第1話 リブートの鳴る音
二十年という歳月は、段ボール箱二つ分の重さしかなかった。
麻木晴文(42)が品川のオフィスビルを後にしたとき、空は嫌に抜けるような青さだった。経営悪化に伴う人員整理。営業一筋で、夜遅くまで顧客の無理難題に付き合ってきた見返りが、「早期退職優遇制度」という名の、事実上の解雇通知書だった。
追い打ちをかけるように、その夜、五年付き合った恋人からスマートフォンに短いメッセージが届いた。
『もう、お互いのために終わりにしよう』
電話をかけても、呼び出し音すら鳴らなかった。
四十二年かけて積み上げてきたはずの「まっとうな人生」が、わずか十二時間足らずで綺麗に蒸発してしまった。
東京・大田区の古いアパートのガレージ。晴文は、埃をかぶった灰色のバイクの前に立っていた。
ヤマハ・TW200。
二十代の頃、木村拓哉のドラマに憧れて背伸びして買ったストリートバイクだ。スカチューンされた無骨な車体、極太のリアタイヤ。当時は輝いて見えた相棒も、ここ十数年はただの「動かない粗大ゴミ」として、ガレージの隅で眠っていた。
「……まだ、動くか」
晴文はスーツを脱ぎ捨て、クローゼットの奥にあった古いチノパンとマウンテンパーカーに着替えた。バッグに数日分の下着と洗面用具だけを詰め込み、ガレージへ戻る。
キャブレターのチョークレバーを引き、キックペダルに体重を乗せる。
スカッ、と軽い音が虚空に響くだけだった。
二回、三回。額に汗がにじむ。
「頼む……」
四回目。渾身の力で踏み下ろした瞬間、ボボボボボ……と、太く低い排気音がガレージのコンクリート壁に反響した。白煙とともに、眠っていた心臓が目を覚ます。二十年前のガソリンとオイルの匂いが、鼻腔を突いた。
行き先なんてない。ただ、この東京にいたくなかった。
晴文はヘルメットを被り、クラッチを握って一速に入れた。トランスミッションがガチリと噛み合う。
国道1号線――かつての東海道。
西へ向かう旅が、始まった。
多摩川を渡り、神奈川県に入ると、東京の街並みがゆっくりと崩壊し、郊外のロードサイド店舗が連なる景色へと変わっていく。
TW200の単気筒エンジンは、決して速くはない。時速60キロを超えると、ハンドルを握る両手が強烈な振動で痺れてくる。だが、その「不器用な振動」が、麻痺していた晴文の感覚を無理やり呼び覚ましていくようだった。
「俺は、何のために働いていたんだろうな」
ヘルメットの中で呟いた声は、風の音にかき消された。
バックミラーに映る自分の顔は、驚くほど疲れていて、そして、どこか少しだけ、自由に見えた。
最初の宿場町、川崎を通り過ぎ、バイクは横浜の夜へと滑り込んでいく。東海道五十三次、四十二歳の男の、長い再起動の旅はまだ始まったばかりだった。




