第一話:涼子
その瞬間、全身がカーと燃え上がったような気がした。まとわりつく灼熱の炎を振りほどこうにも、体中の骨という骨が発する強烈な痛みがそれを許さなかった。
(やっちまった……)視野の端に電柱に激突して停まるトラックの姿と、へじゃげて横たわる―ーさっきまで浮き浮きとした私の気持ちに共鳴するかのように快調なエンジン音を刻んでいた―ーバイクをとらえながら私はそう思った。
アスファルトを掴む指先の感覚も、無意識に力なくうごめく足裏の感覚も、徐々に遠のいていき、ついにはそれらをぼんやり見つめる視界自体が緋色に染まっていった。
(このまま死んでしまうのか……)薄れゆく意識の中で直感的に死を予見していた。
一方ではこれから迎えるはずだった感動の瞬間への断ち難い未練と、その時に涼子に伝えようと決意していた想いを一言も告げられないまま、この世を去っていく事への後悔の念が私の心を揺さぶり続けていた。
(死にたくない! 10年も待たせた涼子にやっと……やっと……)
完全に視野を奪った緋色のカーテンが一段と濃くなった気がした。その瞬間、まばゆい光と共に意識が弾けた。
「……先生! さっきから小刻みに瞼が動いています。指先や頬に触ると反応も……」
「………………本当だ、もしかしたら……」
「もしかしたら、何ですか!………………もしかして意識が戻る……って事……ですか?」
遠くで複数の人が語っている。その中には懐かしい声も……。でも……瞼が重くて開けられない。もう一度夢の世界に……母の腕に抱かれているような安らかな世界に………………
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 目を開けて! お願い目を……目を開けて!」
懐かしき声はいつしか絶叫へと変わり、耳を刺した。眠りの湖に沈みかけた意識が無理やり湖面に引っ張り上げられるような気分だった。
縫い付けられたように重い瞼を、無理やりこじ開けるように微かに開いた時、眩い蛍光灯の光が飛び込んできた。耐えがたい恐怖から逃げるように瞼を閉じた。その瞬間、体が激しく揺さぶられ、もう一度目を開けるように叫ぶ複数の声が投げかけられた。
……おそるおそる瞼を開けた。今度は蛍光灯を遮るように目の前に被さった顔が、ぼんやり見えた。
その顔が涼子だと認識できるまでには、多少の時間が必要だった。被写体にピントが合わせきれない新米カメラマンのように、何度か試行錯誤を繰り返した後、突然輪郭だけだった幻がくっきりとした画像に変わった。それは涙のせいだろうか……目の周りのシャドーが滲み、鈍色の輪に縁取られた瞳が、真っ先に私の視界に飛び込んできた。
「………………涼子か……?……涼子……?」
絞り出すように発した弱々しい声は……明らかに私の声ではなかった。風邪で喉の調子が悪い時にも、野球の応援のし過ぎで声がかれた時にも、さらには遊び半分にヘリウムガスを吸っておかしな声を発した時ですら感じなかった、本能的な違和感があった。
そんな私の戸惑いをまるで気付かぬように再び涼子が叫んだ。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!……気づいたのね……本当に、本当に良かった……」
「……奇跡だ、こんなことがあるなんて……」
涼子の背後で白衣を着た男が呟いた。
(……こいつは医者か?……俺は生きているのか……)
まだ霞がかかったようにぼんやりとした頭で、そう思った。私の胸にしがみついて号泣する涼子の重みが除々に実感できるようになってきた。
(……お兄ちゃん?)
涼子の口から何度となく発せられるその言葉に、不意に違和感を感じた。10年の付き合いの中でそんな呼び方をされた事はなかった。涼子にとって『お兄ちゃん』と呼ぶべき存在は、意識不明のまま寝たきりになっている、実の兄1人しかいないはずだ。それがなぜ……。
疑問は次々に浮かびそして……脳裏をかすめるようにして消えていった。その理由を考えるほどの意欲と体力は、その時の私にはなかった。
眼球が動くようになって室内の様子が見えてきた。慌ただしく動き回る白衣姿が3人。1人は医師らしき男、2人は女、看護師か……。それに相変わらず私にしがみついたまま離れない涼子。ここは個室らしく他の患者の姿は見えない。入口の横には簡単な応接セット。そのテーブルの上には見慣れた焦げ茶色の涼子のバッグ。カーテンが半分だけ開けられた窓、窓の向こうに広がる灰白色の空……。
事故直後に喪失感を味わった手足の感覚も甦ってきた。しかしそれは確かにあるべき所にあるべきものがあるという感覚だけで、動かそうと思っても鉛を張り付けたかのように、意志の力だけではピクリとも動いてくれなかった。
眼球運動に疲れたのか、それとも体力自体が致命的に欠乏していたのか、再び耐えがたい睡魔に襲われた。慌てて呼び起こそうとする涼子を、医師が「もう大丈夫ですから……」と制止する姿が、瞼が閉じる間際にちらりと見えた。
(雨か……)意識が戻った時、最初に感覚を刺激したのは窓ガラスを打つ雨音だった。子供の頃お気に入りだった、小さな太鼓を叩くゼンマイ仕掛けのおもちゃの兵隊。一定のリズムで……強く、弱く……耳をくすぐる音色は覚醒を促す目覚まし時計のようだった。
次に感じたのは、私の左手を包む暖かい温もり。……強く、弱く……そっと繰り返される心地よい愛撫。
ゆっくりと開いた瞳には、一瞬安堵の表情を浮かべてから優しく微笑む涼子の姿が映った。
「目が覚めた?……良かった、もう大丈夫ね……ちょと待ってて」
私の左手をゆっくりとベッドに戻すと、涼子は壁際のナースコールを押し、スピーカーからの問いかけに私の目覚めを伝えた。その姿を横目で追いながら、再会をあきらめた涼子が、確かにそこにいる事実に、無上の喜びがこみ上げてくるのを感じていた。
涼子と初めて会ったのは、大学の文学サークルだった。自らの才能を過信し、第二の芥川龍之介や樋口一葉を夢見る、勘違い連中―ー私もその一人だった―ーが大半を占める中で、自分は書く事より読む方が好きと言い切る涼子は、やや異質な存在だった。定期的に発行する『白銀』という同人誌に、自らの愚にもつかない難解な(稚拙な)小説を掲載する事のみに全力を傾注するメンバーに対し、裏方として編集作業や印刷所とのやり取りをいとわない涼子の姿に、発行責任者である部長の私が惹かれていったのは、当然と言えば当然だった。
私が大学4年、涼子が1年の時に始まった交際は、夢が捨てきれず、せっかく就職した一流銀行をたった2年で私が退職してからも―ー書いても書いても評価されず酒びたりの荒れた生活を続けていた時期も―ー完全に行き詰まり、後から就職した涼子のヒモのような暮らしをしていた時期も―ー変わらず続いた。涼子は一貫して私の才能を信じ、拙い作品を絶賛し続けた。適齢期を迎えてからも、親戚から持ち込まれた縁談を歯牙にもかけずに私を見守り、支え続けてくれた。
そんな一途さが私を立ち直らせると同時に、いつしか私の中にある決意を固めさせた。小説家としてやっていく自信が得られたら、涼子にプロポーズするという決意を。
―ーそしてあの日。新人にとって最大の登竜門と言われる大きな賞の受賞が決まったあの日。(理由を告げずに)呼び出した涼子との待ち合わせ場所に向かう途中の事故だった。
一度は死を覚悟し、再びその顔を見る事をあきらめた涼子が―ーそこにいた!
駆け付けた医師は、瞳孔を確認し、脈をとり、胸をはだけて何度か聴診器を当てた後、自らを納得させるように小さくうなずいてから私に問いかけた。
「片桐さん、分かりますか? 痛いところはありませんか? ご気分はいかがですか?」
(おいおい、そんなにいろいろ質問されても………………片桐……片桐?)
「片桐………………」思わず口を衝いて出た。
「ご自分の名前ですよ、片桐祐介さん。分かりますか?」
その名前は当然知っていた。片桐は涼子の名字だし、片桐祐介は涼子の兄の名前だ……。 その瞬間、一つのありえない仮説が脳裏に浮かんだ。もしかして……もしかして。
「涼子、鏡を……鏡を見せてくれ」
一瞬、怪訝そうな表情を浮かべた涼子は、ちらりと医師を見て同意を確認した上で、バッグから手鏡を取り出し私の顔の前にかざした。
そこに映っていたのは、不精ひげが伸び、頬がこけ、やつれて果ててはいたが、かつて何度か会った事のある涼子の兄、片桐祐介その人だった。
その後も医師の口から質問が浴びせられた。両親の名前だの、現住所だの、年齢だの……
すべての質問に私は小さく首を横に振り続けるばかりだった。半分は衝撃の事実に戸惑い冷静な思考ができなかったから。そしてもう半分は……答を本当に知らなかったから。しばらくして不意に質問が止んだ。ふと見ると腕組みをしたまま医師が考え込んでいた。それから彼は小声で涼子に何事か告げ、看護師を引き連れて病室を出て行った。疲れた私と涼子が部屋に残された。
「……疲れた……」
「お兄ちゃん、ちょっと待っててね。先生の所に行ってくるから」
そう言い残すと涼子までもが慌ただしく部屋を去った。一人残されると、急に湧き上がってくる不安な気持ちに胸が締め付けられた。それでも窓ガラスから伝わる雨音と、廊下からこぼれるBGMに励まされるように私は自分が片桐祐介として意識を取り戻した理由を考え始めていた。
涼子の兄、祐介とは何度か会った事があったが、それは決して心躍る対面ではなかった。2人の両親が日本中を騒がせたあの飛行機事故で亡くなった時、涼子はまだ小学生、祐介も中学に上がったばかりだった。それから彼は涼子の保護者を演じ続けてきた。そんな我が子のような涼子と定職を持たない私との交際を彼は終始反対し、私と別れて自分の所に戻るように訴え続けたものだった。
祐介自身は理工系の大学を卒業後、大手ゼネコンに就職し、もっぱら技術系の監督として工事現場を差配していた。数か月前のある夜、強風で煽られた鉄骨が見回り中の彼の目の前に落下し、バウンドして彼の頭を打った。半狂乱になった涼子が兄の大けがと入院を私に告げに来た日の事は、いまでもはっきりと覚えている。その後意識が戻らぬまま入院が続いていると聞いていた。
年齢が近いという事や、涼子という共通項はあったが、逆にいえばそれだけの関係だった。神の所作としか思えないこの現象が、なぜ2人の間に起きたのか。いくら考えても理由が思いつかなかった。
ようやく二作目を投稿する事ができました。物語のきっかけは不可思議な転生ですが、転生シリーズならではの愛の形を描いていきたいと思います。お読みいただいて感想などお聞かせいただければ幸いです。




