境界向こうの白術士
纐纈は寝床の中で、事の顛末を道風より聴いた。
山岸の裏切り、頼迪の悲願成就、そして蘇生した未廣の選択――――――。
一度は己の身体から心臓が奪取されたと思うと、流石にうすら寒い思いがしてぞっとした。しかし未廣は頼迪の成した非道を正すべく、進んで再び動き始めた心臓を纐纈の為に差し出したのだ。
道風の話は夜更けまで及んだ。
その内容に纐纈の胸は痛み、未廣や頼迪の気持ちを思い目尻には涙が滲んだ。自分は生き返ったが、道風は愛する姉を再び喪ったのだと思うと、それもまた遣り切れなかった。
けれど纐纈に物語る道風の顔は、やつれてはいるものの穏やかだった。
「纐纈さんが戻ってきてくださって、本当に良かった…」
そう言って自分を見つめる道風の双眸は何時になく優しい。
「道風おにいさまは、大丈夫ですか…?」
彼が受けた心の痛手を鑑み、掛けた纐纈の言葉には微笑が返る。
「今はまだ、大丈夫とは言い切れません。しかし、貴女がここにこうしていてくれる。それだけで私の胸には満ちるものがあるのです。…頼迪兄さんが取り戻したくて、けれど永遠に喪ったものを、私は手にしている。それだけで、十分です。今であれば頼迪兄さんの気持ちが痛いほどに解ります。皮肉なものです」
そう言った時、道風の顔は辛そうに歪んだ。纐纈はつい、身を起こして彼の髪を撫ぜた。
道風は纐纈のその手を取り、掌に唇をつけた。
その後、立花頼迪、及び庄吉らが捕縛されることなく時が過ぎた。
山岸陽治の行方も杳として知れず、警備隊は面目を保つ手立てに腐心しなければならなかった。凡そ今回の一連の事件に関わった者たちが一人として捕らわれず、警備隊の十人いる長の一人の娘・林葉纐纈は、一度は落命した。警備隊はそのことを極秘事項として公表しなかった。幸い、纐纈の件を知る者はごく限られた少人数であったので、警備隊は彼らと送り鼠に口止めすればそれで良かった。但し警備隊内には念の為に箝口令が敷かれた。
明くる年の夏、夜市の日、纐纈は道風に伴われて出掛けた。
去年と変わらずおはじきが敷き詰められた地面の上を、じゃりり、と音を立てながら纐纈たちは歩いた。朧な月が光を投げかけ、おはじきの色合いを明瞭なものにしていた。
ぽう、と火が灯った提灯がそこかしこに浮かんでいる。夜市の趣向は毎年、変わる。
赤や青の小花を象った飴細工が市の中に咲き乱れ、甘い芳香を漂わせている。中央に設けられた水槽には美しい人魚が優雅に泳ぎ、見物客を妖しい笑みで魅了する。長い金色の髪が彼女のほっそりした腕に絡みつき、水中で戯れる。
ぐるうりと市の中を一巡する白銀色の龍は、尾鰭で人を傷つけないよう、細心の注意を払っていた。黄色い小鬼が櫛や簪などの小物を並べ、客引きをしている。
道風は纐纈の笑顔に相好を崩しながら、彼女の気を惹いた品を買い与えた。纐纈は遠慮したのだが、道風のほうがそうしたい、と強硬に主張したのだ。
「夜市に来ると、何が境目だか判らなくなりますね」
はしゃぐように纐纈が言うと、道風が頷く。
「元々、日頃にある境目を無くして楽しもうというのが趣旨の催しですからね」
「ええ。此処にいると、自分が人なのか何なのかさえ忘れそうになります」
すると二人の会話に割り込む声があった。
「そう。余りはしゃぎ過ぎないほうが良い。現世に、戻れなくなる者もいるからね」
「聖さん。来ていたんですか」
生成り色の着流しを着た白髪赤目の青年は、道風の知己のようだった。
「纐纈さん。彼は音ノ瀬聖さん。言葉の音色と力・コトノハを処方する音ノ瀬一族の人間です」
「ああ、聴いたことがあります」
白髪を風にそよがせながら赤い双眸を細めて微笑する聖は、纐纈の目に人とも人外とも見えた。恐らくはそのあわいに在る青年なのだろう。だからこそ道風の知己でもあるのだ。
「昨年は大変だったようだね。色々、聴き及んでいるよ」
この台詞に道風が苦笑する。
「警備隊内部では箝口令が敷かれた筈ですが。風に聴いたのですか?」
「うん。…彼女が無事で良かったね」
正確には纐纈は無事ではなかった。一度は落命もしたのだ。けれど未廣の計らいにより、再びこの世に生を得た。聖はその全てを引っ括めて無事、と表現したのだ。そこまでの情報を彼が知り得ていることが、纐纈には不思議と思えてならなかった。
「はい」
道風は噛み締めるような声で答える。
聖はその返事を聞き届けると思い遣るような笑みを唇に刷き、それじゃあ楽しんで、と言って夜市の雑踏に紛れた。
纐纈が人混みに紛れて行く白髪を眺めていると、道風から唐突に手を握られた。
「道風おにいさま?」
「何が境目で何処までが侵して良い領分なのか、私は去年からずっと判らなくなっています。我々白術士も今の彼も、人であって人でない。頼迪兄さんの成そうとしたことは禁忌ですがしかし――――――――」
道風が言い淀んだ続きが纐纈には判った。
頼迪の成したことは禁忌だが、だとすれば今の纐纈の存在すら禁忌ということになってしまう。
纐纈は境界の向こう側に行った存在ということになる。
「私はそれでも構わないのです、纐纈さん。貴女がただ、私の傍に在ってさえくれれば」
「何時までもいますよ。道風おにいさま」
「………」
道風は口元に微笑を象ったまま、沈黙する。
「あ…獺さん?」
「え?」
「いえ、今、頼迪さんと一緒にいた、あの獺さんがいたような気がして…。庄吉さんと仰いましたっけ」
纐纈は見慣れた庄吉の後ろ姿を見たと思ったのだ。
「見間違いでしょう」
「そうですよね」
頼迪共々お尋ね者の庄吉が、こんな場所に姿を現す筈がない。自分はまだ彼らの記憶に囚われているのだと、纐纈は苦笑する思いだった。
気付けば二人は市の外れ、大きな銀杏の樹の根元まで来ていた。
花火が上がる。紺青の夜空に菊花のように。
頤に道風の指が掛かった時、纐纈は目を閉じた。
夜市の賑やかな明かりの間隙を突くような一画で、二人の影が静かに重なった。
魂玉の行方はまだ知れない。
死術士たちは今もどこかで、禁呪を唱えているのかもしれない。
境界の向こうに手を伸ばそうとする者の悲願を叶える為に。
完




