ひび割れ。
その晩、私は妙な胸騒ぎがして目覚めた。
ベッドを抜け出し、窓辺に寄れば外はまだ暗い。
でも涼やかな月明かりと星の瞬きが彩りとなって、夜空に美しさを作り出している。
「リック……」
今はどこで仕事をしているのだろうか。
結界のほころびは天変地異の先触れとも言われる。
まれに他の界に人や小動物が吸い込まれてしまったという話もどこかで耳にした。
吸い込まれてしまったらどうなるのだろう。
他の界で生きていけるのだろうか。
先を想像し、私は身震いした。
パトリックは強いと聞く。だけど危険が絶対にないかなんて誰にも分からない。
「やっぱり…守護のアクセサリーを贈ろう」
贈られてから常に身に付けているネックレスを握り込み、月を見上げる。
ふと、空の一画が揺れた気がした。
一瞬ドキリとするが、遠くで雲が掛かっていて、それが風に流されたようだ。
「いやね、私ったら……」
どうにもいらないことを考えてしまう。
もう頭から追い出したつもりの『設定』。
私はちゃんと子供たちを育てているだろうか。
最近は『設定』の夢をまったく見ないけれど、それがいいことなのか悪いことなのか……。
でもまたあの夢に捕らわれて、私は大事なことを見失うのが怖い。
パトリックに頼りない者だと思われ、嫌われるのが怖い。
沈みそうになる無益な思考を頭を振って追い出す。
再び夜空を見上げたら、月の光が雲の切れ間から地上へ幾筋も降り注いでいる。
「たしかあれは……天使の梯子と言うのだわ」
うっすらと頭痛がする。
中途覚醒のせいかもしれない。
ベッドに戻りながら、首を傾げる。天使の梯子という言葉をどこで私は知った?
「マリアはすべての問題をクリアして、天使の梯子を昇って天へ帰るのよ!」
そうだ、あの夢の中でシナリオライターの彼女がそう言っていた。
あのゲームドリルでは、天の界から落ちてきたマリアが人の界で普通に暮らしていたはず。
「なら…界が違っても、生きていけるのね」
だとすれば、吸い込まれた人や小動物も違う界で、すぐに息絶えることはないかもしれない。
少しホッとして私は目を閉じた。
「今日は風が強い日ね」
「はい、雨が降るのかもしれません」
日課の授業を終えて出掛ける子供たちを見送れば、風で雲が流れていく。
「きっとみんな埃だらけになって帰ってくるわ」
「早めにお湯に入れるよう準備しておきましょう」
「えぇ、お願い」
オルガが使用人に指示を出しに行き、私は玄関ホールに置かれているリデル神の像の前に立つ。
「どうぞ、パトリック隊の安全を……」
祈念しながら、我が身を振り返る。
王都を出て子供たちは色々な体験をしている。今後成長したら、きっと私は話についていけなくなるだろう。
子供に物事を習う日はすぐそこにきている。
祈りを終えて、部屋に戻る。
私はオルガに用意してもらった本を手に取った。
無知の親は子供にとって恥ずかしいはず。経験が不足しているなら、せめて知識だけでも…と思う。
読書に没頭していたら、ふと鼻腔に香ばしい香りを感じた。
本から目を上げると、オルガがお茶の用意をしている。
「オリヴィアさま、そろそろ休憩になさいませんか?」
「そうね、いい香り。子供たちは?」
「まだお戻りではありません。そろそろ小腹が空いてる頃でしょうね」
「お夕食まで保たないようなら、お湯に入る前に果物を食べさせておいて」
「かしこまりました」
オルガが出ていくと私はゆっくりお茶を楽しむ。
風に流されていた雲はすっかり消え、空は薄いブルーに変わっていた。
私はまた本に向かい集中する。ふと、遠くから足音が聞こえてきた。
誰かが帰ってきたのだろう。
窓の外を見れば、三男クリフと護衛が館に向かって駆けている。
出迎えるために本を閉じ階下に下りたら、クリフが玄関ホールで息を切らせてしゃがみ込んでいた。
「クリフ、どうしたの?」
「おかあさま! スカーレットがいない!」
「えっ?」
一瞬で体が固まる。
声を出せないまま護衛を見れば、真っ青な顔をしていた。
「お子様方は草原で遊んでいらっしゃいました。風が強くなってきたので戻ろうと声を掛け合っていたところ、急にスカーレットさまが怯え出して」
「お…びえて…?」
「そのまま森の方へ走っていきました。今カイルさま、アランさまと護衛で森の中をお探ししています」
「森の中……」
私は報告に身震いする。
森の入口付近で動けなくなっていればいいが、万が一奥へ移動していたら小さな身体を見つけるのは苦労するだろう。
「オリヴィアさま……」
オルガや他の隊員の家族たちが集まってきた。
「とりあえず動ける者全員でお探しいたします」
「手分けして参りましょう」
「奥様は館でお待ち下さい」
みんながそう言ってくれるが、私は頷けない。
だって私は母親だ。
パトリックがいない今、私が子供を守らなくては……。
家で待機するようにと勧める周囲に首を振り、私も草原へ向かう。
ろくに外に出たことのない私に何が出来る?
足手まといが増えるだけで、捜索の邪魔になっているのを分かっている?
万が一私にまで何かあったら、護衛にどれほどの心労を与えるか。
そしてパトリックに迷惑をかけるか。それを理解しているの?
自問自答するけど、館で待っていることはどうしてもできなかった。
現場につけば、護衛たちとカイル、アランが大声でスカーレットの名を呼んでいた。
「カイル! アラン!」
「お母さま!」
二人は私の顔を見るなり、駆け寄ってきてしがみつく。
「お母さま、スカーレットがいなくなっちゃった!」
「きゃあって言って森に飛び込んだの!」
二人は泣きながらそう教えてくれた。
私にすがっている様を見れば、本当に怖かったのだろう。
ぎゅっと抱きしめ「ありがとう」と伝える。
「ずっと探してくれていたのね」
「うん、でもまだ見つけられなくて…」
「どっかにかくれんぼのままなの!」
次男のアランは私の顔を見て、安心したようだ。
年長のカイルは事態をよく理解していて、顔色は青いまま。
それでもどこかホッとした顔で、それだけでも私が来た意味があるのかもしれない。
二人を腕の中にしまい込み、森を見る。
「えっ……」
私は森の上にひび割れがあるのを見つけた。




