塔での決闘 8
また、五感の消えた世界に引きずり込まれる。
今度は現実世界とダブって見えることもない。
完全な精神世界。相手の領域に閉じ込められる。
それでもティアは自分がずいぶんと落ち着いていることを自覚した。
前回のことがあるからだろうか。
それだけではないように思えた。
深呼吸をして待つ。
暗くて何も見えない空間が波打ち、さざめき、動き出す気配がする。
自分に対する悪意が満ち満ちていく。そんな風に感じても、ティアはあくまでじっと動かずに相手の出方をうかがうにとどめていた。
さっきまでの空という場ならともかく、精神世界の場は夢魔たちのホームのようなもの。
そんな所で下手に先手を打とうと焦ってももがいても意味がない。
大丈夫だ。
ゆっくりと息を吐き出しながら、彼は自分の中の確信を深める。
何が起きても、大丈夫だ。
構えず、臆せず、動じず、よどみも汚れも見られない、鏡と錯覚しそうなほどに澄んだ水面のごとく。
来た。
やがて、不穏な気配が充満していた場がゆらぎ、景色が変わる。
頭痛のような感覚は、転移する瞬間と少し似ている。
それよりは、磁気嵐の中に飛び込んだ時とだろうか。
さささ、さささ、さらさらさら……。
耳奥に響く残響に、「やはりそうなのか」という思いが最初にこみ上げてくる。
記憶を読み取られ、その中に飛ばされたのか。それを模しただけの惑わしの空間なのか。
どちらにせよ、彼の心は相変わらず波立つこともなく穏やかに凪いでいる。
深く鈍く、頭の奥から胸に腹に落ちていくひんやりとした滴を感じながら、ティアはゆっくり顔を上げた。
視点がずいぶんと低く、身体の感覚がとても心許ない。
薄暗い洞穴の中、出ていこうとしていた彼女がゆっくりと振り返った。
翼を広げると入り口からの光が遮られて圧迫感が増す。
後光ではあったが、ぼんやりと暗い中に彼女の姿が浮かび上がった。
そうか。こんな顔をしていたのだったか。
落ち着いた状態で改めて向かい合うと、確かに頑固で気むずかしそうな表情をしているものの、美しいというよりは童顔よりでかわいい系の顔立ちである。
子ども時代、自分は母の方に似ていたのだなと彼はおぼろげながら思った。
誰にも言われたことがなかったから自覚もなかったが、確かに自分はこの母の要素を継いでいたのだ、と。
遠く、雨の音がこもって響いている。
哀れで無力な息子に向かって、母竜はゆっくりと口を開いた。
「お前はいらない子だった」
彼女は冷たい声で宣告する。
子竜は静かに目を閉じると、上から降ってくる重々しい言葉を受け止めた。
「私はお前の父を愛していた。あれがいれば、お前なんかいらなかった」
びいん、と空気に余韻が残る。
深く息を吐き出したティアの胸の中には、ほんのり広がる痛みとともに、不思議な満足感があった。
彼はまぶたを上げ、顔を上げる。
小さな小さな身体のまま、それでも子竜は精一杯に身体を広げ、しっかりと彼女を正面から見据えて立った。
「知っていたよ。あなたがぼくを……俺を、必要としていないことは、わかっていた。俺じゃないものを選んだことも、知っていたよ」
考えながらゆっくりと喋る。
母が口を開こうとした。
それを、うなり声をあげて制する。
生まれたばかりの子竜の声なんてか細くて弱っちいものだったけれど、そこには彼の強い意思が宿っていた。
ここは現実じゃない。見えているものだけがすべてではない。
あの頃、小さな彼にはすべてのものが大きくて、ひ弱な彼にはすべてのものが強くまぶしく映って見えた。
今は、それだけじゃない。
大丈夫――。
威圧感を増し、憎しみすら読み取れる強いまなざしで見下ろしてくる母を前に、子竜は一歩も退かない。
むしろ踏み出しながら、しっかりと一音一音、魂を込めるように発音した。
「あの日、あの嵐の中に飛び出していったとき、あなたは確かに俺を捨てたんだ。わかっていたよ、本当は。それでもあなたを恨んだことなんかない。……ううん。本当は、悲しくて、苦しくて、憎かったのかもしれない。あなたが良い親だったかと言われると、そうだったと胸を張って言うことはできないよ。俺にとってのあなたは、そのぐらいのものだった。あなたにとっての俺が、そのぐらいだったのと同じように」
素直に、偽りなく、自分の心を口にする。
そのたびに自分の身体に力が満ちて、輪郭がくっきりとしていくような、奇妙な感覚がある。
けれど一つ思うのは、この方向で間違っていないということ。
「あなたに言いたいことが一杯あったはずだった。なのにあの時の俺はあまりに小さくて、何もわかってなかった、何もできなかった。俺は本当はまだ、あの時――あなたに出て行ってほしくなんかなかったよ、母さん。単に世話をする相手がいなくなるってことじゃなくて、あなたともっと一緒にいて、もっといろいろなことを知って――あなたをもっと知りたかった、あなたにも俺のことを知ってほしかった」
ティアはかみしめるように言葉を吐き出し続ける。
本当は、きっと。
子どもだったから、親に愛してほしかった。
子どもだったから、親に一番なんだと言ってほしかった。
嘘でもいいから、あの時そんな風に演じきってほしかった。
だけど同じぐらいわかっている。
ティアの両親はどちらも若くて、きっとまだ恋人で、夫婦ではなかった。
ひょっとしたら父は心構えがあったのかもしれない。
でも、母はそうではなかった。
だけど、それは。
それはもう、終わったことなのだ。
だって彼女は死んでしまった。
とっくの昔に終わってしまった。
後は、残されたものが自分で自分に決着をつけなければいけない。
彼らが死んでも、生きているものは続いていく。
そういうものだ。
だから。
小さな竜の瞳は、ほのかに金の光を帯び始め、薄暗い洞窟の中を照らしていく。
「――だから。今のお前は、俺にいらない。本物でないなら、お前にかける言葉にも、お前にかけられる言葉にも意味はない。幻は、失せろ!」
母竜の怒りの吠え声が響き渡り、びりびりと揺れ、やがて突風が襲いかかってくる。
子竜はしっかりと立ったまま、偽物の母をにらみ続けた。
まもなく彼女の姿がぶれ、ノイズが激しくなり、景色がゆがむ。
再びやってくる、磁気嵐の中に放り込まれたような不快感――。
次に出てきたのは、育ての親であるテュフォンだった。
また、雨が降っている音がしていて、洞穴の中だ。ちょうど、初めて彼に出会ったあの時のように。
母よりさらに大きく威厳のある彼が、やはり小さなままの子竜を見下ろして言う。
「お前はシグムントのかわりだった」
「それも知っている」
今度はティアも素早く言葉を返した。
テュフォンは渋い顔になり、いらだたしげに羽ばたきながら続ける。
「シグムントの息子でなければ、このテュフォンが白竜なんぞわざわざ拾ったりしなかった」
「そうだろう」
「お前は儂の期待に応えなければならない。そうだろう?」
「それは違うよ、お父上様」
「反発するな! 儂に逆らったから、シグムントも死んだ! お前は父の言うことだけを聞いておれば良いのだ!」
大きな体躯のテュフォンがすごむと迫力が桁違いである。
びりびりと身体にひびく衝撃をこらえながら、ティアは言葉を続けた。
「それがあなたの本心だったのか? それとも俺が心の奥底ではあなたがそう思っていると考えていたとでも言うのか? ただのねつ造に過ぎないのなら、邪眼。こんなことは無意味だ。俺はこの程度で心乱れない」
「儂は、シグムントを――」
「黙れ! その薄汚い口で、心で、魂で、お父上様を汚すな! たとえ何を思っていたのだとしても、このヒトが俺を育ててくれた、俺に力をくれた! だけどだからって俺が言うなりにならなければいけない道理はない――子どもは親の道具じゃない! 誇り高い本物のあなたなら、言われなくなってわかっているはずだ!」
再び竜が吠える。大きな黒龍の声は辺り一面を揺らす。
地震のようなその咆吼は、どこか悲鳴にも似ている。
頭痛とともに揺れる光景。
だが一方でティアの心はますますと澄み渡り、落ち着いていく。
次の場では、彼の身体は脱皮後になっていた。
遠くの地平線で日が上りかけているのがうっすら見える。
傍らに立つのは美しい青竜だ。
しかしその顔は、覚えのない醜悪な形にゆがんでいる。
だんだんと化けの皮がはがれてきているな。
子竜は胸の奥がすっと冷えるのを感じながら、妹もどきに向き合う。彼女が口を開いた。
「兄上の変態」
「変態で悪いか」
「黒龍はね、多くの雌にその優秀な子種を与えることに存在価値があるんだよ」
「それはお前たちの価値観だ。俺のものじゃない」
「兄上は竜の欠陥品だよ。出来損ないだね。本当はボクのこと、うらやましいんでしょ、うらやましかったんでしょ? ボクに慰められる人生がいやだから別の子に乗り換えたんでしょ? 馬鹿だなあ、そんなことしても、兄上が駄目な子だって事実はね、なあんにも変わらないんだよ!」
エカトリアが彼に嫌みを言うときは、大体軽口に乗せて茶化し風味に言ってくる。
彼女は喧嘩をしているときも、怒っていることはあっても悲しみや憎しみのようなどろりとした感情は見せてこない。
このエカトリアは、明確に悪意をもって彼に負の感情をぶつけてきている。本人だったらあり得ない。
けれどひょっとすると、あり得ないとティアが思っていただけで、彼女にもそういった面はあったのかもしれない。彼女が彼に見せなかっただけなのかもしれない。
どちらにせよ、とティアは静かに、改めて目の前の美しい雌竜を見る。
お手本のような竜。幼い頃から彼の先を歩き、どの竜からも好意的な言葉しか言われずに育ってきた彼女。
ゆっくり頭を振ってから、最初はどこか慈しみにも満ちた声で語りかける。
「大空の申し子。お前がまぶしかったよ。ああそうさ。うらやましくて、ねたましかったよ、エカトリア。お前と一緒にいるとみじめだった。あの頃は馬鹿だったから、そんなこと考えもしなかったけど、きっとそう感じる心はどこかにあったよ。だけど同時に、何かが違うと思っていた。あの時、この場所で言ったよな。俺はきっと、もとからどこかおかしい竜だった。父さんと同じように」
徐々に徐々に、穏やかな言葉に激しく強い感情がまざり始める。
エカトリアが威嚇に牙をむきだした。ティアは退かない。
「……でも、それでいいって言ってくれるヒトがいた。ただ、一つ勘違いするなよ。乗り換えた? うぬぼれるな。その意味では、お前は最初から俺に選ばれてさえなかった。俺が選んで選ばれたのは、心揺さぶられたのは、生涯ただ一人だ!」
青い竜は怒って飛びかかってくる。
しかし成長した姿の彼は何の心配もなく彼女を突き飛ばし、倒れた身体に手をかけてうなる。
「竜として完璧である事で、望む存在に愛されないのなら、俺はどこまでも、欠陥品でいい! 欠陥品でもリリアナが愛してくれるなら、それでいい!」
高らかな宣言に、エカトリアが悲鳴を――今度は明確な悲鳴を上げた!
巻き上がる突風に、強くなるノイズ、頭の中の痛みは増していくばかり、ひょっとしたら耳から血が流れているのも錯覚ではないかもしれない。
なのに心には余裕が増えていくばかりだ。
攻勢が強まっている一方で、エデルは確実に消耗しているのだという確信があった。
何人もの知り合いが現れては、思い思いに彼を罵倒する。
彼の欠点をあげつらね、彼の短所を糾弾する。
彼の異質である所を指摘し、彼がいかに間違えているか、理論で、感情で、責め立ててくる。
そのすべてに言葉で、時に力で返してから、ティアは何人目かのぼやける影に向かって怒鳴った。
「いい加減にしろ! 俺を本当に殺すつもりなら、俺を本当に傷つけたいのなら、この場でお前が化けるべきなのはたった一人だろう、エデル!」
ぐにゃんとまがった影が、挑発に応えるように金色の光を放ち、見覚えのあるシルエットを取ろうとして――。
そして、ばらけた。
悲痛な叫び声をあげながら、影が、景色が、割れて飛び散ったのだ。
突然の自爆のような状況に、唖然としそうになるティアだが、何ものかが彼にささやきかける。
――今!
はっとした。
霧がかかっていたようなおぼろげな周囲の映像がくっきりとし、彼は青空の下、円形の決闘場に竜の姿のまま立ち尽くしている。
目の前に、顔を両手で覆って絶叫しているエデルがいた。
彼のローブの端からは、変形を保てなくなった無数の触手がもれ出てのたくり、逃げ場を探すように暴れている。触手からは霧かもや、あるいは煙のような黒い影がゆらりゆらりと巻き上がり、エデルの周囲にただよっている。
ティアは迷わなかった。
ぐっと身体を曲げて筋肉に力を入れてから、ジャンプし、飛びかかる。
押し倒される形になったエデルが抵抗のように触手を伸ばし、絡みつけてくる。
黒い影にティアも飲み込まれ、虹色の光がせわしなく何度も発光する。
だが、黒もやに包まれていくティアが感じたのは、エデルが初めて見せる動揺だった。
「やめろ!」
死に物狂いで抵抗する触手の一つが急に鋭く変形し、なんとティアの硬い鱗を突き破って胸部に突き立てられる。じゅわっと音がした。溶解液をはき出しながら突いたのかもしれない。
しかしその一瞬前に、ティアの口はエデルの頭をとらえている。
顎が噛み合わさる感覚とともに、ぐじゅりと何かが潰れる音が鳴り響く。
途端、ティアは濁流の中に、激しくまわる渦の中に引っ張られる。
突き刺されたせいなのか、踏みとどまろうとしても抵抗がうまくいかない。
それは様々な映像を、幻覚を見せた後、一つの収束点に向かっていく。
激しい光のまたたきの直後、真逆の闇が訪れ、それから痛いほどの沈黙を経てから。
彼は、一つの生命が誕生する瞬間に。
誰かの記憶の中に、自分が巻き込まれているのを感じた。




