第8話 あなたの歌を歌って
集まっていた人々が離れてぽかりと空いた空間で、銀髪の少女が手を振っている。
「こっち! 焦らないで、気をつけてね」
彼女のおかげで開けた場所に、災禍の少女を運び込む。
刻一刻と冷え込む身体の重みにイェフの血までもが凍るような心地がした。
「この子のことはおれが見ておく。レスキューの対応を頼んでいいか?」
「分かった。危なくなったらすぐに逃げるんだよ」
頷いた銀髪の少女はすぐさま走っていき、レスキュー隊員へ説明を始めた。
どうやら避難誘導の際に野次馬からさらに情報を聞き出していたようだ。
意識を失ったままの少年が担架に乗せられる。
その姿を遠目に確認し、イェフは細く息を吐き出した。
「大丈夫だぞ」
溢れた囁きは、誰のためのものなのだろうか。
イェフ自身にも分からなかった。
「兄弟は助かる。きみが持ち堪えたおかげだ」
聞こえているはずはない。
慰めなど何の意味もない。
だが、それでも、イェフは呟く。
「巻き込みたくなかったんだよな。よく頑張った。きみはえらいよ」
災禍の少女を横たえる。
ワインレッドの髪、血の気のない象牙色の肌。まるで人形のように虚空を眺める赤の瞳から一筋の涙が溢れ落ちた。
災禍の蕾は未だ少女に根を張ったまま。
霧の色もまだ黒とまでは言えず、瞼もなく見開かれた眼窩はただひたすらに片割れを見ている。
レスキューに運ばれていく兄弟を、ずっと。
「……ごめんな」
誰に告げるでもなく囁き、イェフは左手の指輪を摩った。
『起動』
詠唱開始と共に、指輪が微かに振動する。
溢れる翠の燐光は『指輪型簡易歌伝代唱装置』──アーティファクトが正常起動した証だ。
『使用者: イェフ ・タラント/認証コード:48 29 10 37 56』
アーティファクトは『過去の現象を再現する魔導具』だ。
生き物や現象など、この世界の全ては、各々の歌を歌っているのだという。
歌伝と呼ばれる、個々の歌だ。
アーティファクトは解析・記録された歌伝を再生することにより、過去の現象を再現する。
学生時代に習った歌伝理論は大方忘れてしまった。
構わない。
指定さえしてしまえば、歌伝自体はアーティファクトが歌ってくれる。
『指定式: 氷結/ 範囲: 小/ 効果時間: 10』
大事なのは起動に必要な単語。
発音と節回しを間違えなければいい。
『セット』
イェフは硬く目を瞑り、歯の隙間から息を吐き出す。
そうして、覚悟を決めた。
『発──』
最後の文言を唱えようとしたその時だ。
「だめ!」
鋭い制止の声が響く。
イェフは身を固く強張らせ、視線を巡らせた。
「だめ、待って!」
青褪めた顔で叫んだのは、銀髪の少女。
制止の声と同時に走り出した彼女は、あっという間にイェフのもとへと戻ってくる。
危険を理解していないのか、少女は災禍とイェフの間に立ちはだかって両腕を広げた。
「この子はまだ助かるかもしれない。だから待って」
少女が静かに告げる。
「殺さないで」
理解できなかった。
呆けたイェフは、次の瞬間、苛立ちに顔を歪める。
「何を悠長に……!」
災禍は不可逆である。
人が災禍になることはあっても、災禍が人に戻ることはない。
正確に言えば、災禍を人に戻す技術の確立など不可能なのだ。
人間もまた、各々の歌伝を持つ。
刻一刻と災禍へと変じる歌伝をリアルタイムで読み解いて修復し、災禍の元となった人間に思い出させて刻み直す────御伽話の魔法使いにすらそんな芸当はできないのだから。
銀髪の少女は真剣な目でイェフを見つめている。
所詮、彼女もまた、アルモニ人なのだろう。あるいは、アルモニ人の中でも本物の、馬鹿がつくほどのお人好しなのかもしれない。
付き合っていられない。
そう思い、イェフは目を眇めた。
起こり得ない奇跡を信じているのだ。
どちらが救いようのない馬鹿かなど、一目瞭然ではないか。
「退けよ」
「退かない。私が離れたら、あなたはその指輪でこの子を殺すつもりでしょう」
「それが最善だ」
声を絞り出して呟けば、銀髪の少女は目を伏せた。
「駄目だよ」
「どうして止める? 誰もやらないなら、手を下せる人間がやるしかない。人殺しを見たくないだけなら、あんたはもう下がってくれてもいい」
「違うの。そうじゃなくて」
イェフが早口に言い募れば、少女は眉根を寄せて首を振る。
「あなた、泣きそうだから」
イェフは虚をつかれ黙り込んだ。
沈黙の間に、少女の言葉がじわりと沁みる。
言葉一つ。
本当の、思い遣り一つだけ。
それだけで胸を掻き乱され、イェフは拳を握り締めた。
「……それでも、やらなきゃ」
災禍の専門家とやらを待てばいいのかもしれない。
だが、その間に災禍が開いたら。
災禍は己が絶望に他人を巻き込む存在。
絶望から生まれ、絶望を生み出すもの。
そうなる前に終わらせてやるのが、人の務めではないのか。
こうして今、イェフが抱く負の感情でさえ災禍のエサになるというのに。
「ともかく、退いてくれ。巻き込みたくない」
焦燥と苛立ち、そして恐怖。
胸中を渦巻く様々な感情に追いつかれる前に、とイェフは吐き捨てた。
その時だ。
ぴしり、と。
空間が歪む。
イェフは息を呑み、災禍の少女を見る。
少女の上で揺らぐ人型の霧。
その頭部に異変が起きていた。
朧げな二つの穴が目だとすれば、新たに生まれた裂け目は口。横一文字に災禍の頭部に走ったそれは、ゆっくりと開く。
『──i、iu、uuu、iyonau……』
漏れ聞こえる声はひどく嗄れていた。
微かにすぎて、音を為しているとも言い難い。
それなのに。
「う、ぐ」
イェフは息もできず膝をつく。
吹き出した冷や汗が全身を覆い、視界が安定しない。
胸に穴が空いたような錯覚。
自身を構成していた何か大切なものが、根こそぎ奪われる。
そんなあり得ない感覚に襲われ、気付けばイェフは涙していた。
泣きたいわけではない。
悲しいわけでもない。
ただ。
ただ、空しくて。
遅れて何が起きたかを認識する。
災禍の産声を耳にしたことで、イェフの自我が引っ張られているのだ。
底が抜けたかのような酩酊を堪え、イェフは顔を上げた。
銀髪の少女の背後、災禍が揺れている。
蕾はまだ完全には開いていない。
しかし、時間の問題だ。
隔離が功をなし、災禍の声は人々に届かず、絶望の伝染も起きていない。近くにいて、自身も失意を抱えているイェフだけが引き摺られた。
だからこそ、今。
ここで、止めねば。
イェフは左手を擡げる。
イェフが何をしようとしているのか、分かったのだろう。銀髪の少女が目を見開き、制止しようと腕を伸ばしてくる。
彼女は視線を合わせるように膝をつき、イェフの胸倉を掴んで強く引いた。
殴って止めるつもりだろうか。
だが、今更だ。
手遅れの善意と話す猶予はない。
『発』
発動、と。
そう言いかけて、イェフは目を瞬いた。
何か。
何か、温かなものが、唇に。
視界は不明瞭。接近してきた何かに視野の殆どを奪われてしまっている。
花と石鹸の香りが鼻先をくすぐり、唇、そして胸部に押し当てられた柔らかなぬくもりのせいで息ができない。
舌先に何かが当たる。
濡れた感触。
反射的に身体を後ろに引こうとするも、後頭部に添えられた少女の手がそれを許してくれない。
イェフは見てしまった。
間近で瞬く美しい瞳。
草原に月を溶かしたような、金の散る翠。
「────!?」
キス。
キスされている。
意味が分からず動転したイェフは、一瞬の硬直の後に我に返り、慌てて少女を突き飛ばした。
「な、なに? 何をするんだよ!?」
声を上擦らせて叫んでから気付く。
突き飛ばしちゃった。
痴女とはいえ、女の子を。
銀髪の少女は尻餅をついて俯いている。
慌てて駆け寄ろうとして、イェフは目を剥いた。
「なんで!?」
アーティファクトがない。
そういえば、とイェフは思い出す。
先程のキスの合間、まるで恋人にそうするように、指を絡められたような。
「ど、泥棒!」
痴女の窃盗犯だ。
この緊急時にセクハラについで火事場泥棒とは、アルモニ人のくせに道徳のかけらもないではないか。
動転して這いずり追い縋るイェフを無視し、銀髪の少女は立ち上がった。
彼女が向かうは災禍のもと。
身体の半ばまで黒く染まった霧を見上げ、少女は恐ろしく自然な様子で話しかける。
「Ela──Eyona──halU……」
少女の声を耳にした時、イェフは思わず息を止めた。
驚いたのではない。
ただその声を聞きたいと、本能的に感じてしまったのだ。
それは言葉というより歌。
耳慣れぬ響きは鮮やかな色味を帯び、リズムと抑揚は旋律に似て心を揺さぶる。
清涼な水を思わせる声はわずかな言葉で海を成し、全てを抱き止めるように広がり始めた。
「Ela hAluwe」
初めて聴くのにどこか懐かしい。
泣きたくなるほどに柔らかい歌。
世界は歌っている。
生まれてこのかた何度も聞いたその言葉の意味を、イェフは初めて理解した。
「Ela mi-Ano──halu hAluwe」
ほとんど聞き取れないが、しかし、よく耳をすませば、少女は同じ単語を繰り返しているようだった。
根気よく、語調を変えて、何度も何度も。
それが呼びかけなのだと、気付く頃にはもう変化が始まっていた。
「災禍が……」
災禍の蕾。
足下から暗い黒に染まっていた人型の霧が、少しずつ薄れていく。
消えているわけではない。
災禍の蕾に吸い上げられた「中身」が、元の人間へと戻りつつあるのだ。
災禍の少女、その屍蝋のように色の抜けた頬に僅かな赤みが差す。
イェフが驚きに動けないでいると、災禍の蕾が再び声を発した。
『iiiuiUuI』
「──Ela──miAnO halu」
『IuIu nUwiE halU──yona、EUyona』
信じられない。
イェフは耳を疑う。
人を捨てたはずの災禍と、対話らしきものが成立している。
しかも、語調や節が変化しているところをみるに、銀髪の少女は災禍の言葉を拾い上げ、リアルタイムで歌を紡いで返答しているのだ。
少女と災禍の言葉。
常に揺らぎ、心を表すその言葉に、聞き覚えがあった。
「古歌伝語……?」
それは創世の言語。
世界を紡ぐ、最も原始的で美しい言葉。
イェフも少しだけ習ったことがある。
アーティファクトが代唱してくれる歌言語。
古歌伝語とはつまり神様の言葉なのだと、教師は言っていた。
アーティファクトに記録された歌は過去の歌伝である。いわば、歴史のコピーでしかない。
人間の技術ではこれが限界なのだ。
しかし、銀髪の少女は古歌伝語を操り、即興で歌伝を紡いでいる。
まったくのオリジナル。
それはつまり、今この場で世界を創りあげるのとほぼ同義だった。
「ありえない」
イェフが否定したところで何が変わるわけでもなく、幾度かのやり取りがなされるうちに、銀髪の少女と災禍の────否、少女達の声が重なり始める。
銀髪の少女が歌えば、災禍が応える。
災禍の歌を編み込んで、少女がまた歌う。
互いを導くようにして少女達は対話を重ねていた。
旋律を、言葉を、意味を、存在を。
響き合う二色の声は次第に同じ旋律へと収束し、ついには一つの歌を編み上げた。
「……思い出せた?」
『a、aa、u、au』
「うん、わかるよ。もう、大丈夫だから」
銀髪の少女が頷く。
柔らかな言葉で、災禍の全てを受け止める。
そして、彼女は囁いた。
「Ela ha-lU haluwA」
銀髪の少女が旋律を紡ぐ。
それに呼応するように災禍が歌い出した。
嗄れた声は醜悪で、怖気がするほど濁っているというのに、紡がれる歌は力強く美しい。
言葉に音が乗り、旋律が踊る。
いつしか歌は微かな光を帯び、確かな喜びを抱えて震え出した。
イェフの目の前で、災禍の姿がかき消えていく。
そして、歌が終わる頃。
災禍となりかけていた少女は、ただ健やかな寝息を零し、静かに眠っていた。
まるで何事もなかったかのように。
「うそお」
イェフは呆然と呟いた。




