第11話 掟
男は、スマートフォンの画面を見つめていた。
表示されているのは、一枚の写真。
路地裏で発見された老人の遺体だった。
「……ギドか」
男は小さく呟いた。
写真に写っている遺体は、ひどく老いていた。
髪は真っ白になり、頬はこけ、皮膚には深い皺が刻まれている。
だが、男には分かっていた。
これは老衰ではない。
時間を喰われたのだ。
「……馬鹿な奴だな」
男はスマートフォンをテーブルに置いた。
ギドとは、何度か顔を合わせたことがある。
特別に仲がよかったわけではない。
むしろ、あまり好きではなかった。
人間を喰うときのやり方が雑で、何度も騒ぎを起こしていたからだ。
いつか警察に目をつけられるだろうとは思っていた。
だが。
まさか、同じ時間喰いに喰われるとは。
男は椅子の背もたれに身体を預けた。
「……面倒くせえ」
スマートフォンが震えた。
画面には短いメッセージが表示されていた。
『ギドを喰った奴が分かったらしい』
続いて、一枚の画像が送られてくる。
防犯カメラに映った、若い男。
黒い髪。
まだ少年の面影が残る顔立ち。
『名前はレイン。時間喰いになって間もないらしい』
「……新人?」
男は眉をひそめた。
ギドは決して強い時間喰いではなかった。
だが、それなりの時間を蓄えていたはずだ。
それを新人が喰った?
さらにメッセージが届いた。
『見つけたら頼む』
男は鼻で笑った。
「……勝手なこと言いやがって」
返信はしなかった。
そもそも、誰かに命令される筋合いはない。
男が所属する《蜘蛛》は、そういう組織だった。
上下関係も、定期的な集会もない。
構成員は、それぞれ好きな場所で、好きなように暮らしている。
人間をどう喰おうが、どんな仕事をしていようが、誰も口を出さない。
ただし。
ひとつだけ、絶対の掟があった。
組織の人間は喰うな。
それだけだ。
時間喰いにとって、最も危険な存在は同じ時間喰いだった。
だから、互いに喰わないことを約束する。
もし仲間が喰われれば、残った者たちが報復する。
そうすることで、組織に所属する者を狙う危険性を、他の時間喰いたちに知らしめる。
友情でもなければ、仲間意識でもない。
自分が喰われないための仕組みだった。
男はスマートフォンをポケットにしまった。
「……まあ、見かけたら喰ってやるか」
そう呟いて立ち上がる。
男の名は、バルド。
《蜘蛛》の構成員の一人だった。
◇
レインは、商店街を歩いていた。
あの日から、数日が経っていた。
時間喰いを喰ったことで、身体の調子は驚くほどよかった。
以前よりも足取りが軽い。
階段を上るときも、重い荷物を持つときも、身体が自然に動く。
だが、レインはまだ、その力をどう扱えばいいのか分かっていなかった。
「……不思議だな」
小さく呟く。
昨日、何気なく走ったとき、自分でも驚くほど速く足が動いた。
普通の人間だった頃とは違う。
けれど、エマの話では、これでもまだ時間喰いとしては大したことがないらしい。
何十年、何百年も生きている時間喰い。
そんな存在がいる。
レインには、まだ想像もできなかった。
スマートフォンが震えた。
セラからだった。
『今日はエマさんのところ来る?』
レインは少し考えて返信した。
『夕方には行くよ』
すぐに返事が来た。
『了解! お菓子買っておく!』
レインは小さく笑った。
セラはいつも通りだった。
時間喰いであることも、人間の寿命を奪って生きていることも、普段の会話からは想像できない。
だが、それは自分も同じだった。
レインはスマートフォンをしまった。
そして、歩き出そうとした。
そのときだった。
「……おい」
背後から声がした。
レインは振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
三十代くらいだろうか。
短い黒髪。
無精ひげ。
黒いジャケットにジーンズという、ごく普通の服装だった。
「……俺ですか?」
「ああ」
男はレインを見つめた。
「お前、レインだろ?」
レインの表情が変わった。
「……誰ですか?」
「ちょっと話がある」
「……」
「ここじゃ何だ。少し歩こうぜ」
男はそう言って、商店街の外れを指さした。
レインは動かなかった。
「……何の話ですか?」
男は少し笑った。
「時間喰いの話だよ」
レインの背筋に、冷たいものが走った。
◇
二人は、人通りの少ない道を歩いていた。
商店街から少し離れた場所。
古い倉庫が並ぶ一角だった。
昼間だというのに、人の姿はほとんどない。
レインは男から少し距離を取っていた。
「……あんたも時間喰いなのか?」
「ああ」
男はあっさり答えた。
「バルドっていう。よろしくな」
「……」
「そんなに警戒すんなよ」
バルドは笑った。
「別に、今すぐ喰おうってわけじゃねえ」
レインは足を止めた。
「……何の用だ?」
バルドも立ち止まった。
そして、振り返った。
「ギドって男を知ってるか?」
「……ギド?」
「ああ」
レインは首を振った。
「知らない」
「だろうな」
バルドは頷いた。
「お前が路地裏で喰った男だよ」
レインの表情が変わった。
「……あいつの?」
「そうだ」
バルドはポケットから煙草を取り出しかけたが、やめた。
「ギドはな、《蜘蛛》って組織に入ってたんだ」
「……蜘蛛?」
「ああ。時間喰いの集まりだよ」
レインは黙って聞いていた。
「別に大した組織じゃねえ。みんな好き勝手に生きてる」
「……」
「ただ、ひとつだけ決まりがある」
バルドはレインを見つめた。
「組織の人間は喰うな」
レインは眉をひそめた。
「……それだけ?」
「ああ。それだけだ」
「……どうして?」
バルドは少し意外そうな顔をした。
「どうしてって……お前、時間喰いだろ?」
「……ああ」
「だったら分かるだろ。俺たちにとって、一番危ねえのは同じ時間喰いなんだよ」
バルドは続けた。
「だから仲間同士では喰わない。そう約束してる」
「……」
「で、誰かが仲間を喰ったら、残った奴らがそいつを狙う」
レインは息を呑んだ。
「……俺を?」
「そういうこと」
バルドはあっさり頷いた。
「ギドが喰われたからな」
レインは拳を握った。
「……あいつは、人間を喰ってた」
「ああ」
「女の人を襲って、寿命を奪ってたんだぞ」
「知ってるよ」
バルドは平然と答えた。
「……知ってる?」
「あいつは昔からそういう奴だったからな」
レインは思わず声を強めた。
「だったら……!」
「だから何だ?」
バルドは首を傾げた。
「あいつが何人喰おうが、俺には関係ねえよ」
「……」
「俺たちは人間を守るために集まってるわけじゃねえ」
バルドは静かに続けた。
「互いに喰われないために集まってるんだ」
レインは黙った。
バルドの言葉は、ある意味で筋が通っていた。
だが。
「……俺は、あいつを喰わなきゃ死んでた」
「そうか」
「……それでも?」
「ああ」
バルドは頷いた。
「事情は関係ねえ」
そして、少し笑った。
「お前がギドを喰った。それだけで十分なんだよ」
◇
「……で」
バルドは肩を回した。
「お前、時間喰いになってどれくらいだ?」
「……何でそんなこと聞く?」
「いや、ギドを喰ったって聞いたからな」
バルドはレインの身体を眺めた。
「もっと強そうな奴かと思ってた」
「……」
「でも、お前……」
バルドは少し笑った。
「喧嘩もろくにしたことねえだろ?」
レインは答えなかった。
図星だった。
「……まあいい」
バルドはジャケットを脱いだ。
近くのフェンスに引っかける。
「せっかくだ。少し遊ぼうぜ」
レインは身構えた。
「……やる気か?」
「当たり前だろ」
バルドは軽く拳を握った。
「お前を喰いに来たんだから」
レインは息を呑んだ。
昨日まで、時間喰いを探そうとしていた。
人間を無差別に襲う時間喰いを見つけ、喰って生きていく。
そう決めた。
だが。
今、目の前にいる男は、自分を喰おうとしている。
レインは両手を構えた。
バルドはその姿を見て、笑った。
「……おいおい」
「……何だよ」
「構えがひでえな」
次の瞬間。
バルドが踏み込んだ。
「っ!?」
速い。
レインは反射的に腕を上げた。
ドッ!
「ぐっ!」
拳が腕に叩きつけられた。
衝撃で身体が後ろへ押し飛ばされる。
レインは数歩よろめき、尻もちをついた。
「……痛ってぇ……!」
腕が痺れていた。
普通の人間に殴られたときとは、まるで違う。
バルドは軽く拳を振った。
「へえ。今のを防ぐか」
レインは立ち上がった。
「……くそっ」
「でも、動きが遅えな」
バルドは再び構えた。
「ほら、来いよ」
レインは歯を食いしばった。
そして、地面を蹴った。
右拳を振るう。
バルドは身体をわずかにずらした。
拳が空を切る。
「……遅い」
次の瞬間。
バルドの拳が、レインの脇腹に突き刺さった。
「がっ!?」
レインの身体が横へ吹き飛んだ。
アスファルトの上を転がる。
息ができない。
腹が痛い。
レインは片膝をついた。
「……っ……!」
バルドはゆっくり近づいてきた。
「……お前さ」
レインは顔を上げた。
「本当にギドを喰ったのか?」
「……」
「あいつ、そこまで弱くなかったはずなんだけどな」
バルドは首を傾げた。
「……まあ、いいか」
そして、笑った。
「運がよかったんだろ」
レインは拳を握った。
悔しかった。
身体は以前より強くなっている。
それは間違いない。
なのに。
まるで歯が立たない。
速さも。
力も。
戦い方も。
何もかも、相手の方が上だった。
「……立てるか?」
バルドが尋ねた。
レインはゆっくり立ち上がった。
「……まだ……」
「ん?」
「……終わってない」
バルドは楽しそうに笑った。
「そうこなくちゃな」
レインは両手を構えた。
心臓が激しく鼓動している。
怖い。
初めてだった。
正面から、時間喰いと戦うのは。
そして。
初めて理解した。
時間喰いを喰うということが、どれほど危険なのかを。
バルドが再び踏み込んだ。
レインも地面を蹴った。
二人の拳が交差する。
次の瞬間。
鈍い打撃音が、人気のない倉庫街に響いた。
第11話 『掟』 終




