第9話 鈴鹿峠の豪雨と、剥き出しの覚悟
名古屋の眩しいネオンがバックミラーの彼方へと消え、TW200は三重県へと突入していった。四日日市の工業地帯の煙突を見上げ、亀山を過ぎる頃には、空の様相が怪しくなってきた。
東海道、最後の障壁。伊勢の国と近江の国を分かつ「鈴鹿峠」が近づいていた。
峠の登り口に差し掛かった瞬間、それまで持ちこたえていた雲が弾けたように、猛烈な雨が降り出した。
またたく間に視界は最悪になり、マウンテンパーカーの表面を激しい雨粒が叩く。ヘルメットのシールドは内側から曇り、外側は水滴で歪んだ。
「くそっ……ここへ来てこれかよ……!」
街灯ひとつない暗黒の峠道。TW200の単気筒エンジンが、水飛沫をあげながら坂道を這い上がっていく。路面には水たまりができ、太いリヤタイヤが時折ハイドロプレーニング(水の上を滑る現象)を起こしそうになって不気味にブレた。
手足の感覚は寒さでとっくに麻痺していた。
東京を出てからの記憶が、激しい雨の音の向こうで走馬灯のように蘇る。
理不尽なリストラ、冷たい恋人の拒絶。あの時は、世界で自分が一番不幸だと思っていた。何もかも失ったと絶望していた。
けれど、違った。
小田原の譲二の温かい金目鯛、由比の海でタカシが見せてくれた美しい写真、岡崎の源さんが油塗れの手で直してくれたエンジン、名古屋の居酒屋で前を向いた健太の涙。
(あんたの20年が消えるわけじゃねえ)
(僕、めちゃくちゃカッコいい大人がいるって思いました)
(裏切らねえんだ、鉄は。手をかけた分だけ、ちゃんと応えてくれる)
(僕、もう少しだけ、自分のやり方で踏ん張ってみます)
「そうだ……俺には、あいつらの言葉がある!」
晴文はアクセルをさらに強く捻った。源さんが完璧に調律したエンジンが、水を跳ね飛ばし、咆哮を上げて暗闇の坂道をグイグイと引っ張っていく。
どれだけ激しい雨が降ろうと、どれだけ視界が遮られようと、自分がクラッチを離さず、アクセルを開け続ける限り、バイクは絶対に前へ進む。人生もまったく同じだ。他人にハンドルを握らせるな。自分の足で、自分の手で、進むんだ。
標高357メートル、鈴鹿峠の頂上。
トンネルを抜けて滋賀県(近江の国)に入った瞬間、嘘のように雨が小降りになった。
雲の切れ間から、微かに月光が差し込む。
晴文は息を切らせながら、バイクを止めてシールドを上げた。
眼下に広がる近江盆地の夜景が、雨上がりの空気の中で優しく明滅していた。峠は、越えたのだ。
翌朝、五月晴れの爽やかな風が、琵琶湖の広大な水面を揺らしていた。
晴文は草津の宿場町を抜け、瀬田の唐橋を渡る。京都への最後のストレート、国道1号線。
心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた。
山科の緩やかな坂を登りきり、最後のトンネルを抜ける。
視界が一気に開け、歴史ある古都の街並みが目に飛び込んできた。
白川通を抜け、三条通へ。
そしてついに、TW200のタイヤが、かつての東海道の終着点であるあの場所へと到達した。




