鉄仮面
今度の呼び出し先は、城内にいくつもある人工庭園の一つだった。
どこまでも続く草原と、時折雲が流れていく青空――がやはり模してあるところで、実際にはそこそこ広い運動場のような部屋らしい。
青草の若い匂いまで忠実に再現してあるが、やはり魔術で拵えられた偽物だ。竜の嗅覚ならそのどことない不自然さに気が付く。
そんなことはともかく、早速リリアナを発見して近づいていくと、彼女が横に従えて撫でているそれに気が付いた。
天馬だ。
それも額から見事な一本の角がすらりと生えている、一角の天馬である。見たこともない純白で、目は血のように赤い。
ティアが近づいていくとさっと耳を伏せて警戒をあらわにするが、リリアナがなだめるように首筋のあたりを撫ぜるとそのままおとなしくしている。不機嫌そうにぴくぴく耳だけが動き続けていた。
「リリアナ!」
彼女は相変わらずの男装だが、今日は緑がかった一段と地味な色合いの服を着ている。
リリアナは明るい色合いの服より、紺色だとか鈍色だとか緑青だとか、そういったどこか褪せた色合いのものを身に着けることを好む。若向きと言われる淡い色は、本人曰く、合わないし落ち着かないらしい。
言われてみれば派手な色合いよりも確かにバランスが取れる気がするし、彼女が身にまとうと不思議とどんな色も品よく見える。
というかリリアナが着用した時点でダサいなんてことはありえない。
そんな風に、彼は今日も安定のリリアナ賛美を続ける。
しかし、こちらが愛しいヒトを見つけて喜色満面に呼びかけるも、あちらの反応はあまりよろしくないようだ。
ノロノロと振り返るその表情はいつになく硬い。
すぐに気が付いて浮かれ気分の足を止め、ティアは不安げに尋ねる。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「……別に」
彼女はそっけなく答えてすぐにそっぽを向いてしまう。
――やはりいつもと何かが違う。
困惑気味に立ち止まると、リリアナは撫でている獣に話しかけていた。
「そう、良い子だ。これがティア。――覚えたな?」
途端に、一角はぴんとリリアナの方に立てていた耳をさっと伏せ、がちっがちっと不満げに歯を鳴らしている。
鼻息を荒くしているそれに苦笑してから、リリアナはようやくこちらにちゃんと向き直る。
「ルーティーク。私の馬だ」
ぽんぽんとリリアナに撫でられ、紹介された純白の天馬はいかにも誇らしげに、というか偉そうに首をぶんぶん振った。
「しばらく、お前に預ける。面倒を見て、騎乗の練習をするといい」
えっとティアは目を見張り、ルーティークはどう見ても嫌だ嫌だとさっきからリリアナに不満を訴えている。
――が、これだけティアに接近されても逃げない馬は初めてだった。むしろ歯をむき出したり足踏みしたり、頭の角をこっちに向けてきたり、挙句翼を広げて身体を大きく見せている。
闘争か逃走の選択を、間違っていやしないだろうか、この天馬。確かに天馬も雑食ではあったろうが、生態系の頂点に喧嘩を売るのは生物としてどうかしている気がする。
リリアナはそんな両者の険悪な雰囲気はどこ吹く風、常よりもどこか覇気のない声で続けている。
「賢いし、何よりとんでもない負けず嫌いだ。こいつなら、お前から逃げ出したりしない。ただ、踏み潰す勢いで走ってきたり、首を狙って噛みついてくる可能性はあるから、その辺は自分で何とかしろ。何でも食べるけど、甘いものが好きだから時々やってくれ。厩舎の方には話を通してあるから、後は連れて行くといい」
馬は一生懸命、リリアナの服の裾を口で引っ張ってアピールしていたが、頑として彼女が意志を変えるつもりがないのを悟ったのか、やがてがちっがちっとこっちに向けて歯を噛みあわせるようになった。
こんな動作をする天馬は初めて見るから、おそらくこの馬独特の癖なのだろう。気に入らない相手には歯の音で威嚇するらしい。その歯の色まで見事に白い。そして鋭い。天馬は雑食とは言え、犬歯が無駄に尖っている。
……気に入らないのはこっちも一緒だ。リリアナに専用の天馬がいたなんて初めて知った。
いや、まあ、言われてみれば当たり前だろうが、絶対こんなちんちくりんより自分の方がうまく飛べるしうまく彼女の馬になれる。
それとさっきからずーっと撫でられてるのが一番許せない。
変われ一角。そこは俺の場所だ。というか今までにお前が何度もリリアナに乗ってもらえていると言うその事実がけしからん。実にけしからん。
リリアナの機嫌が良さそうだったらこの場でそんなやつより自分に乗ってくれ! とアピールするところだが、如何せんどうも今日の彼女はどこかおかしいので自重する。
対リリアナの場合のみ、ちゃんと作動する空気読みセンサーだった。
好戦的な天馬と火花を散らし合って忙しかったせいか、全くティアは異論を唱えなかったが、リリアナのこの要求はスパルタを越えて割と無茶なものだった。
そもそも、騎士たちの乗る天馬は二種に分かれる。
一つが無角。
竜と同じように四肢と翼を持つが、非常に温厚で御しやすい。
その代りに臆病でもあるが、新人が乗るのは大体こっちで、のんびりしている性格なので平常時や女性の乗馬に使われる。
ティアがこの間からずっと怯えられて満足に近寄らせてもらえないのもこっちのだ。
もう一方の一角――つまりルーティークもこれに属するのだが――は有事の際に乗る馬だ。
気位高く活動的で勇敢だが、何しろその特性と比例して獰猛な性格をしている。気弱な新人なんてすぐに見抜いて、あいさつ代わりに一突き一噛み一蹴りだ。
要するに、騎士見習いであるティアに、いきなりほい世話をしろなんて言って寄越す生き物では、断じてない。しかも温厚な無角の世話だってまともにできていないのに、だ。
しかし、馬鹿ではないというのはどうやら本当のことらしい。
ルーティークは本来の主から手綱が渡った瞬間、勢いよく牙をむき出してティアの右手に噛みついたが、途端にぱっと口を離して後は不機嫌そうに睨みつけるだけになった。
そういうことをしても無駄な相手だと一瞬で悟ったようだ。
事実ティアの右手にはかすり傷程度の痕しかついていない上、イラッとしたせいなのか凶暴な天馬は軽い鼻ピンを食らった。
それなりに痛かったらしく、ぶんぶん頭を振ってからがちがちがちがちと今度は断続的に歯噛みしている。
うるさいからもう一度軽めにぺしりと叩くと、今度は黙ったが耳をぺたりと伏せて遺憾の意を表明している。
あまりに伏せすぎたせいで頭部と完全に耳が一体化し、もとからないようにまで見えるほどだ。
そんなこんなで人(竜?)馬が互いに渋々(しぶしぶ)、しかし一応おとなしく立っているのを確認すると、リリアナはすっと身を引く。
「……話はそれだけだ。じゃあな」
「えっ、ちょっと待ってよ、リリアナ!」
慌てて呼び止めるとかろうじて振り返ってくれるが、その目はどこか冷たい。
「……ほかに何か?」
「何かって……まさか、この馬を渡すためだけに呼び出したの?」
信じられない、と思わず顔に出すと、リリアナはすっと不機嫌そうに目を細めた。
「……私もお前も忙しいし、人目につくと不味いだろう」
吐き捨てるかのような言葉に、日ごろ少しずつ重ねてきた不満や我慢がふつふつとわきあがった。
いったいなんだって言うのか。
さっきからずっと苛々した顔をして、どうしろというのか。
わけのわからない場所で、わけのわからない連中と過ごしているのは全部彼女のためなのに、彼女と過ごすこのときのためなのに。
約束をしたのはこっちだけじゃない。彼女だって、あの時一緒に居たいと言った。忘れていないとも言った。
――それなのに、一体何がダメだと言うのか。
ティアだってずっと我慢を続けている。それもこれも彼女のために。それなのにこんな風に当たられても、どうすればいいのかさっぱりだった。
積もった感情は、わずかにだが不快となって言葉の端々に漏れ出す。
口を開けば、こちらの口調も随分と冷えたものになってしまっていた。
「まずいって、何が? 俺は全然大丈夫だ。でも、リリアナが困るから――たぶん嫌がるから、隠してるんだ。俺と一緒にいるのを見られるのは、そんなに嫌? 怒ってるなら理由を言ってよ。すぐに直すから」
「それは……」
途端に、彼女がどこか傷ついたような顔をした。
それを見てはっと我に帰る。これはまずい。
酔っぱらった黄薔薇の先輩の言葉が、瞬間的に鮮明によみがえった。
「いいか新人。女と喧嘩になったら、とりあえず謝れ。なんでこっちが怒られてるのかなんてわからないだろうが、精一杯謝れ。まずそういうことにしておいて、相手を落ち着かせないと話にならん。理由はそれから聞き出しても遅くない。いいか、絶対に理論で戦おうとするな。ありゃあ理不尽の塊だが、出て行かれると辛いのはこっちだ――」
その後先輩はおいおいと泣きだして周りの他の黄薔薇団員に慰められていた。
ついでにいつものことだから、奴の愚痴は聞き流して適度にあしらっとけとも捕捉された。
ともかく、ティアは何とか事態を打開しようと懐を漁り、仲直りのためのとっておきがあったことを探り当てた。
「そうだ、リリアナ。今日会ったら、これを渡そうと思って……」
しかし、それを取り出した瞬間、空気は凍りついた。
リリアナの顔が固まったかと思うと、見る見るうちにそこから色が消えていく。
ぞくっと背筋が泡立った。
何か取り返しのつかないことをした、と直感するが遅い。
背後でルーティークが嘶いて後ずさり、手綱が手から離れるがそれどころではない。
デジャビュ、と言ったろうか。この光景を、ティアは確かに前にも見たことがある。こういう顔をすると、なるほど間違いなく親子なんだなとよくわかった。
リリアナはいつしかの魔王と同じように、まったく表情の読み取れない顔になっていた。そして、今にしてようやく彼は彼女の通称の意味を知った。
――鉄仮面。
今まで見てきた、つんけんしてはいても素直で読み取りやすい顔とは打って変わった、文字通り仮面のような動かぬ無機質な表情。
同じく無機質な声でもって、彼女は宣告する。
「――出て行け」
その声にまったく怒りもなければ震えもない。ただただ底冷えのする音に、ティアは震えた。
「リリアナ――」
「聞こえなかったのか。私は出て行けと言ったぞ」
ティアは立ち尽くす。
どう考えても怒らせた原因は今彼の手の中にあるプレゼントだが、そんなにいけなかったのだろうか。
クローディアは女の子なら絶対に喜んでくれる、そう言ってこれを勧めた。
なのに、間違いなくリリアナはこれを見て激怒している。
というか、今初めて彼女が本気で怒ったらどうなるのか体感している。
怒鳴られるより、淡々と冷ややかに――興味も関心もない、そんな風に告げられることの方が辛いのだと知った。
「あの――これが、そんなにいけなかったの?」
リリアナは答える気がないらしい。無言のまま、戸惑っているティアをしばらく窺ってから、そっちが動かないならこっちが、とでも言わんばかりに踵を返す。
「リリアナ!」
待ってくれ、と手を伸ばした瞬間、バシンと派手な音がして火花が散った。
弾かれた、と知覚するころには彼女の背中は遠い。
「リリアナ、待って――待って!」
呼びかけても振り返らなければ足を止めることもない。あっという間に彼女の姿は見えなくなってしまった。
後には、衝撃で尻もちをついて唖然としているティアと、その横で悲しそうに鳴きながら行ったり来たりしているルーティークが残される。
それは初めて彼女から受けた――明確な拒絶、だった。




