第2話 小田原の金目鯛と、燻ぶる炭火
横浜を抜けたあたりから、空は完全に夜の帳を下ろしていた。
TW200の暗いヘッドライトが、国道1号線のアスファルトを頼りなく照らす。湘南の海沿いを走る頃には、夜風が容赦なく体温を奪っていった。5月の夜風は、42歳のむき出しの心には少し冷たすぎた。
ガガガ、と不意にエンジンが息継ぎを始める。
「おい、嘘だろ……」
慌ててリザーブタンクに切り替えたが、数キロ走った先の小田原付近で、ついにプスンと静かに沈黙した。ガス欠だった。
時刻は深夜2時。
晴文は重いTWを押し、静まり返った小田原の港近くの路地を彷徨っていた。右手の痺れと足の疲労が限界に達したとき、暗闇の中に一筋の赤提灯が見えた。
『居酒屋 みなと』
引き戸を引くと、ガラガラと乾いた音が響いた。
「へい、いらっしゃい……って、ありゃ。ずいぶんお疲れだね」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、ねじり鉢巻をした、がっしりした体格の男だった。店主の譲二(55)。客は誰もいない。
「すみません、バイクがそこの路地でガス欠してしまって。少し休ませてもらってもいいですか」
「なんだ、ライダーか。いいよ、そこに座りな。今ストーブつけてやるから」
晴文はカウンターの端に腰掛け、温かいお茶をすすった。生き返るような心地がした。メニューも見ずに「何か温かいものを」と頼むと、譲二は黙って小ぶりの金目鯛の煮付けと、白飯を出してくれた。
「これ、売り物にならない小ぶりなやつだからよ。食いな」
甘辛く煮付けられた魚の身を箸でほぐし、口に運ぶ。
その瞬間、張り詰めていた何かが急激に緩み、晴文の目から熱いものが溢れそうになった。昨日まで、東京のオフィスで数字と書類に追われ、冷え切ったコンビニ弁当をデスクで齧っていた日々が、遠い過去のように思えた。
「……美味いです」
「そうかい。顔に『行き詰まってます』って書いてあるぜ、あんた」
譲二は手際よく包丁を研ぎながら、ぽつりぽつりと話し始めた。彼もまた、10年前までは横浜で大きな印刷会社を経営していたという。しかし、不渡りを出して倒産。すべてを失い、この小田原の港町へ流れ着いた。
「借金まみれでさ、夜逃げ同然よ。もう人生終わりだと思った。でもな、この街の漁師連中が、売れ残った魚を『お前これ食って死にやがれ』って置いていくんだ。悔しくて、美味くてさ。気づいたら、ここで包丁握ってた」
譲二は晴文の、営業職特有の「擦り切れた手のひら」を見て、すべてを察したようだった。
「会社を失くしたって、あんたの20年が消えるわけじゃねえ。ただ、ちょっとエンジンが焼き付いただけだ。オイルを換えて、キックすりゃ、また動く」
翌朝、譲二はガソリン缶からTWに燃料を分けてくれた。
「代金はいらねえ。京都に着いたら、美味い生八ツ橋でも食え」
晴文は何度も頭を下げ、再び国道1号線にTWを走らせた。
エンジンは昨日より心なしか、軽い音を立てている。
前方には、東海道最初の最大の難所――箱根の山が、朝霧の向こうに雄大にそびえ立っていた。




