第2話 飢え
母親が死んだ翌朝、レイン・ハースは朝食を食べた。
焼いたパンが二枚。
スクランブルエッグ。
温かいスープ。
病院の食堂で出された、ごく普通の朝食だった。
すべて食べた。
七日間、まともに食事もできなかった身体が嘘のように動いた。
パンは美味しかった。
スープも美味しかった。
食後には、満腹感さえあった。
それなのに。
足りなかった。
「……なんでだよ」
レインは空になった皿を見つめた。
腹は満たされている。
喉も渇いていない。
身体に痛みもない。
なのに、胸の奥に穴が開いているような感覚が消えない。
食堂の向こう側で、若い看護師が笑っていた。
隣には、白衣を着た医師がいる。
その二人を見た瞬間、レインの口の中に唾液が溢れた。
――欲しい。
昨日と同じだった。
あの、母親の手を握った瞬間と。
レインは慌てて目を伏せた。
「……違う」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
ただ、その欲望を認めてしまえば、何かが終わる気がした。
◆
医師は、レインの検査結果を何度も確認していた。
「……本当に、何も異常がない」
白髪交じりの男性医師が呟いた。
「心臓も、肺も、血液の数値も正常です。むしろ入院前より良いくらいだ」
レインは黙っていた。
「正直に言えば、医学的には説明がつきません」
「……そうですか」
「ただ、昨日までの状態を考えると、もう少し入院して経過を観察したいところです」
「帰りたいです」
レインは即答した。
医師が顔を上げた。
「お母様のこともありますし、今すぐ決める必要は――」
「帰らせてください」
医師はしばらくレインを見つめた。
やがて、小さく息を吐いた。
「分かりました。ただし、何か異常があれば、すぐに連絡してください」
「……はい」
「それから」
医師は少し言いにくそうに続けた。
「お母様の件について、病院側でも詳しく調べています。ご家族への説明も、改めて行います」
レインは顔を上げなかった。
詳しく調べたところで、何も分からないだろう。
母親の時間を奪ったのは、自分なのだから。
どうやって奪ったのかさえ、分からないけれど。
「……先生」
「はい」
「人って、急に死ぬことがあるんですか」
医師は少し驚いた顔をした。
「……あります」
「元気だった人でも?」
「残念ながら」
「何も悪いところがなくても?」
「原因がすぐに分からないケースもあります」
「……そうですか」
レインは膝の上で手を握った。
目の前の医師にも、残された人生がある。
家族がいるかもしれない。
休日には何をするのだろう。
好きな食べ物は何だろう。
そんなことを考えた瞬間だった。
――少しだけなら。
頭の中に、言葉が浮かんだ。
――ほんの少しだけなら、喰っても分からない。
レインは椅子から立ち上がった。
「……ありがとうございました」
「あ、レイン君?」
「失礼します」
診察室を出る。
廊下を早足で歩く。
角を曲がったところで壁に手をついた。
「……はっ、はっ……」
息が荒い。
身体が苦しいわけではなかった。
怖かった。
自分が考えたことが。
昨日、母親を殺したばかりなのに。
今度は、何の罪もない医師から時間を奪おうと考えていた。
「……俺、どうなったんだよ」
答える者はいなかった。
◆
病院の外に出ると、街はいつもどおり動いていた。
車が走っている。
信号が変わる。
歩道には通勤客や学生が行き交っている。
向かいの店では、店員が開店準備をしていた。
レインは立ち止まった。
人が多すぎた。
病院の中では、まだ耐えられた。
けれど、街には人間が溢れていた。
制服姿の女子学生。
買い物袋を提げた老人。
子供の手を引く母親。
携帯端末を見ながら歩く会社員。
誰もが、当たり前のように生きている。
その一人一人に、これから先の時間がある。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
――喰いたい。
「……っ」
レインは口元を押さえた。
近くを歩いていた女性が、不思議そうにこちらを見た。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。
それだけだった。
なのに。
女性の顔を見た瞬間、レインの身体が反応した。
欲しい。
この人の時間が。
「……大丈夫、です」
「顔色が悪いですよ」
「本当に……大丈夫なので」
女性が一歩近づいた。
レインは反射的に後ずさった。
「来ないで!」
思ったより大きな声が出た。
女性が足を止める。
周囲の人々が振り返った。
「……すみません」
レインは頭を下げた。
「すみません……」
その場から逃げ出した。
◆
走った。
人通りの多い通りを避け、細い路地へ入った。
建物の裏を抜け、誰もいない駐車場まで来て、ようやく足を止めた。
膝に手をつく。
呼吸を整える。
身体は疲れていなかった。
むしろ、いくらでも走れそうだった。
それが気味悪かった。
数日前まで、立ち上がることすらできなかったのに。
「……母さん」
名前を呼んだ。
当然、返事はない。
レインは携帯端末を取り出した。
画面には、リリアとの最後のメッセージが残っていた。
『帰り、遅くなるなら連絡してね』
倒れる日の朝に届いたものだった。
レインはその文字を見つめた。
いつものように返信しようとして、指が止まった。
もう、返事は来ない。
「……っ」
目の奥が熱くなった。
携帯端末を胸に押し当てる。
涙が落ちた。
母親は死んだ。
自分が殺した。
それなのに。
あの時の感覚を思い出すだけで、身体の奥が震える。
気持ちよかった。
母親の時間を喰った瞬間。
確かに、気持ちよかったのだ。
「……最低だ」
レインは呟いた。
「俺は……最低だ……」
その場にしゃがみ込んだ。
しばらく、動けなかった。
◆
家に帰ったのは、昼を過ぎた頃だった。
玄関の鍵を開ける。
「……ただいま」
返事はない。
分かっていた。
それでも、言ってしまった。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
台所には、洗い終えた食器が並んでいた。
冷蔵庫には、買い物のメモが貼ってある。
『牛乳、卵、玉ねぎ、じゃがいも』
リリアの字だった。
レインはメモを剥がしかけて、やめた。
椅子に座る。
テーブルの向こう側。
いつもリリアが座っていた場所。
そこには、誰もいない。
時計の針の音だけが響いていた。
レインは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
中には、野菜や肉が入っていた。
シチューの材料だった。
帰ったら作ると言っていた。
レインは冷蔵庫を閉めた。
そのまま、床に座り込んだ。
「……食べたかったな」
声が震えた。
「……母さんの、シチュー」
泣いた。
誰もいない家で。
声を殺す必要もないのに、声を殺して泣いた。
◆
夕方。
玄関の呼び鈴が鳴った。
レインは顔を上げた。
もう一度、呼び鈴が鳴る。
「レイン?」
聞き覚えのある声だった。
隣家に住む女性、マーサだった。
リリアとは長い付き合いがあり、レインも幼い頃から世話になっている。
「……はい」
扉を開けると、マーサが紙袋を持って立っていた。
「帰ってきたって聞いたから」
「……はい」
「何か食べられる?」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう」
マーサは困ったように笑った。
「サンドイッチ作ってきたの。冷蔵庫に入れておけば明日でも食べられるから」
「……ありがとうございます」
「それから、葬儀のことなんだけど」
レインは目を伏せた。
「……はい」
「私も手伝うから。全部一人でやろうとしなくていいのよ」
マーサがレインの肩に手を置いた。
その瞬間。
胸の奥が跳ねた。
――欲しい。
レインは息を止めた。
マーサの手が肩にある。
温かい。
生きている人間の手だ。
その人には、まだ時間がある。
レインには、それが分かった。
正確に何年残っているのかは分からない。
けれど、確かにある。
まだ使われていない時間。
まだ訪れていない明日。
それが、すぐ近くにある。
――喰え。
レインの指が動いた。
マーサの手を掴もうとする。
ほんの少し。
ほんの少しだけ。
そうすれば。
「……レイン?」
マーサが顔を覗き込んだ。
レインは我に返った。
「……っ!」
肩を振り、マーサの手から逃れた。
「ごめんなさい!」
「え?」
「ごめんなさい……!」
マーサが驚いている。
レインは震える手を背中に隠した。
「……今日は、もう」
「ああ……そうね。疲れてるわよね」
マーサは寂しそうに笑った。
「ごめんね。急に来ちゃって」
「……いえ」
「何かあったら、いつでも呼んで」
「……はい」
マーサは紙袋を置いて帰っていった。
扉が閉まる。
鍵をかける。
レインは玄関に背中を預けた。
膝が折れた。
「……危なかった」
両手を見る。
あと少しだった。
あと少しで、マーサの時間を喰っていた。
母親の友人。
幼い頃から自分を知っている人。
そんな相手にまで。
「……俺は」
レインは顔を覆った。
「……何なんだよ」
◆
その夜、レインは自分の身体を調べた。
鏡の前に立つ。
顔色は良い。
痩せていた頬も、少し戻っているように見えた。
胸に手を当てる。
心臓は規則正しく動いている。
病気だった痕跡など、どこにもなかった。
レインは洗面台の蛇口をひねった。
冷たい水で顔を洗う。
そして、鏡の中の自分を見つめた。
「……人間、だよな」
返事はない。
当たり前だった。
見た目は何も変わっていない。
歯が尖ったわけでもない。
目の色が変わったわけでもない。
怪物のような姿になったわけでもない。
ただ。
人間の時間が欲しい。
それだけが、以前と違っていた。
レインは蛇口を閉めた。
ふと、窓の外に目を向ける。
向かいの家には明かりが灯っていた。
マーサの家だった。
窓越しに、食卓を囲む家族の影が見えた。
誰かが笑っている。
普通の家庭だった。
レインはカーテンを閉めた。
そのまま、部屋の明かりも消した。
◆
深夜。
眠れなかった。
ベッドに横になっても、頭の中には人間の姿ばかりが浮かんだ。
病院の医師。
看護師。
街で声をかけてくれた女性。
マーサ。
そして、リリア。
彼女の手の温かさ。
時間が流れ込んできた感覚。
身体の隅々まで満たされていく、あの瞬間。
レインは布団を頭まで被った。
「……考えるな」
小さく呟く。
「……考えるなよ」
それでも、思い出してしまう。
母親の最後の言葉。
『よかった。助かった……ね』
レインは歯を食いしばった。
あの時。
リリアは、自分に何が起きているのか分かっていたのだろうか。
自分の命が奪われていると、気づいていたのだろうか。
それとも、ただ息子が助かったことを喜んでいたのだろうか。
分からない。
もう、確かめることもできない。
「……母さん」
暗闇の中で、レインは呟いた。
「俺、どうすればいい……?」
返事はなかった。
その時。
家の外で、車が止まる音がした。
続いて、複数の足音。
レインは顔を上げた。
こんな時間に誰だろう。
窓の隙間から外を見る。
黒い車が一台、家の前に停まっていた。
車から降りたのは、二人の男。
どちらも暗い色の上着を着ている。
一人は年配。
もう一人は若い。
年配の男が、携帯端末の画面を確認した。
そして、レインの家を見上げた。
「……ここか」
小さな声だった。
しかし、静かな夜には妙にはっきり聞こえた。
若い男が尋ねる。
「本当に、この家なんですか?」
「ああ」
「病院の記録では、母親は急死。息子は原因不明の重症から回復……」
「典型的だ」
レインの心臓が跳ねた。
男は続けた。
「まだ本人も、自分が何になったのか分かっていないだろう」
若い男が顔をしかめた。
「……放っておけば、また誰かを喰いますかね」
「さあな」
年配の男は、家の窓を見つめた。
「それを確かめに来た」
レインは息を止めた。
男たちは、何かを知っている。
自分に起きたことを。
母親が死んだ理由を。
そして。
自分が、何になってしまったのかを。
玄関の呼び鈴が鳴った。
一度。
二度。
レインは動けなかった。
やがて、扉の向こうから男の声がした。
「レイン・ハース君」
静かな声だった。
「君に、話がある」
少しの沈黙。
そして男は、こう続けた。
「――君が喰ったものについてだ」
――第2話 終




