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『時間喰い』  作者: ネコロビン


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第1話 生きたい

人は、自分にどれだけの時間が残されているのか知らない。


 明日の朝、目を覚ませるのか。


 一年後も同じ仕事をしているのか。


 十年後、隣に誰がいるのか。


 誰にも分からない。


 それでも人は、明日が来ることを疑わずに生きている。


 十八歳のレイン・ハースも、そうだった。


 あの日までは。


     ◆


「レイン! 遅刻するわよ!」


 二階から返事はなかった。


「レイン!」


「起きてる!」


「その返事、昨日も聞いた!」


 レインは布団の中で顔をしかめた。


 目覚まし時計は七時四十二分。


 家を出るまで、あと十八分。


「……終わった」


 飛び起きて制服に着替え、階段を駆け下りる。


 台所では、リリア・ハースがフライパンを片手に振り返った。


「おはよう」


「おはよう。パンだけもらう」


「座って食べなさい」


「時間ないって!」


「毎朝そう言ってるじゃない」


 リリアは皿に目玉焼きを載せた。


 三十八歳。


 レインの育ての母親だった。


 血は繋がっていない。


 それでも、レインが物心ついた頃から、二人はずっと家族だった。


「はい」


「ありがと」


 レインは椅子に座り、トーストを口に押し込んだ。


「ちゃんと噛む」


「んぐ」


「飲み込んでから返事」


 リリアは呆れたように笑った。


 窓の向こうでは、通勤客を乗せた路面電車が走っていた。


 車のクラクション。


 向かいの家の犬の鳴き声。


 どこにでもある朝だった。


「今日、帰り遅い?」


 リリアが尋ねた。


「たぶん。友達と寄り道するかも」


「夕飯は?」


「食べる」


「じゃあ、連絡してね」


「分かった」


 レインは牛乳を飲み干し、鞄を掴んだ。


「行ってきます!」


「レイン」


「何?」


「靴紐」


 見下ろすと、右足の紐がほどけていた。


「……危な」


「転んでからじゃ遅いわよ」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい!」


 玄関の扉を開ける。


 秋の冷たい風が頬を撫でた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます!」


 振り返ると、リリアがいつものように手を振っていた。


 レインも片手を上げた。


 それが、彼女と交わした最後の何気ない朝の挨拶になった。


     ◆


 最初の異変は、昼休みだった。


「おい、レイン。顔色悪くないか?」


 向かいの席で弁当を食べていた友人が言った。


「そう?」


「白いぞ」


「元からだろ」


「いや、そういう白さじゃなくて」


 レインは笑って返そうとした。


 しかし、その瞬間。


 心臓が大きく跳ねた。


「……っ」


 胸の奥を、冷たい指で掴まれたような感覚。


 息が詰まる。


「レイン?」


「……なんか、変だ」


 額に汗が浮かんだ。


 教室の声が遠ざかる。


 机に手をついた。


 立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


「先生! 誰か先生呼んで!」


 友人の声が聞こえた。


 その直後、レインの視界は暗くなった。


     ◆


 白い天井。


 規則正しい電子音。


 鼻に入る消毒液の匂い。


 レインが目を開けると、病院のベッドに寝かされていた。


「……ここ」


「レイン!」


 リリアが椅子から立ち上がった。


「よかった……!」


「母さん?」


「学校で倒れたのよ。覚えてる?」


「……少し」


 身体を起こそうとすると、胸に激痛が走った。


「うっ……!」


「動かないで!」


 リリアが肩を支えた。


 その手は温かかった。


「先生を呼んでくるから」


「……俺、どうしたの?」


 リリアは答えなかった。


 ただ、無理に笑おうとした。


「大丈夫。ちゃんと調べてもらってるから」


 その笑顔を見た時、レインは初めて怖くなった。


     ◆


 検査は続いた。


 血液検査。


 画像診断。


 心電図。


 聞いたことのない検査も受けた。


 医師たちは何度も首を傾げた。


 数値が合わない。


 原因が特定できない。


 臓器には明らかな損傷がないのに、身体の機能だけが急速に衰えている。


 そんな説明が、病室の外から断片的に聞こえてきた。


 三日目。


 レインは一人でトイレへ行けなくなった。


 四日目。


 食事をほとんど受け付けなくなった。


 五日目。


 医師がリリアを廊下へ呼び出した。


 扉は閉まっていた。


 けれど、レインには聞こえた。


「……できることは、すべて行っています」


「原因は?」


「現時点では……」


「じゃあ、どうしてこの子は弱っていくんですか?」


「申し訳ありません」


「謝らないでください」


 リリアの声が震えていた。


「お願いです。助けてください」


 レインは目を閉じた。


 聞きたくなかった。


 母親が誰かに頭を下げているところなんて。


     ◆


 七日目の夜。


 レインは、自分が死ぬのだと思った。


 呼吸するだけで苦しい。


 身体は鉛のように重く、指先さえまともに動かせない。


 窓の外では雨が降っていた。


 街灯の光が、濡れたガラスに滲んでいる。


「……母さん」


「なあに?」


 リリアはベッドの横に座っていた。


 ここ数日、まともに眠っていないはずだった。


 目の下には濃い影がある。


「……帰りたい」


「うん」


「家に……帰りたい」


「帰ろう」


 リリアはレインの手を握った。


「元気になったら、すぐ帰ろうね」


「……うん」


「何か食べたいもの、ある?」


「……母さんの、シチュー」


「またそれ?」


 リリアは小さく笑った。


「好きねえ」


「……うん」


「じゃあ、帰ったら作る。いっぱい」


 レインも笑おうとした。


 しかし、うまく顔が動かなかった。


 胸の奥が、ひどく冷たい。


「母さん……」


「うん?」


「……俺、死ぬの?」


 リリアの指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「死なないわ」


「……本当?」


「ええ」


 彼女はレインの手を強く握った。


「死なせない」


 レインは、その言葉を信じたかった。


 けれど、身体はもう限界だった。


 呼吸が浅くなる。


 心臓の音が遠くなる。


 視界の端から、ゆっくり暗闇が広がっていく。


 怖い。


 死にたくない。


 まだ十八歳なのに。


 学校にも行きたい。


 友達にも会いたい。


 母さんのシチューだって、もう一度食べたい。


 何も終わっていない。


 何も始まっていない。


 なのに。


 どうして。


 どうして俺が。


 ――死にたくない。


 その時だった。


 何かが変わった。


     ◆


 最初に感じたのは、匂いだった。


 甘い。


 ひどく甘い。


 病室に菓子など置かれていない。


 食べ物の匂いでもない。


 それなのに、口の中に唾液が溢れた。


 レインは薄く目を開けた。


 リリアがいた。


 ベッドの横で、自分の手を握っている。


 その姿を見た瞬間。


 胸の奥から、猛烈な欲望が湧き上がった。


 ――欲しい。


 レインは混乱した。


 何が欲しいのか分からない。


 水か。


 食べ物か。


 空気か。


 違う。


 目の前にある。


 ずっと、そこにあった。


 母親の手。


 その奥にある、何か。


 目には見えない。


 けれど、確かに感じる。


 温かくて、豊かで、まだ終わっていない何か。


 ――欲しい。


 レインの指が、リリアの手を握り返した。


「レイン?」


 リリアが顔を近づける。


「どうしたの?」


 喉が鳴った。


 空腹だった。


 今まで感じたことのない、恐ろしいほどの飢え。


 目の前のものを口にすれば、きっと助かる。


 なぜか、そう確信していた。


 ――喰いたい。


 その言葉が浮かんだ瞬間、レインは自分自身に怯えた。


 何を。


 何を喰うんだ。


 これは母さんだ。


 母さんなんだぞ。


 けれど、身体の奥から湧き上がる欲望は止まらなかった。


 死にたくない。


 まだ生きたい。


 生きたい。


 生きたい。


 生きたい。


「……母、さん」


「ここにいるわ」


 リリアは優しく答えた。


「大丈夫。ずっとここにいるから」


 その言葉を聞いて。


 レインは。


 自分の意思で、喰った。


     ◆


 何かが流れ込んできた。


 記憶ではない。


 声でもない。


 力でもない。


 ただ、時間だった。


 どれだけの時間なのか、レインには分からない。


 けれど、確かに自分の中へ入ってくる。


 胸の痛みが消えた。


 呼吸が楽になった。


 冷たかった指先に、温もりが戻っていく。


 生きている。


 身体が、蘇っていく。


 そして。


 気持ちよかった。


 どうしようもなく。


 恐ろしいほどに。


「……あ」


 リリアの声がした。


 レインは目を開けた。


 彼女は驚いたように、自分の手を見つめていた。


「……レイン?」


 顔から血の気が引いていく。


 唇が白くなる。


 肩がゆっくりと下がった。


 それでも、彼女は手を離さなかった。


「……母さん?」


 レインの声は、さっきまでとは違っていた。


 はっきりと出た。


 苦しくない。


 痛くない。


 もう、何も。


 リリアが小さく笑った。


「……よかった」


 その声は、かすれていた。


「……助かった……ね」


 彼女の身体が傾いた。


「母さん?」


 椅子から滑り落ちそうになった身体を、レインが慌てて抱きとめる。


「母さん!」


 返事はなかった。


 レインは彼女の肩を揺すった。


「ねえ、母さん!」


 リリアの目は閉じていた。


 顔には、まだ微かな笑みが残っている。


「……嘘だろ」


 レインは彼女の頬に触れた。


 温かい。


 まだ温かい。


「母さん……?」


 ナースコールを押した。


 何度も押した。


「誰か!!」


 廊下から足音が近づいてくる。


「誰か来て!!」


 扉が開いた。


 看護師が駆け込んできた。


 続いて医師が来た。


 レインはリリアから引き離された。


「母さんが!」


「離れてください!」


「さっきまで喋ってたんです!」


「患者さんをベッドに!」


「母さん!!」


 医師たちがリリアを床に寝かせ、処置を始める。


 レインは壁際に立ち尽くしていた。


 自分の足で。


 何の支えもなく。


 七日間、死にかけていたはずの身体で。


 そして、理解した。


 自分が何をしたのか。


 理屈は分からない。


 けれど、分かってしまった。


 あの瞬間。


 自分は確かに、母親の中にある何かを欲しがった。


 そして奪った。


 自分が生きるために。


「……俺が」


 医師の声が飛び交う。


 機械の警告音が鳴る。


「……俺が、やった」


 誰にも聞こえないほど、小さな声だった。


 レインは自分の手を見た。


 母親を握っていた手。


 その手は震えていた。


 恐怖で。


 後悔で。


 そして、もう一つ。


 レインは気づいてしまった。


 胸の奥に、まだ何かが残っている。


 さっきまで自分を支配していた、あの欲望。


 母親を喰ってしまったというのに。


 その感覚を、身体が覚えていた。


 もう一度。


 ほんの少しだけ。


 もう一度、あれを。


「……やめろ」


 レインは自分の口を押さえた。


「やめろ……!」


 目の前では、母親が死にかけている。


 それなのに。


 それなのに自分は。


 まだ、喰いたいと思っていた。


     ◆


 その夜。


 リリア・ハースは死亡した。


 死因は不明。


 十八歳の息子は、原因不明の重篤な症状から突然回復した。


 医師たちは、その二つの出来事に関連があるとは考えなかった。


 ただ一人を除いて。


 病院の廊下で、レインは膝を抱えて座っていた。


 看護師が水を持ってきた。


「飲める?」


 レインは首を横に振った。


「……何かあったら呼んでね」


 看護師は静かに立ち去った。


 その後ろ姿を、レインは見つめた。


 健康そうな女性だった。


 まだ若い。


 きっと、これから何十年も生きるのだろう。


 その瞬間。


 また、あの甘い感覚がした。


 レインは目を閉じた。


 両手で自分の腕を強く掴んだ。


 爪が皮膚に食い込む。


「……嫌だ」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


「……もう、嫌だ」


 それでも、看護師の足音が遠ざかるまで。


 レインは、顔を上げることができなかった。


 彼はまだ知らない。


 自分のような存在が、遥か昔から人間社会に紛れて生きてきたことを。


 古い時代には、妖怪や悪霊として恐れられたことを。


 そして、彼らが自らをこう呼ぶことを。


 ――時間喰い。


 人の未来を奪い、自分の明日を生きる者。


 レイン・ハースは、その夜、初めて人間の時間を喰った。


 最も大切な人の時間を。


 そして彼は、まだ知らなかった。


 一度覚えた飢えは、二度と忘れられない。


――第1話 終

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