表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第三話:失踪

 例年以上に長い梅雨が明けたと思ったら、季節はいきなり真夏を迎えていた。

 体力の回復に合わせるかのようにリハビリは順調に進み、杖を使えば自力での歩行が可能な状態にまで復活していた。もともとサッカーをしていた祐介の体は思った以上に頑強で、衰えていた筋肉も見る見る蘇ってきた。長年の不摂生がたたり貧弱で、贅肉だらけだった元の体に比べれば、羨ましいほどの肉体だった。

 他人の体という事で当初感じていた違和感も次第に薄れ、意識と肉体のフィット感も完璧なものとなっていった。

 定期的な検査は続いていたものの、身体的にはもう大丈夫という事で病室も大部屋に替えられ、退院が視野に入ってきたように思えた。ただ(当然の事ながら)記憶喪失状態は改善しなかったが、涼子が実家から持ち込んだ祐介の日記やアルバム、見舞客からの思い出話等によって、後付け的に彼の過去が私の中で形作られていった。


 涼子と奈緒美は、あれ以来競い合うように私の看病にいそしんでいた。毎日朝から晩まで身の回りの世話をする涼子ほどではないにしろ、奈緒美も2日に1度は昼間に顔を出した。

 本音はともかく、献身的に世話をする奈緒美の姿に涼子の嫌悪感も少しずつ和らいできたように思えた。2人が談笑するする場面も増え、同室の患者たちからは仲の良い姉妹と間違えられるほどだった。


 異常な猛暑と言われた夏がようやく終わりを告げ、秋風が吹き始めたある日、いつも以上に時間がかかった検査を終えて病室に戻る途中で、こみ合う待合室を抜け正面玄関に急ぐ奈緒美の姿が見えた。ふと壁の時計を見ると彼女のいつもの帰宅時間になっていた。厳格な彼女の両親は夕刻までに帰宅する事を条件に、病院通いを許してくれていると聞いていた。一言挨拶をと近づく私の眼に、奈緒美の前に立ちふさがる恰幅のいい中年の男性の姿が映った。

「裕子じゃないか、こんな処で何しているんだ?」

「………………」

「……そういえば、何ヶ月か前にもこの病院に来てたな。しばらく見ないと思ったけど、まだ来てたんだな……店はどうしたんだ、まだ働いているんだろう。リュウマチがよくなったら、また遊びに行って指名してやるから楽しくやろうな」

 そう言って肩に手を回しかけた男を振りほどくように、奈緒美は無言で玄関を出て行った。

 後に残された男は釈然としない面持ちで、傍らにいた別の男に話しかけていた。

「何だあのやろう! これまでさんざん指名してやったのに無視しやがって……」

「誰だいあれ?」

「吉原のソープ嬢だよ。***という超高級店のNO.1で、あんな可愛い顔していながらサービスはすごいんだぜ。今度一緒に行くか?」

「そんな女がどうして……」

「さあな、近くに住んでいるのか、もしかしたら下の病気の検査だったりして」

 そう言いながら下卑た笑いを浮かべる男たちに対する怒りも忘れ、私は余りの衝撃に言葉を失っていた。

(奈緒美がソープ嬢?)あの慈愛に満ちた優しい笑顔、私のすべてをいとおしむような献身的な仕草と、男たちの前で体を開き、みだらに喘ぐソープ嬢のイメージがどうしても結びつかなかった。私はその場に呆然と立ちすくしていた。


 翌日から奈緒美は姿を見せなくなった。涼子が教えてもらった携帯番号にかけても現在使用されていませんのメッセージが流れるばかりだった。昨日の事件を目撃して以来、私はこうなる事を半ば予想していた。おそらく事故直後に頻繁に顔を出していた奈緒美が突然姿を見せなくなったのも、昨日の話から察するに、今回同様あの男に会った事が原因だろうと思った。

 もちろん涼子には何も話さなかった。それだけに2度にわたって信頼を裏切られた涼子の怒りは激しく、そして悲しみは深かった。

「今度あの人が来ても、お兄ちゃんには絶対会わさないからね! いいよね」

 人気の無くなった夜の待合室で、涼子はそう言って嗚咽を漏らした。私はその細い肩を抱き寄せる事しかできなかった。


 しばらくして奈緒美から手紙が届いた。そこには両親の都合で再び急きょ外国に行かなければならなくなった事、別れが辛いので顔を合わさずに旅立つ事、1日も早い回復を祈っている事などがせつせつと綴られていた。便せんの端々に刻印された涙の跡が、奈緒美の深い悲しみを物語っているように思えた。手紙には涼子に宛てたメッセージもあった。今度もまた突然の事でお詫びの言葉もない、涼子の事は本当の妹のように思っていた、私の事をくれぐれもよろしくお願いする、そして最後に……私との婚約は解消するから安心してほしいと書かれていた。封筒の底にはあの小さな真っ赤な指輪が収められていた。

 じっと指輪を見つめる涼子の眼から、静かに涙がこぼれた。


 秋も深まり病院の庭の木々が黄金色や朱色に染まり始めた頃、退院が告げられた。体はすっかり回復し、自力歩行はもとよりジョギングすら可能なほどだった。

 退院を機に会社を辞める事にした。専門性を有する祐介の仕事を続ける事は、そもそも私には不可能だった。会社からは、記憶喪失状態での復帰となるなら専門知識の不要な職場への異動が示唆されていた。しかし最終的な意思を確認しに来た横沢の口ぶりには、専門家としての知識と能力を失ったままの祐介に対し、自主的な退職を促す意図が明らかだった。

 労災保険からの一時金や会社からの破格の退職金、それに半分以上残っていた両親の飛行機事故に伴う賠償金やらで当座の生活への不安がない事も退職の決断を後押しした。

 ちょうどその頃、大賞を受賞した私の小説が遺稿という形で発売されていた。涼子から手渡されたその本を眺めていると、忘れていた小説家としての血が騒いだ。

 退院の数日前、慣れ親しんだ病院の庭を涼子と一緒に歩きながら、会社を辞めようと思っていると告げた。これからどうするのかと問う涼子に、次の仕事は記憶の回復状況を見ながら考えたいと答えたが、私は密かに片桐祐介として小説を書いていく決意を固めていた。涼子は黙ってうなずくばかりだった。

 そしてもう1つ、涼子には内緒でどうしてもなすべき事があった。何としても奈緒美を探し出し、祐介との関係や婚約に至る経緯をはっきりさせる事だった。それは私がこれから祐介として生きていく上で、絶対に避けて通れない事のように思えた。体をもらった祐介への追悼の気持ちもあったかもしれないが私自身が奈緒美の存在をこのまま忘れ去る事ができなかった。

 私の退社を聞きつけ、別れを惜しんで駆け付けた会社の同僚たちにも、軒並み奈緒美の事を尋ねたが、私と付き合っていた女性としか知らないようだった。彼らとの飲み会に何度か彼女を連れて行った事もあったらしいが、彼女は自分の事はほとんど語らなかったそうだ。

 見舞いの時の会話の中で彼女の名前を出して皆からにらまれた坂田にも、彼女について知っている事やあの時の事情を尋ねた。

「いやあ、僕も奈緒美さんの事はよう知りません……ただ、ある時しつこく彼女との馴れ初めを聞いたら、縁の深い取引先のお嬢さんやて先輩言うてましたで。……それから、あん時叱られたのは、先輩と彼女が事故の直前に別れたっていう噂があったんで、彼女の話題には触れんとこうと事前に話してたのに、僕が名前を出したから……」

 結局、奈緒美の正体を探る最大の手がかりは、あの男が口にした吉原の店の名前と裕子という源氏名だった。直感的に、おそらくその店にはもう奈緒美はいないだろうと思った。その時どうやって彼女を探し出せばいいのか見当もつかなかった。


 退院してからの日々は慌ただしく過ぎていった。

 涼子と祐介の実家である片桐の家は2人で暮らすには広すぎるほどだった。祐介の部屋に初めて入った私はその居心地の悪さに困惑した。本棚にずらりと並んだ建築学や都市計画法の専門書の群れ、パネルにして部屋のあちこちに飾られたサッカーの試合の記念写真、収集していたのか機関車や重機のミニチュア、聴いた事もないミュージシャンのCDの山―ーそのいずれもが私がその部屋の新しい住人となる事を拒否しているように感じた。

 そんな様子に涼子は気付いたのだろう。その家に一歩足を踏み入れた瞬間から、初めて訪れる家を眺めるように落ち着かない様子の(記憶喪失の)私に、涼子はしばらくの間、客間で一緒に寝る事を提案した。私にそれを拒む理由はなかった。

 それからは、どこへ行くのも、何をするのも涼子と一緒だった。体力増進を目的として2人で毎日ジムに通った。買い物も一緒、映画を見に行くのも一緒だった。父親似と母親似で顔立ちも違う2人は、よく夫婦に間違われた。なじみになった商店街の女将さんたちから「仲が良くて……」とからかわれても、涼子は否定もせず恥ずかしそうに微笑むだけだった。

 涼子からの頼みで私の実家にも行った。急に年老いた感じのする両親を前に思わず涙がこぼれそうになった。あなたたちの息子がここにいると叫びたかった。いや、涼子がそんな私にそっと触れてくれなければそうしていたに違いない。

 自分の遺影を前にした時は、何ともいえない複雑な気分だった。涼子が遺影に向かって何事か呟きながら、一心に祈っているのが少し滑稽に思えた。―ー私はここにいるのに。


 退院して1か月が過ぎる頃には、私と涼子の関係はこれ以上ないほど深まっていた。お互いの姿が少しでも見えないと不安になった。肉体的には兄と妹の関係を守っていたが、それすら私が望めば涼子は拒まないだろうという確信があった。知らず知らずの内に私は祐介としてではなく涼子の恋人であった私として涼子と接していた。

 その怖さに気づいたのは、師走を迎えたある寒い夜の事だった。寝ていた私の布団に涼子が潜り込んできた。怖い夢を見たと言って涼子は私にしがみついてきた。ほっそりとした体とはかなげな表情が私の欲情を掻き立てた。涼子を抱きしめる腕に力が入った。目の前にある半開きの唇に吸い寄せられそうになった時、不意に手鏡に映った祐介の顔と奈緒美の顔が交互に浮かんだ。これまで何度も欲情を鎮めてきた『近親相姦』の文字が脳裏をよぎった。

 結局、私は涼子の額に軽く口付けしただけで、何もなかったかのように寝たふりをした。しばらくして涼子が微かな溜息を一つ残して、そっと自分の布団に戻っていくのが分かった。

(何とかしなければいけない)眠れぬ夜を過ごしながら、私はそう決意していた。


 翌朝、私は涼子に『足跡をたどる旅』に出たいと切り出した。小学校から大学までの学校や修学旅行先、サッカーでの遠征先や就職してから働いていたという全国の現場など祐介がこれまでの人生で訪れた事のある土地をできるだけ巡って、未だに回復しない記憶を取り戻すきっかけにしたいという事を理由として説明した。

 本心は涼子としばらく離れ、お互いに冷静さを取り戻せればと思ったのと、そろそろ本気で奈緒美の行方を捜さなければという切迫感からだった。当然のように涼子は同行を言い張ったが、1人の方が強い刺激を受けられるからと、きっぱり断った。すったもんだの挙句、年末までには必ず帰ってくる事を約束させられた上で、独り旅を承知させる事ができた。

「絶対に無理はしないでね、それから少しでも調子が悪くなったらすぐに帰ってきてね……お兄ちゃんにまで何かあったら、もう私は生きていけないよ……」

 最後に涼子はそう言いながら、不安と寂しさに溢れた目で私を見つめた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ