」
「……」
「でも、我慢するのって、疲れるんだよね」
セラは笑った。
けれど、その笑顔には疲れが滲んでいた。
「……レインは、どれくらい我慢できると思う?」
レインは答えられなかった。
「一週間?」
「……」
「一ヶ月?」
「……」
「一年?」
セラは静かに続けた。
「十年?」
レインは俯いた。
考えたこともなかった。
これから先。
毎日。
何年も。
人間の時間を喰いたい衝動と戦い続ける。
それが、どれほど長いことなのか。
「……分からない」
レインは正直に答えた。
セラは頷いた。
「うん」
そして、少し寂しそうに笑った。
「私も、分からなかった」
◆
夕方。
レインは買い物袋を持って立ち上がった。
「……そろそろ帰る」
「うん」
セラも立ち上がった。
「また会える?」
レインは少し迷った。
ローデンの警告。
セラの言葉。
どちらも、頭に残っていた。
「……分からない」
「そっか」
セラは笑った。
「じゃあ、また会えたら」
そう言って手を振った。
レインは少し歩いてから振り返った。
「……セラ」
「何?」
「……今日は、ありがとう」
セラは目を丸くした。
そして、笑った。
「どういたしまして」
レインは帰路についた。
少しだけ、気持ちが軽くなっていた。
同じ時間喰いがいる。
自分だけではない。
それが、救いのように思えた。
◆
セラは、レインの背中が見えなくなるまで見送っていた。
そして、ベンチに座り直した。
紙袋には、まだパンが一つ残っている。
セラはそれを取り出した。
一口食べる。
甘い。
美味しい。
けれど、足りない。
「……はぁ」
小さく息を吐いた。
公園の向こうでは、子供たちが遊んでいる。
その近くで、母親たちが笑っていた。
セラは、しばらくその光景を見つめた。
やがて、携帯端末を取り出す。
画面には、昨日の相手からメッセージが届いていた。
『新人はどうだ?』
セラは少し考えた。
『いい子だよ』
送信する。
すぐに返信が来た。
『それは困ったな』
セラは画面を見つめた。
しばらくして、文字を打った。
『……何が?』
返事は短かった。
『いい子ほど、長くは持たない』
セラは携帯端末を伏せた。
公園には、子供たちの笑い声が響いている。
セラは残りのパンを食べた。
そして、小さく呟いた。
「……そうかもね」
彼女は立ち上がった。
夕暮れの街へ歩き出す。
その表情からは、もう笑顔が消えていた。
――第5話 終




