最終話 三条大橋の朝光(あさかげ)
鴨川に架かる、木製の高欄が美しい「三条大橋」。
晴文は橋の袂にTW200を止め、サイドスタンドを立てた。
エンジンを切ると、心地よい静寂が訪れる。パチ、パチ、と熱を持ったマフラーが小さく冷えていく音がした。
東京から京都まで、約500キロメートル。
20年間動かしていなかった古いバイクと、すべてを失った42歳の男が走りきった距離だ。
ヘルメットを脱ぐと、京都の初夏の柔らかな風が、汗ばんだ髪を揺らした。
橋の上を行き交う人々、鴨川の等間隔に座る恋人たち、穏やかに流れる川の水面。すべてが眩しかった。
晴文はスマートフォンを取り出した。電源を入れると、東京からの連絡は一件も入っていなかった。かつての会社からも、元恋人からも。
けれど、もう胸を締め付けるような寂しさは微塵もなかった。
代わりに、晴文はタカシから送られていたメールを開いた。そこには一枚の写真が添付されていた。
三保の松原の夕暮れ、黄金色の波しぶきの中で、力強く佇む自分のTW200。
『麻木さん、僕の人生の最高の1枚目です。京都に着いたら教えてください』
晴文は三条大橋と、その傍らに立つ相棒の写真をカメラで収め、タカシへ返信した。
『今、着いた。最高の旅だったよ』
それから、おもむろに自分の両手のひらを見つめてみる。
ハンドルを握り続けたせいで、真っ赤に擦れ、固いマメができている。油の匂いも少しだけ染みついている。
会社の名刺も、肩書も、ここにはない。
けれど、ここにあるのは、自分の意志で500キロの道を切り拓いてきた、42歳の麻木晴文という一人の男の、剥き出しの身体そのものだった。
「さて……」
晴文はふっと微笑み、京都の青空を見上げた。
お腹が減っていた。まずは近くの店で、温かいものでも食べよう。それから、これからの新しい人生の計画を、この手でゆっくりと書き始めればいい。
晴文はTWのシートに優しく触れ、「ありがとな」と小さく呟いた。
四十二歳の再起動の旅は、今、最高の青空の下で、新しい日常へと繋がっていった。
完




