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五之六

 ゆらゆらと揺らめく炎は何かの意志ある形のようで、それは舞台を見上げる観客の瞳のように見えた。

 艶やかな炎を照り返す少女の四肢や頬も、まるでその戯曲を彩る一つの要素のようで嫌に馴染んでいる。

 小春の瞳は気道を捕らえられているにも関わらず、苦し気に細められている様子はなかった。


「ああ、なんとめでたきハレの日に――ようやく間に合うのか、おまえは」


 小春に馬乗りになっている少年は、ゆっくりと葵を振り返った。

 葵はその顔に見覚えは、ない。だがしかし、はっきりとそれが誰であるのか――葵は自覚した。


「御館様――」


「はは。嬉しいよ、おまえも見ていくと良い。今日こそ、もう一度結ばれよう」


 少年が見開いた瞳から、右目から、血が流れた。一筋の軌跡は明らかな瘴気の煙を上げてその頬を焼いていく。彼は痛みさえ感じないのか、気づかずにその頬を爛れさせている。


「ああ、嬉しい、うれしい。こんな日が来るのをどれほど待ち望んだか。ああ、うれしい、うれしい、……好きだよ、永遠に」


 爛れ血がにじむ頬で、小春の頬をなぶる。小春は目を瞬かせるだけで、一見冷静に見える眼差しが葵を捉えた。


「あお、」


 しかし、その首に食い込んだ指が、確かな殺意をもって強められた。小春の声はただの空気にしかならずに、確かにその首が屈折していく。

 それでも小春は特段の抵抗をしない。男の体重がかかっているから、出来やしないのか。


「小春――ッ!! ぐッ、貴様、なぜ!? 鴉ッ!!」


 飛びかかろうとした葵を羽交い絞めにしたのは、小春を上空へ掠め取ったその鴉だ。

 葵の首を腕で絡めとり、その意志の無い瞳を葵に晒す。葵はこの男が、小春に馬乗りになっているその少年の手に落ちていることを悟った。動けない。決死の動きならば、一度だけ、何か出来るやもしれないが。

 小春、と葵は見た。小春は抵抗の形さえ示さず、ただ少年を見つめていた。

 少年はその瞳を受け入れて、微笑んでいる。

 小春、小春。そうまでして、何も受け入れずとも良い。そうまでして、何かを諦めずとも良い。

 私は――ただ、小春に。いつかの幼い手の温もりのまま、この手を離れ走り去って欲しい。遠くで此方を振り返り、笑って見て欲しい。ただ、それだけの、欲で。

 今、この因果を別の因果で、遠ざけてしまっても……いいのだろうか。


「から、す、ッ……!!」


 葵が下手に動けば、その鴉天狗はもち得る力をもって葵の骨を砕こうとするだろう。

 葵はゆっくりと息を吸った。二度、三度、――覚悟を。己に決めさせるため。


「小春……」


 その声を、小春はしっかりと拾った。瞳を葵へ移す。

 その一瞬だけで、十分だった。

 葵は渾身の力を振り絞り、鴉を壁へ打ち付ける。鴉は己の痛みを感じていないという動きで、再び葵はつかみかかろうとする――その間隙でいい。それだけで、葵は呪いを発動させ得る。

 嗚呼、なんと忌むべき因果だ。この娘には何の関係もないのに、脈々を受け継がれていく至高の果実よ。


「……血が」


 少年は、小春の胸元を見下ろした。首にかけていた手を離し、その胸元へ手を当てる。

 とくとくとく、と、まるで盃を零したかのように、赤い蜜が垂れていく。

 からん、と転がった音のする向こう。――短刀が落ちていた。

 少年が葵を見た。葵は立っていた、凄まじい形相で。葵の傍で、目を漲らせた鴉が――ふらりと小春を見た。

 小春は驚きもせず――少年に微笑んで見せた。


「これが――因果。貴様が、彼女を、そうさせたのだ」


 葵は右手で顔を覆って、憎々しいと歯を軋ませる。

 全ての時が止まっていた。それは、皆が見つけたから。妖に傾いた者ならば、皆求めるものだから。――まさかそれが、目の前に転がっていた、なんぞ知れたら……誰だって、一度は我を失う。そして、その次は?

 その次は――。


「守れぬだろう!! 貴様が、小春を!!」


 その葵の慟哭に放たれた鉄砲のように、この境内で嘲笑の愉悦に浸っていたあらゆる妖達が、この部屋に飛び込んできた。それはさながら炎上する赤い焔のように、それは全てを押し流す濁流のように。葵はその穂先の一へ、波の一へ身体を躍らせ、小春を抱き込んだ。

 その毛並みへ血を染みこませ、それがたとえ誘導灯になろうとも構わずに逃げて逃げて行く。少年の狂気に侵された怒号など彼方へ放り投げ、ただひたすらに走れ!!

 一心不乱に逃げる。口に腕に咥え抱いた命が強く抱き着くから、それを落とさないように走っていく。汗が血がまとわりつく視界を照らしたのは一つの清涼な香りだ。

 そこには門があった。確かではないが、残像でそう認識する。そこに足を一歩踏み入れた瞬間――逃げおおせた、と確信が葵を襲い、葵は転がり失速した。

 腕で小春をしかと抱きしめ、その身体は床を滑り行き柱に追突する。血はどちらの血かもうわからずに、ただその屋敷の床に染み付いた。

 その床を軋ませる音がある。葵はもはや錯乱する脳を無理やり踏みつけた静の視界を持ち上げて、小春を守る姿勢のまま、牙を向いた。


挿絵(By みてみん)



***



「ずっと、お傍で、愛してください――――」


 その女の声が、振り払えない快楽に近かった。輝夜は夢を見ている。目を開けたまま、確かにその腕で歪なる蛇の女を抱いたまま、都合の良い幻想に囚われていく。僅かに残った理性が叫べば叫ぶほど、遥か昔に忘却した己が歓喜の声を打ち震わせる。

 逢いたかった。確かに受け入れた定めである。それでも、誰かに許してほしかった。

 唯一の愛だった。もう何に巡り合おうとも、この愛だけは替えが効かなかった。替えなど、要らなかった。

 嗚呼、このまま輝夜は死んでいくのだろう。

 幸せな夢に抱かれたまま。よく出来た偽物でも良い。それでも、愛した彼女の面影に触れられるなら、それだけで――――。涙が出る。本当に、嬉しくて、嬉しくて……。


「……さ――。と、――父さん!!」


 薄らに目を開ける。遠くで、大切なものの声がする。

 でも、あれ? おかしいな。俺のたいせつなものは、今目の前に、ふたつ、ちゃんとあるのに。


「父さん!! いけません!! 母さんを離さないと!! 父さん!!」


 濁った水の中では、うまく音が形を成せないで。

 ただぷくぷくと、水上に消えていくだけだ。


「父さん、とうさん――!!」


 嗚呼、どうしようもないなら、どうとでもなれ。

 好きな人と一緒にいたい。ただ、それだけか、こんなにも……罪だと、言うのか。




「父さん!! ……駄目か。何とか中に入らないと……」


 大蛇同士は絡み合い、水蛇は圧迫の内に死んでしまう様子を見せている。

 傍に息子が寄ろうとも、両者は身体を解かせたりしない。

 純白の蛇は人の姿で、何とか父の魂がある夢、あるいは幻想へと至る道を探している。切れ目があればあるいは、と燈夜は考えていたが、わずかな視界の動きでは捉えることが出来ない。

 ならば、……。


「……お許しいただけるであろう、我が主ならば……」


 悠然と立ち、海風がその衣を揺らすがままに任せる。


「――我は、貴船の奥に鎮座せし者の遣いである。我が燈夜の名において、ここに御身の力を借り受けん。許し給え、我が主よ。その断ちの剣、今其処より我が手へ!」


 背後の海が、浜の水が、引いている。

 水神に仕える神使は、今やその神の代行者だ。故にこれは、神の言伝である。

 ならば、水であるならばその言葉に従え。


「せり上がり我が行く龍穴となれ!! いざ、十拳剣よ!」


 その声と共に、一気に海水が浜を丘を音もなく侵し、とある山が小さく顔を出した。

 絡み合う蛇の真下へと流れ出た水から覗くそれは、狙いを定めたようにせり上がり――嗚呼、山では無い。それは、剣の背だ。海の中に隠した誰かの手が柄を握り、蛇の真下から剣を持ち上げたのだ。

 せり上がった水辺の真下は赤い雫が零れ落ちる。血に似た色は輝きの彩りでもはや祝福の域に近く。しかし剣の峰であろうとも打たれた蛇は悲鳴を上げる。神使よ、たとえ奥宮の御遣いであろうとも、力の再現は完全ではない。その剣が開けた口が閉じる前に、燈夜はその身体を中へ滑り込ませた。


「父さん!! 母さん!! どこですか!!」


 中に入ると、そこは水底だった。

 微かに記憶に残る故郷の色である。

 駆ける足で、在りし日の家へたどり着いた。


「……父さん……」


 そこには、父がいて、母がいて、幼い自分がいた。

 永遠と願った日々が何も変わらずに、そこにあった。

 ああまるで、桃源郷のような呪術だった。

 されどそれは、全てが泡沫のまやかしだ。


「――父さん!!」


 燈夜は飛び込んだ。陽だまり灯る幼き日々の情景へ、それを崩す者として。

 父へ駆け寄ると、その男は――輝夜は驚きに目を丸めて、飛び込んだ燈夜を受け止めた。


「……? ええと、急に何か?」


 僅かに警戒の色である。母と幼子が寄り添っている。


「父さん!! 起きてください!! こんなのまやかしだ、嘘だ!! 母さんはボクらが人間へ戻したんじゃないか!! もう母さんはいないんだよ!! 父さん!!」


「は、はあ。急に来て一体何を」


「うるっさい父さん!! 時間が無いんだよ!! 何で自分だけ寝てることを受けていれるんですか!! 父さんが決めたんじゃないか!! 母さんと離れるって、もう傍にいられないって、父さんが一人で決めたんじゃないか!! 今更それを、自分だけ過去に戻って、もう一回母さんとやり直そうなんて、ずるい、ずるいずるい!!」


 燈夜の目には、涙が滲んでいた。それは下に落ちることはない。上へ上へ、上がるだけで、零れることを許されはしない。


「ボクは頑張って受け入れたんだ!! ボクだって母さんと離れたくなかった!! でも父さんが言ったんだ!! 『母さんが好きなら』って!! 母さんのために、父さんのために!!」


 輝夜は口を閉ざしている。


「全部全部、父さんが納得して決めたことだろ!! 目を覚ましてよ、こんな都合の良いこと、あるわけないじゃないか!! 有り得ないから、ボクは神使として、頑張って来たのに!! これじゃあ、これじゃあ、母さんが可哀想だよ!!」


 輝夜の彼方の記憶に封じ込めた女の顔が、蘇る。


『離れたくないわ。あたし、このまま、妖になっても構わない!!』


 妻は、泣いていた。歪になりいく身体も、心も、魂も悲鳴をあげながら、その手を伸ばしていた。


『燈夜だって、まだこんなに小さいのに。あなただって、あたし無しで、どうやって生きていくの? あたし達、やっと、一つになれたのに……!! こんなことのために、何もしなくていい! 変わることをあたしは恐れないわ、だって、変わったからこそあなたに再会出来たのよ!!』


 妻はただ、泣いていたんだ。


『あたし、あなたを愛したことを、燈夜を産んだことを、否定したくない!!』


 それでも――と決めたのは。


「……そう、俺だ……」


「あなた――燈夜ね?」


 妻の声は、目の前の息子を捉えた。

 息子はぴたりと動きを止めて、背後を振り返る。

 妻は腰に抱き着いた幼子をそのままに、手を広げて嬉しそうに笑った。


「こんなに、大きくなって――嗚呼、あたしの坊や……!! こんなにそう、大きくなったのね……!!」


 抵抗できないままに、母の胸へ抱かれる子どもは、はっきりと理解した。


「母さん……!!」


 拒絶した。押し退けて、父へ雪崩込む。

 燈夜の顔が驚愕に慄いている。


「母さん……!! どうして、どうして……!? どうして、ここに……!!」


「燈夜……?」


 輝夜が燈夜の顔を覗き込んだ。息子は父へしがみつき、微笑む母に首を振る。それは悪い夢を醒ますかのように。それは、今を否定するかのように。


「この人は、この、魂は……――本物の母さんだ!!」


「え――?」


 幻想だ、と思いながら都合の良い偽りに溺れていたのだとしたら、それを掻き消せばきっと葵に追いつける。

 でも、いま、何と? この子は、いま、なんと?


「逢いたかった……!! やっと、巡り合えた……!! 嗚呼、神様、神様ありがとうございます。あたし、あたし――やっと報われる!!」


 恍惚とした笑みに、幼い幻想は掻き消えた。

 そう、もう嘘の光景はいらない。夫も、子どもも、本物がここに在るのだから。

 絶縁の誓いなどもっぱら御免だ。

 そんなもの、必要ない。そんなものがあるから、この心は絶望に塗れたのだ。

 嬉しい――嬉しい――!!

 嗚呼、ほんとに、生きていて、よかった……!!

シャアが言ってた。一方的な思いは相手を追い詰めるって!!

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