混沌。
私はひび割れから目を離せないまま、産毛が逆立つ感触に震える。
本能のどこかで「違う」と思った。
空気が日常とまったく違う。強烈な違和感。
「なに、これ……」
「お母さま?」
「オリヴィアさま?」
「オルガ、二人をお願い」
付き従ってくれているオルガにカイルとアランを託し、私はふらりと一歩前へ。
すぐに強風が吹き、押されよろめき、それでも前へ。
「オリヴィアさまっ?」
「奥さまっ、お戻りを」
他の人たちにはひび割れは見えていないみたいだ。けれど空気の異常は分かるんだろう。
その場で動けなくなっている。
かく言う私も体が大地にのめり込みそう。
ひび割れに近付くほど、上からとてつもない圧力が掛かる。空が私に…森にのしかかってくるみたいだ。
「スカーレット……」
脳裏に怯えて丸くなり泣いている娘の姿が浮かび、足に力が蘇った。
私は空気の圧力に逆らい、さらに一歩進む。
私があの子を守らなくては…。
ひび割れの下にスカーレットがいるなら、すぐにでも助けたい。
震える足を前に運べば、ふっと無音になった。
「えっ?」
周囲から音が消えた。見渡せば、人も景色も消えた。
暗くはない。でも光源がどこかわからない。
分厚いガラスに閉じ込められたならこんな気持ちなのだろうか。
のしかかる空気はさらに圧力を増し、私は四つん這いに倒れ込む。
そのまま意識が薄れていく。
まさか、これが死……?
「こんな不幸な設定ばっか作って、うちら非道じゃね?」
「非道非道。でもいいんだよ、楽しければ」
「そだね、フィクションだし」
「どうせ現実じゃないからね~。どんだけ盛ってもオッケーだって」
そう笑った彼女たち。
『設定』を打ち込み続けたシナリオライターのあなた。
まさかこの私、オリヴィアが『設定』を知るなんて思わなかったでしょう?
気軽に作った『設定』に悩み苦しむ人間がいるなんて、想像すらしなかったに違いない。
だけど、あなたは……。
だって、あなたが。
「私……?」
脳内でパズルのピースがカチリとはまったような感覚。
でもその感覚をつかみ取れぬまま、野太い声が聞こえた。
「この娘を売るなんて冗談じゃねぇ」
「だよな! もったいなくて渡せねぇよ」
「見ろよ、この顔。極上だ」
「俺たちでじっくり味わってやろうぜ」
私に下卑た視線を投げ掛け、手を伸ばした男たち。
「ふざけるな、商品だぞ!」
「うるせぇ」
「やめて!」
「どけ!」
むせかえる血の匂い。
目の前で肉が引き裂かれる音。
末期の呪詛。
この映像はなんだろう。
覚えてないけど、『設定』の一つかな。それともあの夢の中の出来事? ひどく禍々しい。
こんなの見たくない。
もう目をつぶろう。
「リヴィ、庭で遊ぼうよ」
「うん! ……でもちょっと怖いね」
モークリー侯爵家の庭は、樹々が生い茂り、子供から見たら深い森のようだ。
「怖い?」
「お庭が広くて迷子になりそう」
「じゃあ、僕と手を繋ごう」
「ありがとう!」
「向こうに池と、花がたくさんある。リヴィに見せたいけど…少し遠いんだ。怖い?」
「えっと、リックがいるから怖くない」
「そっか、よかった!」
あれからずっと彼は私と手を繋いでいてくれていた。
「……リック」
私は、この白い空間で迷子になりそう。
だから私は虚空に向かって手を伸ばす。
「リック…」
こうすればいつでもあなたは私の手を取ってくれたから。
けれどそう思考する私の意識が段々薄れていく。
いよいよ圧力に負けてしまうようだ。体がぐにゃりと崩れ落ちる。
そしてそのまま無になって…………。
カキン!と高い澄んだ音と共に、白い世界に大量の光が差し込んだ。
ぐんにゃりとしていた体を強い力で引き寄せられ、目を開ければパトリックがいた。
「リヴィ!」
「リック…」
弱々しい声で呼ぶと、彼は神杖を振り、光をまき散らしながら私の周囲を切り刻む。
パリンと軽い音がして、周囲に色と音が戻ってきた。
「青空……」
見渡せば辺り一面の空。
眼下に緑の大地。
そして私はパトリックに抱かれ、竜の背に乗っている。
「無事か?」
「……」
事態が飲み込めず、声が出せない。なんとか小さく頷けば背に回された腕の強さが少しゆるんだ。
「石が君たちの異変を教えてくれた」
それで単騎、竜に乗って駆け付けてくれたらしい。
「まさかこんなところにほころびができるとはな」
耳朶を揺する低い声。嗅ぎ覚えのある匂い。この腕の中は私の帰る場所。
イヤなこと、怖いことはすべて忘れられる。ここにいれば間違いない。
「怖い思いをさせてすまない。すぐに塞ぐ」
パトリックが神杖をふるうと、虚空に向かい光が飛ぶ。
まるで稲妻のよう。
細く鋭い光は空中を走り、見えない何かにぶつかって弾ける。
まばたき一つしている間に、あの圧はなくなった。
しばらく宙を飛び何かを確認した後、パトリックは竜を地上につけた。
「パトリックさま!」
「みんな、無事か?」
「お父さま、スカーレットがいないのっ」
カイルの声にパトリックの目が細くなる。
「いない?」
「突然怯えて、森の中へ駆け出していったそうなの」
「……そうか」
パトリックはゆっくり地へ降り立ち、竜の背を一つ叩く。
「セヴン、ここで待機だ。異変があったら鳴け」
「グアァ…」
セヴンと呼ばれた竜は了承すると、翼を大きく広げ、人間たちに庇を作る。
「皆、竜の翼の下にいろ。俺が森に入る」
パトリックは私を片手で抱いたまま、そう言って歩き出した。
「だ、旦那さま、オリヴィアさまも中に入るんですか?」
「そう」
オルガの慌てた声にぼんやりしていた私も我に返る。
「リック、私は置いていった方が動きやすいのでは?」
「離せない。肝が冷えたままだから」
平坦なリックの声は、強い感情を押し込めているように聞こえる。
私は無言で彼の頭にしがみついた。
「こわかった…」
「うん、俺も怖かった」
「来てくれてありがとう」
涙声で言えば、パトリックは無言で小さく頷く。
「あれがほころびなの?」
「そう。まさか君が吸い込まれかけるとは思ってなくて……」
まだ生きた心地がしない。
そう呟くパトリックの声と腕が震えている。
私の重みのせいじゃないのは一目瞭然で。
それとも私の全然収まらない震えが移ってしまったのか。
「まさかスカーレットもあの中に……?」
「いや、いたのは君だけだった。おそらくほころびに対して、本能的に恐怖を覚えて逃げ出したんだろう」
「そう……」
やっぱりスカーレットには守人の力があるのだろうか。
一気に色々なことが頭を駆け巡り、考えがまとまらない。
パトリックも同じのようで、二人とも無言で互いにすがり、薄暗い森を進む。
「ガゥゥ……」
しばらく進むとどこからか、獣の低い唸り声。パトリックが足を止めた。
「リック、まさかスカーレットが獣に…」
「いや、そうではないようだ。見てごらん」
恐る恐る辺りを見渡せば、巨大な狼が大木の根元に丸く寝そべっていた。
その腹の辺りにスカーレットがちょこんと座っている。
「おとうさま! おかあさま!」
「スカーレット!」
スカーレットは私たちを見つけると、弾けるように駆け出し、足元にやってくる。
パトリックが私を降ろしてくれたので、両手を広げて迎え入れ、小さな体を抱きしめた。
「スカーレット…っ!」
「うわぁぁん!」
二人で泣き叫ぶ。
ひとしきりそうしていて、スカーレットがやっと言葉を話し始めた。
「おとうさま、お外のこわいの、やっつけた?」
「うん、もうあれはないよ」
「ほんとう?」
「本当。スカーレットは見つけたんだ?」
「うん、キンって音がしてバリバリってきて、こわくてこわくて…」
そう言ってスカーレットは狼を振り返る。
「そしたらオオカミさんがおいでって言って、ずっとぎゅってしてくれてたの」
「そうか…」
パトリックは胸に手を当て、狼へ一礼する。
「おかげで家族を守れた。感謝する」
「ガゥ」
狼はたいしたことじゃないと言いたげな顔でそっぽを向いた。
「リック、あの狼は……」
「森の主だ」
「スカーレットを助けてくださったのね」
私は覚束ない足取りで、狼の側へ向かう。
不思議と恐怖心は感じなかった。
視線が合えば、理知的でやさしい目をしている。
「スカーレットを守っていただき、どうも……ありがとうございました」
深く礼をすれば、狼はじっと私を見つめ、目を細めた。
「ぐぁあ」
いいんだよ、と笑った気がする。
狼は私を驚かさないよう静かに立ち上がり、身軽に跳躍して森の奥へ消えた。




