第4話 母の葬儀
母親の葬儀の日は、雨だった。
レイン・ハースは黒い上着を着て、鏡の前に立っていた。
襟元が少し曲がっている。
いつもなら、リリアが直してくれた。
『もう、十八歳なんだから。これくらい自分でできるでしょう?』
そう言いながら、結局は直してくれる。
レインは自分で襟を整えた。
何度やっても、うまくいかなかった。
「……これでいいか」
鏡の中の自分に尋ねる。
返事はない。
玄関の呼び鈴が鳴った。
迎えに来たマーサだった。
◆
葬儀場は、街の外れにあった。
大きな建物ではない。
白い壁に、木製の扉。
中には小さな礼拝堂があり、正面にはリリアの写真が飾られていた。
写真の中の母親は、笑っていた。
去年、二人で出かけた時に撮ったものだ。
レインが撮影した。
『もう少し笑ってよ』
『笑ってるじゃない』
『いつもと同じ顔だよ』
『じゃあ、あなたも一緒に写りなさい』
そんな会話をした。
レインは写真の前に立った。
「……母さん」
小さく呟く。
写真の母親は、何も答えなかった。
当然だった。
それでも、何か言ってほしかった。
怒ってほしかった。
どうして私の時間を奪ったの、と。
どうしてあなたが生きているの、と。
そう責めてくれた方が、まだよかった。
けれど、写真のリリアは笑っていた。
あの夜と同じように。
◆
葬儀には、思っていたより多くの人が来た。
近所の人。
リリアの職場の同僚。
昔からの知人。
そして、レインの学校の友人たち。
「……レイン」
声をかけてきたのは、同級生のトーマだった。
背が高く、普段はよく笑う少年だ。
今日は黒い服を着ていた。
「……来てくれたんだ」
「当たり前だろ」
トーマは少し困ったように笑った。
「先生も来てる。クラスのみんなも、何人か」
「……ありがとう」
「身体は、もう大丈夫なのか?」
「ああ」
「本当に?」
「……うん」
トーマはレインの顔を見つめた。
「無理すんなよ」
そう言って、肩を軽く叩いた。
その瞬間だった。
――欲しい。
レインの胸の奥が熱くなった。
トーマの手。
生きている人間の温かさ。
そこにある、まだ使われていない時間。
レインは反射的に身体を引いた。
「……っ!」
「どうした?」
「……いや」
トーマが首を傾げる。
「顔色、悪いぞ」
「……大丈夫」
レインは無理に笑った。
トーマはそれ以上、何も聞かなかった。
「何かあったら言えよ」
「……うん」
友人は礼拝堂の奥へ歩いていった。
レインはその背中を見つめた。
小学校からの友人だった。
一緒に遊び、一緒に喧嘩をし、同じ学校に通ってきた。
そんな相手にさえ。
時間を喰いたいと思った。
「……ごめん」
聞こえない声で呟いた。
◆
葬儀が始まった。
静かな音楽が流れる。
参列者たちが順番に花を手向けていく。
レインは最前列に座っていた。
隣にはマーサがいる。
彼女は時折、ハンカチで目元を押さえていた。
リリアとは長い付き合いだった。
レインが幼い頃から、二人は親しかった。
「……あの子、本当に優しい子だったのよ」
マーサが小さく呟いた。
「あなたが熱を出した時なんて、夜中でも何度も様子を見に行って……」
レインは俯いた。
「……はい」
「自分のことより、いつもあなたのことばかり」
「……」
「あなたが無事で、本当によかった」
その言葉に、レインの胸が締めつけられた。
無事でよかった。
母親も、同じことを言った。
けれど。
自分が助かったから、母親は死んだ。
「……マーサさん」
「なあに?」
「もし……」
言いかけて、止まった。
もし、自分が母親を殺したと知ったら。
それでも、同じことを言ってくれるだろうか。
「……何でもないです」
マーサは優しく微笑んだ。
その優しさが、今は苦しかった。
◆
葬儀が終わる頃には、雨が少し強くなっていた。
参列者たちが帰り始める。
レインは一人一人に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「身体に気をつけてね」
「何かあったら頼っていいんだから」
「お母さんも、きっと安心しているわ」
皆、優しかった。
誰も責めなかった。
誰も疑わなかった。
そして。
誰も知らなかった。
リリアが死んだ本当の理由を。
レインは何度も頭を下げた。
そのたびに、近づいてくる人間の時間を感じた。
まるで、目の前に食べ物を並べられているようだった。
喉が渇く。
口の中に唾液が溜まる。
胸の奥が熱くなる。
――喰いたい。
レインは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
それでも、衝動は消えなかった。
◆
「少し、外の空気を吸ってきます」
マーサにそう告げて、レインは礼拝堂を出た。
建物の裏には、小さな庭があった。
雨に濡れた石畳。
葉を揺らす木々。
誰もいないベンチ。
レインは屋根のある通路に立ち、深く息を吐いた。
「……はぁ」
身体が震えていた。
疲れているわけではない。
腹が減っているわけでもない。
ただ、欲しかった。
人間の時間が。
母親の葬儀なのに。
母親を殺したばかりなのに。
「……どうしてだよ」
レインは壁に拳を当てた。
「どうして……!」
涙が溢れた。
自分が嫌だった。
こんな身体になってしまったことが。
何より。
その衝動を、心のどこかで心地よいと感じていることが。
「……もう、誰も喰いたくない」
声に出した。
「絶対に……」
「それ、難しいと思うよ」
突然、声がした。
レインは振り返った。
通路の向こうに、一人の少女が立っていた。
年齢は、レインと同じくらいだろうか。
肩まで伸びた淡い茶色の髪。
黒い上着に、短いスカート。
手には、閉じた傘を持っている。
見覚えのない少女だった。
「……誰?」
レインが尋ねる。
少女は少し首を傾げた。
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「……え?」
「こんなところで、何してるの?」
「……葬儀です」
「ああ、そっか」
少女は礼拝堂の方を見た。
「じゃあ、あの人の家族?」
「……はい」
「そっか」
少女は小さく頷いた。
そして、レインを見つめた。
「……お腹、空いてるでしょ」
レインの身体が強張った。
「……何で」
「分かるよ」
少女は笑った。
「だって、私もそうだから」
◆
レインは一歩後ずさった。
「……あなたも?」
「うん」
少女はあっさり頷いた。
「時間喰い」
その言葉を聞いた瞬間、レインの心臓が跳ねた。
ローデンが教えてくれた言葉。
人間の寿命を奪う存在。
自分と同じ怪物。
「……本当に?」
「嘘ついてどうするの」
少女は肩をすくめた。
「まあ、信じなくてもいいけど」
「……」
「でも、さっきからずっと我慢してるでしょ?」
レインは黙った。
「分かるんだよね。そういうの」
少女はゆっくり近づいてきた。
レインは身構えた。
「……来ないで」
「え?」
「……俺、まだ」
少女は足を止めた。
そして、少し驚いた顔をした。
「……ああ」
何かに気づいたようだった。
「なったばっかりなんだ」
レインは頷いた。
「……三日前に」
「三日?」
少女は目を丸くした。
「え、じゃあ本当に新人じゃん」
「……新人?」
「時間喰いになったばかりってこと」
少女は笑った。
まるで、新しい学校に転校生が来たような口調だった。
レインは、その軽さについていけなかった。
「……笑い事じゃない」
「うん?」
「俺は……母さんを……」
声が詰まった。
少女の笑顔が、少しだけ消えた。
「……そっか」
短く答えた。
それ以上、何も聞かなかった。
◆
「ねえ」
少女が口を開いた。
「名前、何ていうの?」
「……レイン」
「レインか」
少女は小さく頷いた。
「私はセラ」
「……セラ」
「よろしく」
そう言って、手を差し出してきた。
レインは思わず後ずさった。
セラは差し出した手を見つめた。
「ああ、ごめん」
すぐに引っ込めた。
「まだ怖いよね」
「……」
「大丈夫。握手したくらいで、勝手に時間を喰っちゃうわけじゃないから」
レインは顔を上げた。
「……本当?」
「うん。喰おうとしなければ、普通に触れるよ」
「……」
「まあ、喰いたくなるのは別だけど」
セラはあっさり言った。
レインは黙った。
それは、少しだけ救いだった。
人に触れただけで殺してしまうわけではない。
けれど。
喰いたいと思えば、喰えてしまう。
「……セラは」
「うん?」
「人間の時間を……喰ったこと、ある?」
セラは答えなかった。
雨の音だけが響いた。
やがて、彼女は小さく笑った。
「あるよ」
レインは息を呑んだ。
「……何人?」
「数えてない」
あまりにも自然な返事だった。
レインは言葉を失った。
セラは雨の降る庭を見つめた。
「最初は、数えてたんだけどね」
「……」
「途中から、嫌になっちゃった」
レインは彼女の横顔を見た。
笑っている。
けれど、その目は笑っていなかった。
「……怖くないの?」
レインが尋ねた。
「何が?」
「人を……殺すこと」
セラは少し考えた。
「怖いよ」
意外な答えだった。
「すっごく怖い」
「……だったら」
「でもね」
セラはレインを見た。
「死ぬのも怖いんだよ」
レインは何も言えなかった。
その言葉は、あまりにもよく分かった。
自分もそうだった。
死にたくなかった。
だから、母親の時間を喰った。
「……レインは、どうするつもり?」
セラが尋ねた。
「……何が?」
「これから」
レインは俯いた。
「……誰も喰わない」
セラは黙っていた。
「もう、絶対に……誰の時間も奪わない」
しばらくして、セラが口を開いた。
「そっか」
それだけだった。
笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ、少し寂しそうな顔をした。
「……私も、最初はそう思ってた」
◆
雨が弱くなり始めた。
礼拝堂の方から、マーサがレインを呼ぶ声が聞こえた。
「レイン?」
「……あ」
レインは振り返った。
「戻らなきゃ」
「うん」
セラは頷いた。
「じゃあ、またね」
「……また?」
「うん。また会うと思う」
「……どうして?」
セラは少し笑った。
「だって、同じ時間喰いだもん」
そう言って、傘を開いた。
雨の中へ歩き出す。
レインはその背中を見つめた。
「……セラ!」
少女が振り返る。
「何?」
「……どうして、ここにいたの?」
セラは少し考えた。
そして、答えた。
「……お葬式って、人がいっぱい集まるでしょ」
レインの背筋が冷たくなった。
セラは笑った。
「冗談だよ」
そう言って、手を振った。
少女は雨の中へ消えていった。
レインはしばらく、その場から動けなかった。
冗談。
本当に、冗談だったのだろうか。
分からなかった。
◆
その夜。
レインは自宅の台所に立っていた。
冷蔵庫を開ける。
中には、リリアが買っておいた食材が残っていた。
じゃがいも。
玉ねぎ。
にんじん。
牛乳。
そして、肉。
レインはそれらを取り出した。
料理は得意ではない。
けれど、母親が作ってくれたシチューなら、何度も見ていた。
野菜を切る。
鍋に入れる。
水を加える。
ゆっくり煮込む。
途中で、何度も手が止まった。
リリアなら、もっと手際よく作っただろう。
もっと美味しくできただろう。
それでも、レインは作り続けた。
やがて、台所に温かい匂いが広がった。
レインは一人分を皿によそった。
テーブルに座る。
向かいの椅子は、空いていた。
「……いただきます」
スプーンを口に運ぶ。
少し味が薄かった。
野菜も、煮込みすぎていた。
母親の味とは、全然違った。
それでも。
レインは食べた。
一口。
また一口。
涙が落ちた。
「……母さん」
声が震えた。
「……美味しく、できなかったよ」
返事はなかった。
レインは泣きながら、最後まで食べた。
皿は空になった。
腹は満たされた。
けれど。
あの飢えだけは、消えなかった。
◆
同じ頃。
街の中心部にある、小さな飲食店。
セラは窓際の席に座っていた。
目の前には、温かい飲み物が置かれている。
彼女は携帯端末を取り出し、短いメッセージを送った。
『見つけたよ』
しばらくして、返信が届いた。
『どうだった?』
セラは少し考えた。
そして、文字を打った。
『まだ、人間でいたいみたい』
送信する。
すぐに、次のメッセージが届いた。
『それで?』
セラは画面を見つめた。
葬儀場で出会った少年。
母親を失ったばかりの時間喰い。
誰も喰わないと誓った、その顔。
セラは小さく息を吐いた。
『……どうなるかな』
送信した。
携帯端末を伏せる。
窓の外では、雨が上がり始めていた。
セラはカップを持ち上げた。
一口飲む。
甘い。
美味しい。
けれど、満たされない。
「……お腹、空いたな」
小さく呟いた。
店内には、何人もの客がいた。
誰もが笑い、話し、食事をしている。
セラは、その光景を眺めた。
そして、静かに目を閉じた。
――第4話 終




