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五之八


 身体とは、魂の器だ。肉の器。それ自体が生きていて動ける代物だとしても、魂という動力が無ければそれはただの――入れ物なのだ。

 だから、それを抱きしめてしまえば。魂に取り付きたいと企んでいるそれが、近くの動力を求めてしまう。黒い渦が、晴れないもやが、飲み干せない灰汁が、輝夜に飛びかかりたいと叫んでしまう。


「――あ、ぁ、!」


 悲鳴すら満足にあげられない。

 それほどまでに、その衝動は。心臓を揺さぶるのだ。


『会いたい』


 と、妻の声が見えなくなった世界の中で木霊している。


『会いたい……!』


 泣き声は海のさざ波に調和して、二つが大きく泣いている。


『どうして、泣いているの?』


 その優しい声は、知らない男の声だった。

 闇に飲まれた妻の肩に、手をかける。


『そう、それは――許せないな。じゃあ、可哀想なあなたに祝いを一つ。神に断たれた糸なら、神が繋げてあげる。この海であなたが夫婦の契りを果たすことが出来たら……僕の国へ連れて行ってあげる』


『……それは?』


『それは――神の国だ。僕がちかってあげる。あなたを悲しめた神ではなく、僕があなたを掬い上げてあげる……。さあ、どうしたい』


 甘い声で何かを舐める舌先だ。妻が一つの果実だとしたら、今この瞬間、彼女は食われたのだろう――――。


「危ない! なあ、ほんと……」


 ばちん、と接続が切れた心地で、輝夜は尻餅をついた。

 腕にあった妻の身体を抱えているのは陰陽師――三善一誠で、ふう、と一つ息を吐いている。


「この身体は一旦こちらで預かります。今身をもって味わっただろ。まったく、ほんと……関東の担当が僕でよかったね」


 輝夜が無意識の領域で妻の指先に己の指を伸ばす向こう、空に、曇天に、その異常はあった。

 三善すらもどこか青い顔で見上げる暗雲だ。それは、まるで、大きな影で。影の形は、かたちは、かたち……は……。

 空では無く、海から昇る雷がある。それは蛇行しながら天を駆けあがり、一つの天の在処を八つの指先で指し示す。

 嵐を呼ぶこともなく光り続ける稲光は、次第にこの地の妖、陰陽師、境界の向こう側にいる者へ名を示すだろう。

 象られし形は巨大なる角。それらを戴く頭。覗く双眸はあらゆる病にて地を平らにせし神の意思。その名こそは、牛頭天王。

 

「天道……神……!?」


 そう、陰陽師の世界では吉を示す方角の守護神、即ち天道神――牛頭天王である。


「まずい――まずい!! 葵は!? 萩原の……あの子は!?」


 三善があからさまに焦っている。


「あ、あの人なら女の子を探してるはずです!」


 燈夜が答える。三善は奥歯を噛み締めると、くるりと背を向けた。


「まずい――じゃああれは、贄の力だろう! 骨董屋へ案内してくれ! まずいまずいまずい……牛頭天王なんて、鏡子様にどう報告すれば!!」


「骨董屋に行く!? 二人をはやく探さなくていいんですか!?」


「いいのよ燈夜! 骨董屋と葵は繋がってる! あたし達がこの足で探すより、骨董屋に葵を引っ張って来てもらうわ!」


「べ、便利ですね……」


「神社も似たようなものでしょ!」


「え? あ、うーん……そう、かも」


 三人は空を超えコンクリートを滑り、大きな口を開く屋敷の門をくぐる。門は既に琥珀が開けている。三人の中に葵と小春がいないのを確認して、さらに険しい顔を深めていた。


「一誠! 一誠はまずその身体の邪気を祓え!」


「玄武に言われなくてもそうするよ、わかってるし! 葵と萩原を頼んだぞ!!」


 三善と式神二人は、そのまま奥の部屋へ駆けていく。それを見送って、輝夜と燈夜、琥珀は店の方へ走り出す。

 三人の慌ただしい足音はそのまま骨董品たちをも揺らし、輝夜は店の戸に手をかけた。


「ッ……はぁ――はぁ。葵を店に引き戻すわ、いいわね!? お願い、すぐ見つけて……小春ちゃんも……葵も……同時に連れてきて!!」


 その叫びは何の意味を成すのか燈夜にはわからなかったが、確かにこの建物がそれに応えているような気がする。何もしゃべらない木造建築なのに。

 輝夜が勢いよく戸を開いた。チリン――となる鈴は来客ではなく、店主と娘を探すベルだ。戸の向こうに広がるはずの鎌倉の空は無く、ただ黒いインクを混ぜすぎて台無しにした色模様をぐるぐると渦巻いて、その奥から生温い風を店の中に突入させた。

 一歩、二歩下げさせられる輝夜以外の二人の足。穢れた気を孕んでいるようにも感じて、骨董品たちがカタカタと身震いをしている。

 チリンチリンチリン――鈴が主と娘を探している。輝夜は目を細めながらも、渦の向こうを見ている。


「葵!! 小春ちゃん!! どこにいるの!!」


 ドア床の金具を草履に食い込ませて輝夜が叫ぶその闇の奥に――見知った匂いが一陣の風と共に明確に鼻腔を掠めた。血の匂いもした。

 琥珀も、燈夜も顔を上げた。その一瞬で十分だった。

 輝夜が差し入れた右腕が何かを引き上げ、その塊は店の奥へ転がっていく。磨かれて澄まし顔で鎮座している骨董品たちも、耐え切れずに転げ落ちていく。

 戸は閉め手を失ったが、一人でに閉まることを許されていると判断して、固く戸を閉じた。不作法な訪問者――主が忌み嫌う者の侵入は許せない。

 輝夜は燈夜を肩を掴んで下がらせて、その塊に飛びついた。その塊は大きな牙を振りかざして――、輝夜の右手に貫通する。血が、流れている。二匹は転がっていく。およそ人の言葉を介せずに、ただ押さえ付ける勢いだ。その横を、兄が掬い上げた。


「小春!! 小春……っ!!」


 ぐったりとした少女の身体を濡らす血は、酷く甘い芳醇な熟れた果実の香り。自覚してしまえば、精神は狂う。が故に、琥珀はそのまま身体を抱いて一目散に駆け出した。

 燈夜は上がる心拍数にえずいて、その場で口をぱくぱくとさせて息を取り戻そうと足掻いている。

 三善三善三善――ッ!! と頭蓋の中を埋め尽くして、琥珀は唯一の明かりの下へ転がった。


「でかしたわ!! 玄武抑えつけよ!」


「言われなくとも!!」


 そのまま玄武は琥珀に馬なりになった。暴れ絶叫を噛み殺す様子をあやしながら、舌を髪切らないように口をこじ開けようとしている。

 六合は小春に駆け寄ると、そのままふう、と息を吹きかけた。

 血を流す傷口を蔓が覆い、垂れた血の軌跡には赤いケシの花が咲いていく。それは身体だけではなく、床を零れ落ちた血にも、店に飛び散った血にも、葵に纏わりついてしまった血にも同じように咲く。


「八重に九重に高く高く積み編み上げよ、葛籠!」


 虫の息の封じの(まじな)いを揺り起こして、最後の力を振り絞らせる。今はそれしか講じれる手段がない。この屋敷自体も身を隠してくれているけれど、この匂いは屋敷の力をもすり抜けるだろうから。

 でも――ひとまずは。一段落……か?

 三善が汗を拭いながら見上げた空――そこにある牛の角を持つ頭は、大きな地響きを最後の威嚇として、霧散した。

 晴れいく空に月が昇る。月の光を目に受けて、さすがの三善も……ずるずると膝を畳みに滑らせた。

アルコール中毒よりカフェイン中毒の方が健康的ですよね?

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