五之五
水蛇が、歪んだ影の蛇に絡めとられている。
二人固く抱きしめ合っているように感じられるのに、葵の目から見てそれは異常だった。
「あれは……以前言っていた……あれが、妻。なぜ、輪廻の誓いは……」
確か――輝夜は葵に語っていた。
己の絶対の運命を。愛する者との永久の訣別を。
確か……そう、確か……。
『妻は、人間は、あたし達の沼で生きていけない。だから段々、段々、あの人は弱っていったわ。それでも手放すことが出来なかった……妖に完全に変化させることも……出来なかった……。妻は随分若くに死んでしまった。あたしに囚われたばっかりに、あたしが、愛してしまった……ばっかりに……。照夜の魂は、沼地の底では輪廻の輪に乗れなかったの。あたし、そんなあの人を留めておくのが、いけないことなんじゃないかって、今更ながら、辛くて辛くて……!』
涙を流しながら、その男は語る。
『だからあたし、妻を……人の世に還そうと思ったの。自然の理に、還そうと思ったの。死後まで……あたし達に囚われるべきじゃない。魂は次の生で、新しくて正しい道を選ぶべきだから。……そんなとき、陰陽師が助けてくれたの』
『……安倍晴明?』
『いいえ。――蘆屋の。良い人だったわ。すごく感謝してる。彼がいなかったら、あたし達一体どんな選択をしてたか……。思いつめてたあたしに、彼は言ってくれたの。手伝うよ、って。代償は大きく求められるけれど、きっとあたし達の望む形になるって。……人間のまま妖の世界に来て、死んでしまった魂は……清い輪廻の流れに戻れない。照夜は望んで留まったから、黄泉の王が配慮はしないでしょう、って……。魂は朽ち果てて悪い妖に永遠に変化するか、消滅しかないから……あたしは、あたし達の魂の縁を、捧げたわ』
『それは――』
『ええ。あたし達は、照夜の魂に未来永劫接触しない。縁を取り消す。夫婦の契を、親子の契を、無かったことにする。そうすれば……あの人は、綺麗な人間のまま、輪廻に乗れるの。乗れたの、だからこれは、間違いなく正解なのよ……』
男は身にまとう女物の着物を抱きしめた。己の涙で濡らしたくは無いようだった。
いつか遠い未来で、妻の形を見つけたら。その時は遠くから見つめているだけにしたい、と語っていた。偶然に目に入ったのなら、それは不可抗力なんだから。それくらい許してほしいわ、と。
それが――こんな形で。
妻だった魂が――あれで?
蛇と歪んだ蛇が――絡み合う形で?
一体これは……どうなるんだ。
これは――なんだ?
『あたし、照夜をいつまでも愛していたい。あの人だけを、妻として心に留めておきたい。だからあたし――あたしね、こうやって生きていくのよ。鏡を見た時に、照夜に、いつでも、触れられるもの……』
絡めとられた水蛇は、絶叫している。
きっと心の奥の唯一の理性が、誓いを叫んでいるのだ。
誓いを破れば神の罰が下る。いや、神への弁明では無い。いや、或いは両方か。
手に戻らない愛の再来、否定している否定している否定している。
嗚呼、葵は、ただ荒天の空の下で……目を伏せた。
「許せ、水蛇よ。私は……」
「父のことはボクにお任せを。こういうことは息子の役目だ」
「……神使殿」
「御心配なく。ボク、父さんの自慢の息子ですから」
そうして輝夜の面影を宿した少年は微笑んで、消えた。
純白の水蛇。それは、妖と人の間に生まれ落ちた間違い――ではなく、愛の象徴だ。
その子は神使となったと、輝夜は嬉しそうに語っていた。神の使いとして身を捧げ、母の安寧を願うのだと。
「……強いな。誰も、彼も……」
葵は友に背を向け、歩き出す。
この荒野の海辺。灰汁漂う水辺に攫われた小春を見つけ出さなくてはならない。
探す必要はない。目の前に駈け上がれと言わんばかりの参道が、龍の口のように敷かれているではないか。
崩れ落ちた鳥居の奥に聳え立つ巨大な社。まるで己が神、と言いたげな暗い顔を持ち上げた境内。
葵はためらいもせずに石畳を踏み締めていく。どうせ泡沫の威勢だ。神になど、どうやったってなれはしないのだから。
社に入ると、散々な荒れ具合だが、何やら中が騒がしい。歪な雅楽が折り重なり合い、秘め事を語り合うような囁きがあらゆる所で紡がれる。
奥へ奥へ踏み入る。土足で禁域を侵す。花が付くことを忘れた茎はうなだれたまま、実がつくことを思い出せない木は背を傾けたまま時の流れを忘却させられている。
この社に張り付けられた全てが、きっと己の姿を見つめられない。
「おおみかみさまは、ようやく、伴侶を……」
そんな形の声が、葵の耳をかすめた。
「うけいのちかいは、きっといみをなさず……」
「そんなものは、かたちにすぎず……」
「ちかいはちかい、よ。ふたつはひとつ、それさえ確かであれば……」
「おわりさえ、幸福であれば」
「――それで良いのだ」
葵は目を細めてその声の在処を蹴り上げた。襖は音を立てて崩れ落ちたが、その声の二つの主はそこにいない。
「少女を返せ!! 貴様たちのモノではないッ!!」
「では――お前のものか? 呪いよ」
くすくすくすくす、と声が葵を笑っている。
「祝福せよ。そなたは、こちら側であろうに」
「ああ、そうだ。恩を仇で返そうとは、とんだ悪い子であろうか」
「くすくすくす。愛いというものであろうか」
「くすくすくすくすくすくすくす」
「おや、もうすぐ」
「おお、もうすぐ」
「いのちが終わる」
二つの陽炎が一つの方向を見た。
葵は意識より先に身体がそちらへ駆け出した。炎が揺らめく部屋に、無我夢中で飛び込んだ。
――そこに、小春がいた。
あの少年に組み伏せられ、首に手を掛けられた小春がそこにいた。
やることが……やることが、多いッ!!




