悪い夢 前編
血と腐臭の中で目が覚めた。
もがくようにのばした不定形のものが自分だと認識する。
ふにゃふにゃした境界線の形がきしみ、ゆがみ、伸びる。
触れたところから吸収するものは血と肉。
誰に教わらなくても知っている。
これが腕。これが口。こうやって食べる。ほら、伸ばしたの先が花弁のように花開いて。
……すすった血肉の味は正直いまいちだと感じた。
なぜ?
生きていないから。
どうして?
僕が殺したから。
彼女は腹を開かれたショックでだろう、既に絶命していた。
屍肉はまずい。生かしたまま食べるのが一番おいしい。
でも僕たちの誕生は死体の腹から出発するのが常だった。
幼体は誕生を決意したら、母体の――苗床の腹を食い破って生まれてくる。
母体が雄でも雌でもそれほど関係ない。
運良く子宮に居座れたらお行儀よく産道から出てくると言う手もあるのだけど、何せそのルートは狭いし暗いし苦しいし致死率高いしでデメリットが大きすぎる。
そんなことより内側からかっさばいて道を作った方がよっぽど手っ取り早い。
どうせ生まれてしまえば、母親の手なんていらないのだし。
僕らはそういう生き物。
ヒトの腹から生まれ、ヒトを喰らい、ヒトの姿で生きる、けしてヒトではない生き物。
生まれたばかりの僕は学ばなければいけないことだらけだ。
今はまだ不定形のままだけど、すぐにヒトの姿をまねる事から覚えないといけない。
僕は屍肉をすすって情報を得ようとする。
この個体はもう死んでしまっているから、得られるのは身体の特徴ぐらいだ。
輪郭を決めるのは骨格と肉付き。
本当はそこに、どういう性格でどういう癖があってどういう仕草をしてどういう表情でどういう姿勢でどういう経験をしてきたのか――そういった付加的な情報を得て初めて、そいつに成り代わり、演じるところにまで至ることができる。
今はただ、姿を借りるだけだ。僕はイメージする。
生前の彼女。金の髪、金の目が特徴的だった、健康的で美しい姿。
僕たちはその性質上、ほ乳動物のように親に幼年期を世話してもらえるわけではない。
未熟でも生きていくためのすべてのことを自分でやらなければならない。
でも生まれ落ちたばかりだからか、まだ自分を思うように動かし切れず、全然うまく動けない。
こうしようという気持ちはあるのだけど、身体が追いついてこない。
仕方なくもぞもぞとスライムのまま身体をふるわせていると、不意に何かが伸びてきて優しく触腕を取った。
ふにゃりと絡んだ相手の腕も同じ半透明の触手。
おはよう。
流れ込んでくるのは大いなる意思。
そのヒトは光だった。
大いなる虹色の光。
オトウサン。
ボクノスベテ。
――そのことも。
誰に言われなくても知っていた。
親。真祖様。血を分けたただ一つの存在。
苗床は所詮苗床、仮腹でしかない。
僕はそのヒトのために生まれてきたのだと悟る。
一生懸命身体を動かして、頭を働かせて、答えようとする。
オハヨウ。
オトウサン。
オハヨウ、オハヨウ。
オトウサン。
まばゆい光の中、そのヒトがかすかに微笑んだ。
ここにいるよ。
血と肉のぬくもりにつつまれ、そのときの僕はとても幸せだった。
たぶんうまれたばかりのこのときが、じんせいでいちばんしあわせなしゅんかんだった。
なにもしらなかったから。
なにもしらずにいられたから。
***
混濁したヒト種のうつろな目は、僕らの本性に少し似ていると思う。
かじっていた男から口を離してちょっと観察してみるけど、酩酊させたから視界はどこ見てんだかわからない。
口角がだらしなく上がっているのは、まあ、そうなる液体を打ち込んだからなので問題ない。
生まれてからそこそこの時間が経って、僕はまだ若いけどもう幼体とは言えないぐらいまで成長した。
わからないことは全部父さんが教えてくれた。
僕の神様。一生を捧げる存在。
夢の中をふわふわただよっているだろう男をじっと見る。
ひどくおなかが空いていた。もう一噛みぐらい、と口を開きかけたそのとき、胸の奥が震えるのを感じた。
僕は胸を押さえて戸惑う。
父さん?
共感覚は間違いなくその存在の異常を告げていた。
急いで両手につかんでいた獲物を放り投げ、身体を変形させて空間の狭間に潜り込む。どろりと輪郭が溶ける感触。
他の奴らはこういうとき意識を飛ばすか、あらかじめ実体化を解除して影になっていないととっさに出て行くことができない。
僕は、あいつらとは違う。
僕は実体化して離れている場所にいても、地脈に溶けて父さんのところまで行くことができる。
まあ、瞬間移動に近いものが使えると思っていてもらえれば大体合っているかな。元々素養はあったけど、一生懸命練習したんだよ。
だって呼ばれたときにすぐに行けないと、父さんは僕のことを役立たずだって思うだろうから。
父さんには何人も子がいる。
僕には父さん一人。
こっちを向いて。
言葉をかけて。
やがて気配が近づく。
呼びかけてみるけど、答えがない。
おそるおそる、影から再び現実世界に出て、辺りを見渡す。
ちょっとびっくりした。
立ち尽くしている父さん。
その周り、見渡す限りのヒト、ヒト、ヒト、ヒトヒトヒトヒト、ヒトの山――。
そいつらは皆死んでいた。
父さんがやったんだろうってことは、すぐにわかった。
皆、苦しい表情で、顔中、いや体中の穴から血を流して死んでいたし。
たぶん頭の中がぐしゃぐしゃになっちゃったんだと思う。
僕は混乱した。
父さんは日頃から僕に、僕たち眷属に、多く殺しすぎるのはよくないって言ってきた。
僕たちの獲物は知性を持つ。
彼らにとって僕たちが有害であると認めさせてはいけない。
彼らの知性を使わせてはいけない。
さもなければ、我々は簡単に狩る方から狩られる方になってしまう。
だから獲物の知性が僕たちの排除に向けられることを回避するために、僕たちは食事を途中で終わらせる。
少し面倒だけど、記憶をいじって僕たちのことをなかったことにしてしまうんだ。
もうちょっと常連さんとしておつきあいできるかなと思うヒトは、ヤバいところだけぼかして、いい思い出として覚えていてもらう。
殺しは目立つ。
僕たちは闇の中の住人。
日陰の中でひっそり生きていくものは、あまり派手にふるまってはいけない。
だから殺しはできる限りしてはいけない。
どうしても殺すときは、死体を隠す。
証拠が残らなければ大方のヒト種はそこまで積極的には動かない。
行方不明と死亡では、重さが違うのだ。
……ま、規模が増えすぎると、ちょっと隠蔽工作が間に合わなくなるらしいけど。
父さんはもともとあまりヒト種を殺さない。
殺すぐらいなら廃人化して放置する。
僕の神様はそういう性格だった。
それが、こんなに濃く死臭がただようまでに、見渡す限り積み上げて。
ヒトの群れにはいまいち統一感がない。
有象無象。一般市民の集まり。そういう印象が強い。
それより僕がぎょっとしたのは場所だ。
見上げた空のはるかかなたに浮かぶ城。
ここ、よく見たら郊外とは言え、よりにもよって帝都じゃないか。
父さんは今まで、僕たち眷属にも帝都では特に行儀良くふるまうようにってうるさくて仕方がなかったのに。
一体何があったの?
今までの行動と矛盾しかないよ?
父さん?
僕はおそるおそる近づいて、血ぬれの袖を引っ張った。
返事はない。
父さんは赤の中、両目を開いたまま空を見上げて立ち尽くしている。
口からは笑い声みたいな音が漏れているけど、僕にはわかった。
泣いてる。
父さんが、泣いてる。
だって同族だから伝わってくるんだもの。
胸を締め付けるような、ぎゅっと痛いこの感じが。
「ああ。こんなに胸が張り裂けそうで、切なくて、苦しくて、死んでしまいたいほど――これが悲しいってことのはず。なのにどうしてあたしの身体は、涙の一滴も流れないんだろうね」
独り言なのか、僕に話しかけているのか、父さんはうつろな声をもらす。
僕らの本性はスライムのような不定型な生き物。
催淫剤とか幻覚剤とか、必要に応じて液体を分泌することはできる。
でもヒト種のように、感情が震えると無意味な液体が流れ出すってことは、ないんだ。
僕らの感情は、借り物で偽物だから。
だとしたらどうしてこんなに苦しいんだろう?
とうして?
どうして泣いているの、父さん。
そんなに泣かないで、父さん。
あなたが悲しいと、僕も悲しい。
どうすれば泣き止んでくれる?
「――父さん」
僕はもう一度、さっきよりも強く袖を引く。少し焦りながら。
父さんは多く殺しすぎた。ばたばたと周囲を包囲される気配がする。
殺気、敵意、攻撃の予兆。
血のもやの向こうに見えるのは、完全な武装集団だ。
このままじゃ父さんがやられちゃう。
でも父さんは動かない。ぼんやり立ったまま、うつろに笑ったまま。
「父さん!」
ヒトが、ヒトの群れが、押し寄せてくる。
僕はいよいよ切羽詰まった声を上げた。
なおも父さんは動かない。
先頭の男の兜が見えた。
構えた武器の鋭いきらめきが見えた。
立ちこめる魔力の香り。
追撃の、周囲からの攻撃魔術の予兆。
ヒトビトは僕たちを討伐しようとしている。
父さんはまだ動かない。
その心はひたすら悲しみに塗りつぶされていて、それ以上のことは何一つ読み取れない。
僕は袖を離す。
父さんの前に立ち、無数のヒト種に向き直る。
先頭に男に目を合わせた。
男の動きが鈍る。
彼を無力化して近づかせて、その首筋に変形させた触腕で食らいついた。
遠慮なくすべてを吸い尽くしそのエネルギーを糧にして次の獲物へ。
何が起きている?
これは何事だ!
ヒトの群れから一斉に困惑の声と、怒号が上がる。
そのうち何人かの心を掌握し、とどくものは触腕でとらえ、とどかぬものは動きを止めるか無差別に味方を攻撃させる。
しっちゃかめっちゃかに荒れ出す場。
それが僕の狙いだ。
僕は同族の中でも特に父さんの血を濃く継いで生まれてきた。
心を読み、操り、相手の魔力を奪う。
父さんのできることなら、父さんほどの精度には及ばないけれど、似たような事ができた。
ありったけの能力を使い、殺戮の輪を広げていく。
僕が僕として生まれたからには、この身が滅びようとも父さんに尽くさなければならない。
僕たちはそういう生き物だ。そうでしかあれない生き物だ。それ以外の方法なんて知らない。
父さんが危ない。なら僕は、全力でもって危険を排除し、この存在を守り抜かないと。
たとえ。
生涯のほんの一瞬の間すら、顧みられることがないのだとしても。
子らは親に絶対の忠誠を誓い、おのれのすべてをささげる。
僕は父さんを守る。絶対に。
屍の山を積み上げて、父さんを振り返る。
血の雨。血の海。辺り一面赤の中。
あれほど禁じられていた死だったのに、気持ち悪ささえこらえてしまえば大して難しいことではなかった。
僕は力を尽くし続けた。
僕の大切な存在を守るために。
父さんの口からは笑い声がこぼれだす。
大丈夫かな、父さん。壊れちゃったのかな。
不安になって振り返ると、美しい虹色の瞳が、慈愛のまなざしが僕を包み込む。
「そうだね。あたしたちは化け物だったね。あたしたちは、人殺し以上のものにはなれない」
こんな父さんを見るのも初めてだった。僕は驚いてつかの間立ち尽くす。
「よく頑張ったね、エデル。あたしの可愛い子」
血と泥と死臭にまみれた僕の頭にそっと触れて、優しい手つきでなでてくれた。
「最初からこうしていればよかったんだ」
父さんが。
笑ってくれた。
褒めてくれた。
僕は父さんの役に立った。
ああ、とても幸せだ。
きっとこれでいいんだね? 父さん。
だって僕も笑って、父さんも笑ってる。
だったらこれでいいんだ。
これは、正しいことなんだ。
その日、僕は数え切れないほど多くのヒトを殺した。
殺しすぎた僕は、ヒトから邪眼と呼ばれるようになり、疎まれるようになった。
父さんのした殺人も、すべて僕のしたことになった。
僕がそういう風に印象を操作したせいもあった。
でも、つらいことなんて何もないよ。
だって父さん、笑ってくれたじゃないか。
僕はそのためになら、なんだってするよ。
誰だって、何人だって、殺してあげるよ。
父さん。




