第二話:奈緒美
『逆行性健忘症』……それが私の病名とされたようだった。もちろん涼子がはっきりとそれを伝えたわけではなかったが、漏れ聞こえてくる医師との会話や、看護師たちの様子から当たりがついた。
自分の名前も(涼子以外の)家族や関係者の名前も覚えていないのに、日常生活は普通におくれる―ーいわゆる『記憶喪失』
涼子に聞くと祐介(私)は半年近く意識不明の状態だったようだ。意識の回復を半ばあきらめていた所に今回の出来事。私が事故を起こした日からも一か月余りが過ぎていた。その間私の意識は、魂はどこをさまよっていたんだろうと思った。
「お前が付き合っていたあの男は……どうした?」
「………………」
「まだ付き合っているのか……」
「……亡くなったわ……ひと月前に」
「……どうして?」
「交通事故。やっと……やっと小説が評価されて大きな賞をもらったのに……。おそらく私にその事を伝えようとしていたんだと思うの。呼び出されて彼の来るのを待っていた時だから。ほとんど即死だったと聞いたわ。……バカよね本当に……」
最後の言葉は涙声で聞き取れなかった。
「………………でも、それからしばらくして、こうしてお兄ちゃんの意識が戻ったのよ。きっとあの人がお兄ちゃんを助けてくれたのよ!」
(違う! 俺が、俺がお前の愛したバカな男だ!)そう叫び出しそうになった時、突然、手鏡に映った祐介の顔が脳裏に浮かんだ。その顔は真実を告げる事を拒むかのようにひどく悲しそうな表情だった。私は口から出かかった言葉をかろうじて飲み込むことができた。
(焦る事はない。兄の中にいるのが実は私だという事を、涼子がどう受け止めるのかをじっくり見極めてからでも……)そう考えて私は、しばらくは記憶を失った片桐祐介として生きていく事を決意した。
半年近い病床生活で、すっかり衰えた筋力を回復すべくリハビリが始まった。最初はベッドの上での指先や足先の曲げ伸ばしからスタートし、徐々に動きを大きくするよう指示された。 と同時に失われた記憶を刺激によって取り戻させようとしてか、晴れた日には車椅子で病院の庭を巡る散歩も日課となった。涼子はそれまでの仕事を辞め、病院のそばに部屋を借りて、毎日私の回復作業を手伝った。
都心に、ほど近い立地にも関わらず、その病院の庭には木々が豊かに茂り、所々に配置された花壇には花々が咲き誇っていた。木々の間を抜ける遊歩道のような小道を、涼子と2人、木漏れ日を浴びながら車椅子で巡っていると、生きている喜びに心が弾んだ。
「まあ!真っ赤なバラがこんなに……ねえお兄ちゃん、真っ赤なバラの花言葉が『真実の愛』だって知ってた?」
小さなバラ園とでも呼べそうな一角で、車椅子を押す手を止め涼子が言った。
「真実の愛か……バラのイメージだと情熱の愛って感じだけどな」
「ううん違うの。情熱の愛なんて一瞬よ。ずっと続く真実の愛の方が素敵だと思わない?」
私の事を思い出しているのかなと一瞬思った。しかし涼子の眼は遠くを見つめる風ではなく、目の前の私を真っ直ぐに見つめ微笑んでいた。青嵐が青葉を揺らしながら吹き抜けていった。
私の意識が戻った事を聞きつけて、会社の同僚(と称する人々)や友人(と名乗る人々)が見舞いに来始めていた。見舞客の半数は私の記憶喪失を知らぬまま訪れ、久しぶりの再会にも初対面のような反応を示す姿に戸惑いをみせた。初めは私への気遣いから、部屋の片隅に呼び寄せて小声で状況を説明していた涼子も、次第にあっさりと病名を告げるようになっていった。
本格的な梅雨の季節を迎え、連日の雨でお気に入りの散歩もままならなくなっていた頃、横沢と名乗る初老の管理職っぽい男性が、部下らしき数人の男たちと共にやってきた。私の事情は知っていたようで、自らを私の会社での上司と紹介した。連れの男性たちは私の同僚らしく、一人ひとりから回復を喜ぶ簡単なメッセージと共に名前が告げられた。その後横沢は涼子を応接セットの方に誘い、深刻そうに何やら話を始めた。その間にベッドを取り囲む同僚たちから工事現場での事故の様子や、その後の状況が聞かされた。
「……一回バウンドしてから当たったから良かったですよ。あんな鉄骨が直撃してたら即死でしたよ、絶対。」
「アホ! 良かったって言い方はないやろ、こんな大変な目に遭われて。……片桐先輩、ほんまに俺らの事覚えてないんですか?」
「……すまない、何も思い出せないんだ。思い出すきっかけになるかもしれないから、僕の事をもっといろいろ話してくれないか」
その一言が呼び水となって、彼らからいろいろな話を聞き出す事ができた。同期入社という男からは入社以来のさまざまな出来事が、部下だったという男からは私の仕事ぶりが、事故当時同じ現場にいた男からは事故の前後の詳しい状況が聞けた。彼らの口から紡ぎだされる片桐祐介の人間像は、涼子との事で対面した時の印象とは異なり、さわやかで面倒見の良い34歳の独身男というイメージだった。
「そういえば、奈緒美さんお見舞いに来ました? この前、街で偶然出くわしたから先輩の意識が戻った事伝えておいたんです。記憶喪失って言ったら驚いてましたよ……」
坂田という関西弁丸出しの後輩が不意に尋ねた。怪訝そうな顔をする私に別の男が慌てた様子で違う話題を振ってきた。ふと見ると坂田が隣に立つ男から脇腹を軽く小突かれているのが見えた。
涼子との話が終わったのか、横沢が皆に「そろそろ」と声をかけた。
思い思いの別れの挨拶をして皆が部屋を出て行ってから、私は涼子に尋ねた。
「横沢って人、何だって?」
「ううん、大した事じゃないの。お兄ちゃんの事故はちゃんと労災認定されているから、これからも経済的な事は心配しないで記憶と体力が戻るまでゆっくり療養して下さいって。私も仕事を辞めちゃったし、本当はちょっと心配だったの。取り合えず良かったわ」
「そうか……涼子にも心配掛けるな……」
「何言ってるの、この世に2人きりの家族じゃない! 余計な心配はしない事、分かった?」
「はいはい。………………ところで涼子、奈緒美さんって……どういう人?」
心配事が1つ解決したからか、晴れ晴れとして上機嫌だった涼子の表情が一瞬にして曇るのが分かった。触れられたくない話題だったのかもしれないが、その変化を見てなおさらその人の事が知りたくなった。無言のままの涼子に、
「いや、さっき坂田っていう奴がその人に僕の意識が戻った事を伝えたって言ってたから……」
「………………自称、お兄ちゃんの婚約者。どこかのお嬢さんみたい」
「自称?」
「……だって私、お兄ちゃんからその人の事聞いた事なかったから。お兄ちゃんが入院してからしばらくは、身内のような顔をして見舞いに来てたけど、頭の怪我が治っても意識が戻らないまましばらくしたら突然来なくなったのよ……本当に婚約してたのだったら、そんな態度取らないと思わない? やたら派手で……私あの人好きじゃない!」
予想もしなかった涼子の激しい反応と話の内容に驚きながらも、私は奈緒美というその女と祐介の関係に思いを巡らせていた。奈緒美への関心が俄然高まるのを感じた。
奈緒美が来たのは、それから数日してからだった。午前中のリハビリを終え、ベッドで上半身を起した私は所在無げに本を読んでいた。涼子は買い物に出かけていた。
恐る恐るという感じで病室の扉が開き、1人の女が中の様子を窺うように顔を覗かせた。美しい顔には少し不安げな表情が浮かんでいた。
女はベッドの上の私に気づくと、病室に足を踏み入れるなり、
「……祐介さん………………」
と呟いたまま立ちすくんだ。瞳からは涙が溢れ出ていた。それから突然女はベッドに駆け寄り、私の頭をその胸に抱き寄せた。甘い香りとふくよかな乳房の感触が、久しく忘れていた感覚を呼び覚まし胸の動悸が高まった。頭上で繰り返し呟かれる祐介の名と、吐息交じりの安堵の言葉が彼女の心情を伝えているように思えた。
しばらくの抱擁の後、体がゆっくり引き離された。彼女は両手を私の肩に置いたまま、鈴を張ったような瞳で真っ直ぐ私の目を見ながら言った。
「私は奈緒美、篠塚奈緒美。あなたの婚約者……この指輪は婚約記念だってあなたがくれた物よ、覚えてる?」
そう言って彼女は左手の薬指を私の目の前にかざした。それは、中央にルビーらしい濃い臙脂色の石が配され、その周りがたくさんの小さなダイヤで縁取られた指輪だった。
弱々しく首を振る私に奈緒美は、
「本当に記憶を無くしちゃったの……可哀そうな祐介さん……いいわ、私が絶対にあなたの記憶を取り戻してあげる」
と言いながら、もう一度私の頭を胸にかき抱いた。甘い香りが戻ってきた。
その時、「ただいま!」の声と共に涼子が帰ってきた。眼に飛び込んできたであろう室内の光景に、涼子が一瞬息を呑んだのが分かった。
「……奈緒美さん?」
入口に背を向けた奈緒美に、そう問いかけながら涼子が怖々(こわごわ)と私たちの方に近づいてくるのが分かった。
「……ああ涼子ちゃん、祐介さん本当に良かったわね、意識が戻って」
恥じる事は何もないと言わんばかりに、堂々とした仕草で奈緒美は私をゆっくり離し、近づく涼子の方に向き直りながら、そう言った。
「でも、記憶が……」
「それは私が何とかするから任せておいて。記憶を取り戻すきっかけになりそうな事に心当たりもあるし……退院して少し遠出が出来るようになったら連れて行きたい所があるのよ」
「それはそうと……奈緒美さん、どうして突然来てくれなくなってしまったんですか」
涼子が胸の中につかえていたものを一気に吐き出すかのように尋ねた。
「ごめんなさい……あの時は……前に私の両親が貿易関係の仕事をしてるって話したわよね」
大きく首を横に振る涼子。
「……言ってなかったかしら……とにかく両親が貿易関係の仕事をしていて、私がそれを手伝っているの。あの時はちょうど大きな商談が持ち上がって急にパパと海外に行かなければならなくなったの。……あの頃、先生も祐介の意識はいつ戻るか見当もつかないっておっしゃってたでしょう、だから断り切れなかったのよ。あちこち外国を回ってようやく先日帰国したばかりなの。さっそくお見舞いに来ようと思っていたら、街でばったり坂田さんに会って祐介さんの意識が戻ったって聞いたから、急いで駆け付けて来たのよ。……でも結果的に、涼子ちゃんに祐介さんのお世話を押し付けるみたいになっちゃたわよね、本当にごめんなさい。でももう大丈夫よ」
「そんな事じゃ………………」
納得がいかないままに押し黙った涼子が、手にしたレジ袋を少し乱暴にテーブルの上に置いた。その肩が小さく震えているのが分かった。一方で奈緒美は伝えるべき事を伝えた安堵感からか、私の方を向いて、満面の笑みを浮かべていた。身にまとった大きな花柄のワンピースとお揃いの華やかな笑顔だった。




