見習いの日課
「ふあっ!?」
人差し指で肩甲骨をなぞった瞬間、リリアナは声を上げる。
顔を覗き込むと、真っ赤になってそらし、ふるふると身を震わせている。
そっと、抱きしめているのと逆の空いている方の手で、再び同じ部分に指を滑らせる。
「あ、そんな、やだ――」
駄々をこねるような声音、しがみついてくる動作が愛おしい。相変わらずゆっくりと緩慢に背中をなぞり続けると、時折熱っぽい吐息を上げながら彼女はティアの胸板に顔をうずめる。お互いの身体が、熱い。
「リリアナ――」
呼びかけられて顔を上げた彼女に目だけで訴え、やはり目で回答をもらうと、彼はゆっくりと膝に乗せているリリアナを抱えたまま寝っころがる。
押し倒されて彼女の金の髪がふわりと床に広がる。
潤んだ瞳、上気してうっすら桜色に染まった頬。
「ティア……」
加えて発せられた甘えるような声に、ぞくりと身体が震えた。
彼はうっとりしながら、彼女の服をなぞり、ついに手をかけ――。
「ジーク、おいジーク。おーい、戻ってこーい」
――そして目覚めた。
目の前には、愛しい相手ではなく、むさくるしい先輩騎士の顔。
咄嗟に手が出て、へぶっという何かが潰されたような音と、次いで飛んで行った気配、その先で大惨事が起きているような音がしてからようやく覚醒する。
ああそうか、そういえば今は座学の時間とかで、他の見習いたちと一緒に講義を受けていたところだった。
が、騎士の心得や歴史が云々かんぬんとこれまた眠くなるような調子で単調に教科書を読み上げるだけの時間が続き、途中で飽きてリリアナに会いたいと思いながら目を閉じたあたりから、たぶん意識がなくなった。
見回してみると、数人いた他の見習いの姿はないのですっかり終わった後らしく、何人かの黄薔薇の先輩たちが迎えに来てくれたようだった。ちなみに吹き飛んで行った一人は、幸いにも人は巻き込まずに済み、教卓に手をかけてげほっとどこか格好をつけてせき込んでいる。
「鬼かお前は! ――おい待て、この流れでもう一度寝ようとするな、俺が殴られ損だろうが!」
親切にも起こしてやった後輩騎士に、お手本のようなストレートパンチを決められて黒板まで飛んで行った先輩は、さすが黄薔薇騎士団と言ったところか、それでも完全な不意打ちだった頬の赤い痕以外は、未然に防いだのか比較的軽症である。
が、そんなことは心底どうでもいいので、ティアはもう一度机に突っ伏して急いで眠って夢の続きを見ようと試みていた。
最後までなんて贅沢言わない、せめてゆるめた服の下に手を滑らせて直に肌を撫でまわすところまで、それとリリアナ様が反応して喘ぐところ、そこまででいいから! それだけでいいから!
きっと悪かったのはあれだ、上か下かどっちを先にしようという一瞬の迷いがいけなかったのだ。
修行不足は今この瞬間猛省し、次回からはけして迷わない。
だからよし、今日は上にしようそうしよう。
それであばら骨をなぞって鎖骨に噛み痕をつけようそこまでやろう。
太ももはまた今度の楽しみに、いや、やっぱりうつぶせにして背中を舐め回すのも捨てがたい、いやいやそんな風に迷いがあるからして途中で覚醒するような事態に、ああでもやっぱり全部やっちゃいたい、リリアナ様リリアナ様――。
やたらと具体的な妄想プランは、ぽかんと頭を軽くたたかれて打ち砕かれた。
「飯だ飯、食いに行くぞ。どうせ幸せな夢でも見てたんだろーが、そういうのは夜部屋でやれ、な?」
むすっとした顔で見上げると、師父はにっこりと笑った。
「よしわかった、夜になったら先輩たちがお前に、どうしたらご婦人ご令嬢が喜んでくれるか指南してやるから」
すると言い終わるかどうかのうちに、彼はすっくと立ち上がって輝く瞳で師匠につき従う。
これ、完全に手懐けられてるな、と黄薔薇の団員達は思っているが、怖い団長と可愛い後輩に対して特に文句があるわけではない。
癖のありずぎるメンツの中で単純なのはいいことだ。むしろなんか、見てると癒される。頻繁に物を壊す癖に関しては早くなんとかしてくれと思わないこともないが。
師父ヘイスティングズは瞬く間に弟子の扱い方をほとんど習得していた。
ティアは知らなかったが、もちろん未然にいろいろな事態を予期していた父親及び妹の、思いやり溢れる全面的支援によるところが大きい。
二匹の竜ににこにこと微笑みを浮かべられながら品定めされた経験は、数々の荒波にもまれてきた師父にとってもなかなか楽しいものだった。正直初めて魔王と対峙した時よりぞくぞくした。
父親の方は割と早くに打ち解けたが、それでもこちらが同じ羽もちですねと歩み寄ったらごく自然に距離を取られスルーされてしまった。なるほどやはり弟子は特殊例で、竜は他種に対して相互不干渉らしい。
妹の方に至っては、パッと見はニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべているのに、握手した時に手がみしっと鳴ったあの感覚、骨を砕きに来てやがった。
魔人の騎士としては、女人と言う生き物に対して若干修正を加えなければいけないかもしれないくらい、そこそこショックな出来事である。
生憎ヘイスティングズは年のせいもあるのか、そこまで幻想を抱いていない。さらりと防御した後は何この子超力んでる、と楽しんでこれまたとても可愛い舌打ちをもらった。
幸いなことに、弟子本人はあのおっかなく隙のない家族に比べると随分とのんびりしていて、好き嫌いもものすごくわかりやすく、しかもかなり素直に言うことを聞く。
頻繁に物を壊すくらい、黄薔薇に長くいればご愛嬌レベルだ。
それに何よりこいつは面白いものを持っている。
赤薔薇のリリエンタールが初日に喧嘩をふっかけてきた辺り、おそらくあの噂――殿下と知り合い以上の関係であることは、たぶん確かなことなのだろう。
時間はたっぷりあるんだからいつかボロが出るだろうし、そのうち詳しく話を聞いてみようと思う。
今のところは殿下に関して何か聞こうとするとガードが固いが、どうせほっとけば向こうから恋の悩み事を打ち明けてくるだろう。
ヘイスティングズはこのように考えており、気長に持久戦を展開するつもりである。これが師父の貫録と言う物なら、もう少し別の部分に発揮してもらいたいものだった。
ともあれ、見習い騎士になった彼の日課は、退屈な講義に参加して少しは起きようと努力し、結局大体寝過ごすことだった。
リリアナと一緒にやったような歴史や地理、彼にはちょっと理解が難しい魔人たちの宗教の話、何度聞いてもアホじゃないのかと思いたくなることが多々ある王城での礼節の作法、魔法や魔術に関すること等々……。一応そんなところが必須科目であった。
居眠り常習犯の彼に、最初のうちはチョークやら何やら飛んできたが、まったくダメージを受けない上、静かに寝ているだけで他の生徒の妨害はしていない、および結構竜族は魔人に比べて昼寝をするものだという性質が考慮されてか、最近では教師も周囲も心得たもの、座学において約一名を起こすことはもはや諦め気味である。
それでいてたまに当てると、所々局所的に気持ち悪いくらい覚えているから腹が立つ。
もちろんリリアナと一緒に勉強したところであるが、そんなことは担当教師も受講仲間たちも知らない。
実技は逆の方向性で目立っていた。
何せ、ティアが振り回したものは、その大体が無条件に破壊される。
剣は投げ捨てるものではない、帯剣し、抜刀し、柄を握るものだと先日ようやく習得した際には、周囲から拍手が沸き上がった。
今度は消耗品でもないことを習得させようと、先輩たちは躍起になっている。魔法や魔術のある世界でよかったと、これほど周囲が思ったこともない。
ついでに言うなら、なぜそこまで派手な破壊魔術が使えるのに直す方はてんでダメなんだと彼に対して嘆く声もある。
その点に関しては、お師匠様であるリリアナが、実際にやってみてできそうなものしか叩き込まなかったのだからしょうがない。
結果、見事なまでの戦闘特化及び破壊神になったが、彼女はあくまでも城で邪見にされるかもしれない彼が抵抗できるように、彼に対して危害を加える不届き物を自分で排除できるようにする訓練をしていたのである。
脱皮後の彼が相手がそういったことをしてきた際の防御法だけでなく、むしろ積極的に先手を打っていく方法まで習得してしまったのは誤算だったことだろう。
ひたすらやられ続けるだけの訓練の間、上手な防御を研究する一方で、いつか同じようにやり返してやる、大人になったらあいつら全員殴り返すと言う鋼の意志が芽生えたのは仕方のないことだった。
しかし、ちまちまとした礼節をこなしたり、物を壊さないように戦闘訓練すること以上に彼には困難なことがあった。
騎乗術である。
騎士たち、とくに近衛ともなれば、空をかける四足の生き物天馬に乗ることは一種のお約束、もちろん見習いには必須課題の一つである。
ところが、そもそも竜である彼は獣たちの頂点に君臨し、空を制する生き物だ。
だからまず、空を飛ぶために獣に乗ると言う発想がない。
言ってしまえば彼自身が優秀な騎馬たることができるので、天敵の気配を察知して半狂乱になる天馬たちを抑えて無理やり乗るより、化けて飛んで行った方が話が早いのだ。
――が、近衛になるためにこれは必須、できなければ里帰りさせられるとわかりやすく師父に解説してもらったらやるしかないので、持ち前の根性、つまりゴリ押しでひとまず触るところまではクリアした。
哀れ犠牲になった天馬は首筋を撫でられている間ずっと小刻みに震えており、終わると全身汗だくで泡を吹き、おおよしよしかわいそうに、と先輩たちになだめられて帰って行った。
実は、彼自身が飛べない理由はもう一つあった。騎士たちの最高の誉れとして、竜騎士という位がある。彼らは厳正な審査で選別されたのち、里に行って特定の竜と契約を結ぶことによって認められる。
平常時は竜は里で好きに過ごしているし、騎士たちもまた己の職務を果たしている。
しかし、ひとたび非常時になれば、契約する騎士の下に竜は馳せ参じ、その手足として働き彼らを守ることになっている。
騎士もまた、自分の竜に何かがあった場合は、ほかの事に優先して竜を助けることが義務付けられている。
一対一の互恵関係だが、何しろ気位の高い竜に認めてもらい、自分だけの竜に乗ることができるのだ。騎士を志す者が一度は憧れるイメージである。
これがティアの場合、本人が空を飛ぶということは竜としての己を主張することであり、軍や近衛に属するのであれば当然それに枷を、つまり騎乗する人物を選ぶことが求められる。
今のところは、だから彼が飛ぶんだとしたら師父がその背に乗ることになる。
――その可能性を提示された際、彼は断固拒否した。
彼が背に乗せるとしたらただ一人のみ、それ以外の誰かに明け渡すつもりはない。たとえそれが師父であろうと、これを譲るつもりはなかった。
ヘイスティングズは何かを察したのか、一度提案して速攻で断られると、それじゃ何としてもお前が天馬に乗るしかないなと笑い、それ以降は話題に挙げようとしなかった。
そんな風に一か月が過ぎて、少し城での生活にも慣れてきたころ。
どんなに忙しくても片時も忘れず、じっと待ち望んだ時はようやくやってきた。




