第3話 霧の箱根峠と、1速のペダル
小田原を過ぎると、道は牙を剥いたように斜度を増していった。
国道1号線、箱根新道。
かつて営業車で何度も駆け抜けたはずの山道だが、TW200のシートの上から見る景色は、まったくの別物だった。
急勾配のカーブが続く。時速は40キロ、30キロと落ちていく。2速ではノッキングを起こしそうになり、晴文は左足のつま先でギヤを1速へと蹴り込んだ。
ボボボボボボ! と、単気筒エンジンが悲鳴のような高回転の金属音を山々に響かせる。
大型トラックや最新のSUVが、猛烈なスピードで晴文の脇を追い抜いていった。風圧で車体がぐらりと揺れる。
「がんばれ、もうちょっとだ……」
ハンドルを握る手に自然と力が入る。
東京にいた頃の自分そのものだった。周囲のスピードについていけず、必死にエンジンを回し、それでも置いていかれる焦燥感。
だが、どれだけ遅くても、TWの太いリヤタイヤは確実にアスファルトを噛み、前へと進んでいた。他人の速度なんて関係ない。この鉄の塊は、自分の出せる全力をただ実直に出しているだけだった。
山頂に近づくにつれ、周囲は白い霧に包まれていった。
視界はわずか数メートル。湿った冷気がマウンテンパーカーを抜けて肌を刺す。
どれほど走っただろうか。不意に視界が開け、下り坂に差し掛かった瞬間、霧の切れ間から眼下に巨大な水面が姿を現した。
芦ノ湖だった。
「……綺麗だな」
晴文は思わずバイクを路肩に止め、ヘルメットを脱いだ。
営業マン時代、出張の途中で何度もこの近くを通ったはずだった。けれど、車窓から一瞬目をやるだけで、心に留めたことなど一度もない。
深く息を吸い込むと、冷涼な空気と一緒に、木々の青い匂いが肺を支配した。42歳になって初めて、自分の意志で景色を見ている気がした。
箱根の峠をゆっくりと下り、静岡県へと入る。
三島を抜け、沼津を過ぎる頃には、左手に駿河湾の穏やかな海が広がっていた。
富士市のあたりで、時刻は昼を回っていた。
さすがに空腹を覚え、国道沿いにある小さな無人野菜販売所の脇にTWを止める。ヘルメットをシートに置き、自販機で買った缶コーヒーを口にしていると、「あの、すみません」と声をかけられた。
振り返ると、大きなリュックサックを背負った、20代半ばほどの青年が立っていた。
泥のついたスニーカーに、ヨレヨレのTシャツ。
「それ、TWですよね。めちゃくちゃ渋いっすね……」
青年の目は、晴文の古いバイクに釘付けになっていた。彼の胸元には、少し古びた一眼レフカメラがぶら下がっていた。




