第8話 名古屋のネオンと、背中を押す言葉
「すいません、ここ、相席でもいいですか?」
金曜日の夜とあって、店内は満席だった。晴文の座る格安居酒屋のカウンターの端に、ネクタイを少し緩めた若い男が滑り込んできた。
男の名前は健太(29)。名古屋の住宅メーカーで働く営業マンだった。
注文した手羽先とビールが届いても、健太はスマホを睨みつけたまま、ため息ばかりをついている。その姿は、東京のオフィスで数字に追われ、胃をキリキリと痛めていた数日前の晴文そのものだった。
不意に健太のスマホが震え、彼は慌てて席を立って店外へ走っていった。数分後、戻ってきた彼の顔は土気色に変形していた。
「……また、失注です。今月これで3件目。上司には『お前、やる気あんのか』って詰められて。もう、何が正解か分かんないっすわ」
健太は自嘲気味に笑い、ビールを一気に煽った。誰でもいいから吐き出したかったのだろう。晴文が静かに頷きながら話を聴いていると、健太はぽつりと言った。
「おじさん、落ち着いてますね。なんか、人生の勝ち組って感じがします」
その言葉に、晴文は思わず吹き出しそうになった。
「勝ち組? まさか。俺は一昨日、20年勤めた会社をクビになったばかりの、ただの無職だよ。同じ日に、5年付き合った彼女にも振られた」
健太の動きがピタリと止まった。
「え……? じゃあ、なんでそんなに平気な顔をしてるんですか」
「平気なわけないさ。東京にいたら狂いそうだったから、20年前に買った古いバイクに荷物を積んで、ここまで逃げてきたんだ。ただ、西へ走るためにね」
晴文は、岡崎で源さんに直してもらったばかりの、自分の手のひらを見つめた。
「でもな、道中で色んな人に会った。倒産から立ち直って美味い魚を出す頑固親父や、ボロボロになりながら自分の写真を撮ろうとしてる若いカメラマン、50年コツコツと鉄を弄ってきた職人……。彼らを見ていて、やっと気づいたんだ」
晴文は健太の目を真っ直ぐに見つめた。
「会社の名刺や、誰かが決めた数字がなくても、俺たちは生きている。君が今、必死でお客さんや上司に向き合っているその『擦り切れた時間』は、決して無駄じゃない。会社を一枚剥がされた時、最後に残るのは、君自身の『手』と『経験』だけだ。だから、そんなに自分を責めるな」
健太の目が、みるみるうちに潤んでいく。
「……僕、間違ってないですかね。頑張れてますかね」
「あぁ。君の背中を見ていれば分かる。十分すぎるくらい走ってるよ。ただ、時々はエンジンを切って、オイルを換えてやらないと、焼き付いちゃうからな」
居酒屋を出るとき、健太は何度も晴文に頭を下げた。
「麻木さん、ありがとうございました。僕、もう少しだけ、自分のやり方で踏ん張ってみます」
夜風を浴びながら、晴文は愛車・TW200のシートに跨った。
誰かを励ますことで、自分自身の傷口が完全に塞がっていくのを感じていた。俺はもう、被害者じゃない。自分の意志で、自分の人生のクラッチを握っている。
セルボタンを押すと、源さんが調律してくれたエンジンが「トトトト……」と最高の音を響かせた。
「待たせたな。行くぞ」
夜の名古屋を抜け、進路は三重県へ。
そこを越えれば、いよいよ鈴鹿峠。ゴールの京都は、もうすぐそこまで迫っていた。




