塔での決闘 7
そのとき彼は、本当の意味で「怒った」のだろう。
ぶつぶつぶつんと何本も太い管が損傷する音がどこか遠くで断続的に鳴り響き、波のように音を立てながら全身をめぐる血液が濁流となって身体の中をうごめくのを感じる。
身体が熱くなるのと同時に冷えていくような、異様な矛盾感覚。
じっとこらえていた感情が爆発する瞬間を表す表現の一つに、「堪忍袋の緒が切れる」というものがある。
あるいは、突発的、瞬間的に発作のような激しい怒りが生じることを、ヒトは「キレる」と表現する。
確かに、これはそういうものだ。身体のあちらこちらが、感覚が、知覚が、一度完全に切り取られていく。
先ほどの義憤に近いものとは明らかに別種類のそれは、むき出しの感情というものなのかもしれない。
腹の辺りでとぐろを、渦をまき、牙の隙間からもれていく。
ただ、私怨と呼びきれるほどどろりとしてもいない。
熱であり炎。叫びだがどこか祈りにも似ている。
言うなれば、彼のそれは「愛している」という叫びだった。
愛するものを傷つける存在を、絶対に許さない。
そういう魂のふるえが、ゆさぶりが、彼の怒りの本質だった。
包まれて分離した身体は再構成されていき、五感すらも変わっていく。
景色から色が抜け落ちていく。
音がひきのばされて低くなる。
すべての感覚が切り取られてばらされていく。
世界が遅くなる。
いや、世界を置いてティアの方が速くなっているのかもしれない。
モノクロの光景の中、ティアの目は妙にのんびりと動く敵影を確認する。
いや、よく見れば、吠え声におののくように羽ばたいている。
ティアの様子の変化に、目に見えて変わっている身体の様子に異常を感じ、前よりは余裕がなくなっているようだった。
奴の口がゆっくりと動く。
ソ・レ・ハ・ナ・ン・ダ――?
ティアの主観からは見えていないが、彼の身体は淡い金の光を帯び、角や爪、翼、牙の形に至るまでより鋭く凶悪な形に変化していく。
竜は感情で奇跡を起こす生き物だ。
彼の身体はそのまばゆいばかりの感情に応えようとして、その結果の変化だった。
新しい身体が見せるモノクロの世界では、奴の自慢の虹色もただちかちかと光るだけの白点に過ぎない。
その一番目立つ部分にむかって、深く息を吸い込み、まずは続けざまに高エネルギーの塊であるブレスを吐き出す。
一発、二発、三発――少なくとも十発以上は撃ったように思う。
一息ではき出せるありったけの数を、全弾相手に放ってやった。
目。角。翼。
空中で竜とやり合い、本気で相手を害そうと考えているのなら狙う部位はその辺りだ。
だからティアは特に集中的にその三点を狙うようにする。
しかし、顔はちょっとしたことですぐに動かせるし、目も角もそこまで大きい的ではない。静止状態では比較的大きい翼も、動きがついて羽ばたいている時は当たりにくい。
ティアは、翼の付け根の辺りと――それからあえて、その下の胴体にも照準を定めた。
続けざまに撃たれたブレスは先ほどよりも素早く、数も多く、威力も高い。
避けようとして間に合わず、数発被弾した相手が苦悶の叫び声を上げてもがく。
特に翼の付け根に入った一撃が大きかったのだろう。
羽ばたいているのは片方だけ、もう片方は不格好に曲がったまま動かなくなっている。
この機を逃さない。長命種の、竜の身体は衰弱状態でもない限り放っておけばすぐ再生してしまう。
空中で煙を上げながらぐらりと体勢を崩す相手に向かって。一直線にぐんと近づく。
翼の一羽ばたきで移動できる距離がこんなにも長い。
たったの三回翼を動かしただけで、エデルの真上に躍り出る。
相手の上で大きく翼を広げたティアに向かって、エデルが口を開く。口の中が光っていた。
そのブレスが放たれる前に、ティアは素早く身体を折りつつ首を伸ばし、相手ののど元にかみつく。
頭の上でエネルギー砲が放たれた気配がしたが、直撃しなければどうということもない。
ティアは首がそこまで長い方の竜ではないので、のど元をかんでしまえば相手が首を曲げてかみつき返してくるような心配もない。
ティアの硬い鱗を模した身体は、偽物とはいえ頑丈だった。
食い込む感覚はしたものの、かみ砕くには至らない。
ただ、絞まって苦しくはあるのだろう。
エデルは暴れてティアを振り落とそうとしてくる。
鋭い爪がガリガリと鱗をひっかく音に、尾が巻き付いてくる感覚。
だがティアはそれらにかまわなかった。
吠え声をあげる相手ののど笛をしっかり確保したまま、上から飛びかかった勢いと重力を利用して、下へ下へとエデルを押し込む。
目指すのは、空に浮かぶ円形の決闘場。
その中央部の、結晶。
ようやくティアの意図を悟ったのだろう。一際醜いうなり声を上げながらエデルの身体がぐにゃりと変形する。竜形態をやめて逃れようとしているのだ。
しかし、ティアの硬くがっちり閉ざされたままの顎はエデルが形を変えたところで彼の一部を離さなかった。
また、相手に組み付いて絞め落とそうとしっかり絡みついていた分、エデルの身体はティアから離れるのが遅れた。
一瞬の判断のミス。
ティアはリリアナを覆う、硬く鋭い結晶の一つにエデルの身体をたたき込む。
青い血しぶきが上がり、相手が絶叫した。
狙い通り、結晶のちょうど一番とがった部分に、エデルの胴体部分を串刺しにすることに成功したのだ。
竜型から逃れようと中途半端に変化を解除したせいでエデルの身体は軟体動物のようにぐにゃぐにゃと曲がって気持ち悪い。
だが、ごぼりごぼりと青い液体を何度も吐き出す様子に、ティアは自分の成功を確信した。
胴部分を狙ったのは、単に当たりが大きいからということだけにとどまらない。
モノクロ世界のティアの目には、エデルの胴体の一部、ちょうど腹の奥、へその下辺りに不自然な光がちらつくのを感知していた。
目ならともかくなぜそこが? さっきまでは見えていなかったのに。
不審を抱いた彼は、ふと思考しがてら思い当たる。
ナイトメアの急所は、身体の中の核。
核は彼らの心臓のようなものであり、他の場所よりも濃く魔力が集まっている部分だ。
ここか。
直感したティアは、その謎の光に届くように攻撃をしようと決めた。
エネルギー弾が届かない事を悟った時点で、目に入ってきたのがリリアナの残してくれた武器だ。
極限まで集中力の高まったティアは、エデルの一番強く光っている部分を貫くことだけ意識した。
そして彼は、賭けに勝ったのだ。
ティアの主観では先ほど撃ったのとあまり大差ない時間感覚だが、現実時間にするとほんの数秒の出来事であった。
それだけの速さで動いたからこそ、エデルもろくな反撃ができなかったのだろう。
少し離れた場所で息を荒げながらもがくエデルを見つめていると、急速に辺りの動く物の速さが増し、耳の奥がきいんと痛くなるような感じと、身体の中の炎の力が弱まっていくようなイメージが訪れる。
はっと気がついたとき、彼の身体はどうやら元通りになっていた。
世界はカラフルだし、音は普通に聞こえるし、ちらっと点検した自分の身体も知ったとおりの形のままだ。
ただ一つ、体中を倦怠感のようなものが襲っている。
なんとなく身体が重い。
さすがに力を消耗したのかもしれない。
肩で息をしていたティアだが、不穏な音が聞こえたので再び身構える。
半透明なスライムの本性に戻ったエデルが震えながら何かの形を取ろうとしているようだった。
ごぼごぼと聞き苦しい音を立てながら、やがてスライムは立ち上がり、ヒトの姿になる。
現れたのはいつかの時に向かい合った、顔面の半分が溶けているが美形の、フード付きのローブを着た人物だった。
胸の辺りを押さえ、血走った目でティアをにらみながらエデルは呪詛のような言葉を血とともにはき出す。
「こんな、この程度で、くそっ――僕は負けない――負けてたまるか――」
虹色の目が射ぬいてくる。身体が硬直し、瞬きができなくなる。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる――エデルはそれでしか、これしか、父さんに価値を示せない――僕は負けない、負けられない。ヒトを殺す、殺し尽くす! エデルはそのためだけに生まれてきたんだから!」
しぼり出すような叫びに、ティアは思わず目を見開いた。
ああ、俺は。
この目を、この感情を、とてもよく知っている。
幼くて愚かで純粋なまでに誰かを慕う、一途の化け物。
(ななは、パパがすきなの)
「父さん、愛してる――だから、僕は!」
無刺激な暗闇世界に引きずり込まれていく、その感覚すらも等しくて。
いつかの時と同じ予感に、身体が大きくぶるりと震えた。




