第4話 駿河湾の風と、ファインダー越しの再生
無人販売所の錆びかけたベンチ。晴文は手元の缶コーヒーを青年へ差し出した。青年は「いいんすか」と恐縮しながら、それを両手で受け取った。
彼の名前はタカシ(24)。東京の小さな映像制作会社でアシスタントをしていたが、過酷な労働環境に心折れ、一週間前にすべてを投げ出して飛び出してきたのだという。
「カメラマンになりたくて上京したんですけどね。毎日上司に怒鳴られて、終電を逃してデスクで寝て……。何のために生きてるか分からなくなっちゃって。だから、一番原始的な方法で、自分の足で東海道を歩いてみようと思ったんです」
タカシは苦笑しながら、愛おしそうに一眼レフカメラを撫でた。
「でも、足はマメだらけだし、箱根は死ぬかと思ったし、もう心折れそうで。そこにこのTWが見えて……。僕、高校生の頃からこのバイクに憧れてたんですよ。だから、つい声をかけちゃいました」
晴文は、タカシの中に「少し前の自分」を見た。がむしゃらに働き、擦り切れて、自分の輪郭を見失っていく姿。
「……乗るか」
「え?」
「京都まで行くんだろ。俺も同じだ。静岡の間だけでも、後ろに乗っていくか?」
タカシの目が少年のように輝いた。
「いいんすか!?」
大きなリュックを背負ったタカシを後ろに乗せると、TW200のサスペンションがグッと沈み込んだ。
二人乗り(タンデム)になった車体は、これまで以上に重く、スピードも出ない。だが、ギヤを繋いでアクセルを開けると、単気筒エンジンは力強い鼓動を刻んで走り出した。
国道1号線、由比の海岸線。
左手には遮るもののない駿河湾、右手には切り立った山々。かつて歌川広重が浮世絵に描いた「東海道五十三次・由比」の大パノラマが広がる。
「うおおお! すげえ!!」
後ろでタカシが歓声をあげる。
ヘルメット越しでも、彼の興奮が伝わってきた。タカシは走行中、必死に体を安定させながら、何度もシャッターを切った。
カシャ、カシャ、という機械的な駆動音が、風の音に混じって晴文の背中に心地よく響く。
夕方、二人は清水の三保の松原へと立ち寄った。
バイクを止め、砂浜へ歩く。夕暮れ時の空は、淡いピンクと紫が混ざり合ったような、息をのむほど美しいグラデーションを描いていた。その向こうに、雪をわずかに残した富士山が、静かにたたずんでいる。
タカシは砂浜にしゃがみ込み、真剣な目でファインダーを覗いていた。夢中でシャッターを切る彼の横顔には、さっきまでの悲壮感はどこにもなかった。
「麻木さん、見てください」
タカシが液晶画面を見せてくれた。
そこに映っていたのは、夕日を浴びて黄金色に輝く波しぶきと、その傍らに佇む、使い古された灰色のTW200の姿だった。
「僕、会社を辞めたとき、自分の才能も時間も全部無駄にしちゃった気がしてたんです。でも、この景色を見て、シャッターを切ってたら……なんか、まだ俺、カメラが好きだって思えました」
晴文は画面の写真をじっと見つめた。そこには、東京で死んだような目をしていた自分を、ここまで運んでくれた相棒が、最高に格好いい姿で写っていた。
「……いい写真だな」
「ありがとうございます。これ、僕の『再出発』の1枚目にします」
タカシは照れくさそうに笑った。
晴文の心の中で、小田原の譲二が言った言葉が再びリフレインしていた。
(会社を失くしたって、あんたの20年が消えるわけじゃねえ。オイルを換えて、キックすりゃ、また動く)
タカシも、自分も、まだ動ける。
夜の帳が降りる駿河湾を見つめながら、晴文は静かにそう確信していた。




