第3話 人の時間を喰う者
玄関の呼び鈴が、三度目の音を鳴らした。
レインは階段の途中で立ち尽くしていた。
扉の向こうにいる男たちは、知っている。
母親が死んだ理由を。
自分が何をしたのかを。
「レイン・ハース君。聞こえているんだろう?」
落ち着いた男の声。
「警察じゃない。君を逮捕しに来たわけでもない」
レインは手すりを握りしめた。
警察じゃない。
それなら、何者なのか。
「……帰ってください」
ようやく声を絞り出した。
扉の向こうで、少し間が空いた。
「そうしたいところだが、君をこのままにしておくわけにはいかない」
「俺は何も……」
言いかけて、口を閉じた。
何もしていない。
そんなことは言えなかった。
「……何なんですか、あなたたち」
「話を聞いてくれるなら、説明する」
レインはしばらく迷った。
しかし、男たちが帰ったところで、自分の身体が元に戻るわけではない。
ゆっくり階段を下りた。
玄関の鍵を開ける。
扉の向こうには、二人の男が立っていた。
一人は五十代ほど。
短く整えた灰色の髪に、黒いコート。
もう一人は二十代後半くらいの青年で、肩に小さな鞄を掛けている。
年配の男が軽く頭を下げた。
「夜分にすまない」
「……誰ですか」
「ローデンという」
男は名乗った。
「こちらはエリク。私の仕事を手伝っている」
若い男が小さく会釈した。
「……仕事?」
「ああ」
ローデンはレインを見つめた。
「君のような人間を探す仕事だ」
◆
二人を家に入れるべきか。
レインは迷った。
だが、玄関先で話しているところを近所の人に見られるのも嫌だった。
「……入ってください」
「ありがとう」
ローデンとエリクは、靴を脱いで家に上がった。
居間へ案内する。
リリアがいつも座っていた椅子が目に入った。
レインは思わず足を止めた。
「……どうした?」
「いえ」
レインはその椅子を避け、自分の席に座った。
ローデンは向かいに腰を下ろした。
エリクは少し離れた場所に立っている。
「最初に確認したい」
ローデンが口を開いた。
「君は、七日前に原因不明の病で倒れた。間違いないか?」
「……はい」
「医師には原因が分からなかった」
「はい」
「そして昨夜、君の母親が亡くなった直後、君の身体は回復した」
レインは唇を噛んだ。
「……何が言いたいんですか」
「その時、何かを感じなかったか?」
「……」
「痛みでも、熱でもいい。今まで経験したことのない感覚だ」
レインの頭に、あの夜の光景が蘇った。
母親の手。
温かさ。
胸の奥から湧き上がった、強烈な飢え。
「……感じました」
ローデンの表情が変わった。
「どんな?」
「……欲しくなったんです」
「何が?」
「分かりません」
レインは自分の手を見つめた。
「母さんの中にある……何かが」
声が震えた。
「それを喰えば、助かるって……なぜか、分かったんです」
エリクが小さく息を呑んだ。
ローデンは黙って聞いていた。
「俺は……」
レインは顔を上げた。
「俺は、母さんに何をしたんですか?」
ローデンはしばらく答えなかった。
やがて、静かに言った。
「君は、母親の時間を喰った」
「……時間?」
「ああ」
「何を言って……」
「言葉どおりだ」
ローデンは続けた。
「人間には、生まれてから死ぬまでの時間がある。君は、母親に残されていた時間を奪い、自分のものにした」
レインは理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
「……そんなこと、できるわけ」
「普通の人間にはできない」
ローデンは言った。
「だが、君にはできる」
レインは顔を上げた。
「……どうして」
「君が、時間喰いになったからだ」
◆
「時間……喰い?」
初めて聞く言葉だった。
ローデンは頷いた。
「人間の寿命を奪い、自分の寿命を延ばす存在だ」
「……人間じゃ、ないんですか」
「元は人間だ」
レインは黙った。
「生まれた時から時間喰いだったという話は、私は知らない。ある日、普通の人間が突然変わる」
「……病気なんですか?」
「病気と呼んでいいのかどうかも分からない」
「治るんですか?」
ローデンは答えなかった。
「……治るんですよね?」
「少なくとも、私の知る限りでは治った者はいない」
レインの指が震えた。
「……じゃあ、俺は」
「これからも時間喰いとして生きることになる」
部屋が静まり返った。
壁時計の音が、妙に大きく聞こえた。
「……いつから、そんなものがいるんですか」
「分からない」
ローデンは首を横に振った。
「古い文献にも記録がある。数百年前のものもあれば、もっと古い伝承にも似た存在が登場する」
「……伝承?」
「人の命を吸う妖怪。年を取らない魔女。夜になると村人を襲う悪霊」
ローデンは淡々と話した。
「すべてが時間喰いだったとは言わない。だが、その中には実際の時間喰いがいたと考えられる」
レインは窓の外を見た。
いつもの住宅街。
いつもの街灯。
どこにでもある、普通の夜。
その裏側に、そんな存在が昔からいた。
「……何人いるんですか」
「それも分からない」
「……あなたたちは、何なんですか」
ローデンはエリクに目を向けた。
エリクが鞄から薄い資料を取り出す。
「俺たちは、時間喰いに関係する事件を調べています」
エリクが説明した。
「公的な捜査機関ではありません。警察に所属しているわけでもない」
「……じゃあ、どうして俺のことを?」
「病院で、不可解な死亡と回復が同時に起きたからです」
ローデンが引き継いだ。
「私たちは長年、似た事例を追っている」
「……母さんのことも、知ってたんですか」
「亡くなったことは知っている」
「……」
「君が何をしたのかも、おおよそ想像はついた」
レインは拳を握りしめた。
「だったら……」
声が震えた。
「だったら、どうしてもっと早く来てくれなかったんですか……!」
ローデンは黙った。
「知ってたんでしょう!? こんなものがいるって!」
「……ああ」
「だったら!」
レインは立ち上がった。
「母さんが死ぬ前に、教えてくれればよかったじゃないですか!!」
テーブルが揺れた。
エリクが身構える。
しかし、ローデンは動かなかった。
「……そうだな」
短く答えた。
「もっと早く見つけられていれば、違う結果になったかもしれない」
「……っ」
「だが、君が時間喰いになると、事前に知る方法はない」
レインは唇を噛んだ。
怒りをぶつける相手が欲しかった。
誰でもよかった。
自分以外の誰かが悪いと言ってほしかった。
けれど。
最後に母親の時間を喰ったのは、自分だった。
レインは椅子に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
「……」
「だが、君に知っておいてほしいことがある」
ローデンの声が少し低くなった。
「君が今後、誰かの時間を喰った時、私はそれを見逃すとは約束できない」
◆
しばらくして、レインは尋ねた。
「……時間喰いって、どんなふうに生きてるんですか」
「人による」
ローデンは答えた。
「人間に紛れて普通に暮らしている者もいる。身分を変えながら、何百年も生きている者もいる」
「……何百年?」
「ああ。奪った時間が尽きなければ、長く生きられる」
「……」
「ただし、老化がどうなるか、どれだけ寿命を蓄えられるかは、私たちにも完全には分かっていない」
レインは考え込んだ。
「……人間を喰わない時間喰いも、いるんですか」
ローデンは少し間を置いた。
「いる」
レインは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ……!」
「ただし、簡単なことじゃない」
ローデンはレインの目を見た。
「君も感じているはずだ。人間の時間を喰いたいという衝動を」
レインは答えられなかった。
「今もあるだろう?」
「……」
「私たちを見て、どう感じる?」
レインの心臓が跳ねた。
ローデンの顔を見る。
五十代の男。
その隣には若いエリク。
二人とも生きている。
これから先の時間を持っている。
――欲しい。
レインは慌てて目を逸らした。
「……見ないでください」
「レイン君」
「……お願いだから」
手が震える。
喉が鳴る。
ローデンは静かに言った。
「それが、時間喰いだ」
レインは両手で顔を覆った。
「……嫌だ」
「……」
「こんなの……嫌だ……」
ローデンは何も言わなかった。
◆
「一つ、聞いてもいいですか」
しばらくして、レインが口を開いた。
「何だ?」
「……人間の時間を喰わなかったら、どうなるんですか」
ローデンは答えた。
「いずれ、自分の時間が尽きる」
「……普通の人間みたいに?」
「そうとは限らない」
レインは顔を上げた。
「時間喰いになった者は、普通の人間よりも時間の減りが速くなる傾向がある」
「……どれくらい?」
「個人差が大きい。正確には分からない」
「……」
「ただ、何年も喰わずに生きた者もいる。反対に、短い期間で衰弱した者もいる」
レインは黙った。
「君が今、どれだけの時間を持っているのかも、私には分からない」
ローデンは続けた。
「そして、もう一つ」
「……何ですか」
「時間を十分に持っていても、衝動は消えない」
レインは目を閉じた。
知っていた。
母親の時間を喰ったばかりなのに、すでに次の時間を欲しがっている。
「……我慢できるんですか」
「できる者もいる」
「……できない人は?」
ローデンは静かに答えた。
「人を喰う」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
◆
エリクが資料を一枚、テーブルに置いた。
そこには、一人の男性の写真があった。
三十代くらい。
作業服姿で、穏やかに笑っている。
「……誰ですか」
「以前、私たちが追っていた時間喰いだ」
ローデンが言った。
「彼には妻と二人の子供がいた。普通に働き、普通に暮らしていた」
「……」
「十年以上、人間の時間を喰っていなかったそうだ」
レインは写真を見つめた。
「……じゃあ、我慢できてたんですね」
「ああ」
「それなら……」
「ある日、職場の同僚を喰った」
レインは顔を上げた。
「……え?」
「理由は本人にも分からなかった。口論になったわけでもない。恨みがあったわけでもない」
ローデンは続けた。
「仕事帰り、同僚が肩を叩いた。その時、突然、時間が欲しくなったそうだ」
「……」
「彼は自分の意思で喰った。ほんの少しだけのつもりだった」
エリクが目を伏せた。
「でも、止められなかった」
「……その人は」
「亡くなった」
レインは写真に視線を戻した。
笑っている男。
どこにでもいそうな父親。
「……その時間喰いは、どうなったんですか」
「逃げた」
「……」
「家族を置いてな」
ローデンは写真を裏返した。
「今も見つかっていない」
レインは拳を握った。
「……どうして、そんな話を俺にするんですか」
「君に、知ってほしいからだ」
「……何を」
「人間を喰わずに生きたいと思うことと、実際に喰わずに生きることは違う」
レインは何も言えなかった。
ローデンの言葉は、あまりにも重かった。
◆
時計は午前二時を過ぎていた。
ローデンが立ち上がった。
「今日はここまでにしよう」
「……帰るんですか」
「ああ」
「……俺は、どうすれば」
ローデンは少し考えた。
「まずは、人間から距離を取ることだ」
「……」
「君はまだ、自分の衝動を理解していない。今の状態で学校へ戻るのは危険だ」
レインは俯いた。
「それから、私たちが連絡できるようにしておいてほしい」
エリクが小さなカードを差し出した。
連絡先だけが書かれている。
組織名も、住所もなかった。
「……あなたたちは、時間喰いを殺すんですか」
レインが尋ねた。
ローデンは足を止めた。
「必要なら」
即答だった。
レインの背筋が冷たくなった。
「……俺も?」
「君が人間を喰い続けるなら、そうなる可能性はある」
「……」
「だが、今夜はそのために来たんじゃない」
ローデンは扉に手をかけた。
「君が何を選ぶのか、見極めるために来た」
「……選ぶ?」
「ああ」
ローデンは振り返った。
「時間喰いになったことは、君の意思じゃない」
レインは黙って聞いていた。
「だが、これから誰の時間を奪うかは、君自身が決めることになる」
扉が閉まった。
◆
レインは一人、居間に残された。
テーブルには、連絡先のカードが置かれている。
時間喰い。
人間の寿命を奪い、自分の命を延ばす存在。
昔から人間社会に潜み、何百年も生きている者さえいる。
そして。
人間を喰いたいという衝動は、消えない。
レインは椅子に座った。
リリアが使っていた椅子だった。
背もたれに、彼女の上着が掛かっている。
まだ、洗剤の匂いがした。
「……母さん」
レインは上着を抱きしめた。
「俺……どうすればいいんだよ……」
答えはなかった。
ただ、ローデンの言葉が頭から離れなかった。
『これから誰の時間を奪うかは、君自身が決めることになる』
レインは目を閉じた。
もう、誰の時間も奪いたくない。
そう思った。
心の底から。
けれど、その直後。
別の思いが浮かんだ。
――でも、死にたくない。
レインは目を開けた。
母親を喰った夜と、同じだった。
生きたい。
死にたくない。
その願いだけは、どうしても消えなかった。
◆
家の外。
黒い車の助手席で、エリクが尋ねた。
「……あの子、どうするんですか」
ローデンはエンジンをかけずに、家を見つめていた。
「しばらく様子を見る」
「危険じゃありませんか?」
「危険だ」
「だったら……」
「だが、今すぐ殺す理由にはならない」
エリクは黙った。
ローデンは続けた。
「彼はまだ、自分が何になったのかを知ったばかりだ」
「……」
「それに、母親を喰った直後の時間喰いが、これほど衝動を抑えているのは珍しい」
「……そうなんですか」
「ああ」
ローデンはようやく車を発進させた。
住宅街を抜け、大通りへ出る。
しばらく走ったところで、エリクが再び口を開いた。
「そういえば、気になっていたんですが」
「何だ?」
「レイン・ハースの母親……リリア・ハース」
「……」
「過去の記録を調べたんですけど、妙なんです」
ローデンが横目で見た。
「何が?」
「十年以上前の記録が、ほとんど残っていないんです」
ローデンは何も言わなかった。
「引っ越し歴も不自然ですし、昔の勤務先も確認できませんでした」
「……そうか」
「何か知ってるんですか?」
ローデンは前を見たまま答えた。
「いや」
短い返事だった。
しかし、その表情は険しかった。
「……もう少し調べておけ」
「分かりました」
車は夜の街へ消えていった。
その後部座席には、リリア・ハースの古い写真が一枚置かれていた。
そこに写る彼女は、現在とほとんど変わらない姿で笑っていた。
撮影された日付は、三十二年前。
――第3話 終




