第7話 岡崎の油臭い手と、鉄の調律
『源さんモータース』
ガラス戸はオイルの煤で黒ずみ、店内には解体されたスクーターや古いカブが所狭しと並んでいる。奥の作業場で、油塗れのツナギを着た小柄な老人が、黙々とペンチを動かしていた。
「すみません、タペットの音が少し気になって……」
晴文が声をかけると、老人は顔も上げずに「そこに止めな」とだけ言った。
店主の源さん(71)。この道一筋で50年、地域の足を守ってきた頑固職人だ。
源さんはおもむろに立ち上がると、晴文のTWに近づき、エンジンに触れることもなく、しばらくそのアイドリング音をじっと聴いていた。まるで医者が聴診器で患者の心音を聴くような、鋭い目付きだった。
「……20年近く、ろくに乗ってなかったろ、これ」
「分かりますか」
「エンジンの鳴き声で分かる。オイルは換えてあるが、中の金属が急に回されてびっくりしてやがるんだ。人間の体と一緒だよ。ずっと座り仕事だった奴が、急にフルマラソン走ったら膝を壊すだろ」
源さんはニヤリと不敵に笑うと、工具箱からいくつかのレンチを取り出し、手際よくTWのエンジンヘッドを開け始めた。
「待ってな。少し骨継ぎ(調整)をしてやる」
カチ、カチ、と小気味よい工具の音が、静かな作業場に響く。
晴文は、棚に置かれた年代物の工具や、壁に貼られた古いバイクのポスターを眺めながら、ふと思った。
「源さんは、この仕事をずっと一人で?」
「あぁ。50年な。一時は若い奴を雇ったり、店を大きくしようかなんて色気を出したこともあったが、性分に合わねえ。俺は、目の前の一台の鉄くずを、自分の手で最高のご機嫌にして返す。それだけで生きてきた」
源さんは、細かなネジを指先で回しながら呟いた。
「世の中はどんどん新しくなる。今のバイクは全部コンピューター管理で、俺みたいな年寄りの入る隙間はねえ。だけどよ、こういう古いキャブ車(燃料を機械的に送る仕組みのバイク)は、乗り手の扱い方と、俺らの手加減次第で、いくらでも寿命が延びる。裏切らねえんだ、鉄は。手をかけた分だけ、ちゃんと応えてくれる」
その言葉が、晴文の胸に深く刺さった。
(手をかけた分だけ、ちゃんと応えてくれる)
自分はどうだっただろうか。会社という巨大な組織の中で、他人の評価や数字ばかりを気にし、自分自身の「手」で何かを形にすることを忘れていなかったか。他人に人生のハンドルを握らせたまま、ただ流されていたのではないか。
「よし、かかったぞ。キックしてみな」
源さんがツナギの袖で額の汗を拭った。
晴文がペダルを踏み抜くと、エンジンは先ほどまでの不快な金属音を完全に消失させ、「トトトトト……」と、信じられないほど深く、滑らかな低音を刻み始めた。
「すごい……新車の時より静かかもしれないです」
「職人を舐めるなよ」
源さんは誇らしげに胸を張った。
代金を支払おうと財布を出すと、源さんは「一万ポッキリでいい」と、相場よりずっと安い額を告げた。
「その代わり、京都まで絶対にこいつを泣かせるなよ。乗り手がへっぴり腰だと、バイクもへそを曲げるからな」
真っ黒に汚れた、しかし力強い源さんの手が、晴文の肩をポンと叩いた。
油の匂いと、確かな職人のプライド。
岡崎の町を出発する晴文の心には、昨日とは違う、一本の太い「芯」が通り始めていた。
TW200のエンジンは、かつてないほどご機嫌なビートを刻みながら、尾張の国――大都市・名古屋のビル群へと向かって、力強く加速していった。




