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黒龍

 ある者は光を感じた。目を開けていられないほどのまばゆさ。一瞬だけ輝いてすぐに消える。

 ある者は音を感じた。一度すべてを吸い込むような不気味な静寂、その直後に力強い羽ばたき――それも大きな生き物が動いているような音。それから地に響くようなうなり声。

 ある者は風を感じた。裏付けるようにぶわりと周辺の軽くて固定されていないような物が浮き上がる。これがもし地上だったら砂煙のように周囲の物を巻き上げていたことだろう。


 ある者はそれらが総合した結果、一人の男の消失を感じた。

 彼は先ほど、なぜかヒトビトの群れを押しのけ、服を脱ぎながら昇降機通路エレベーターホールまで走ってきたのだ。客観的に言うならわかりやすい不審者である。二本の角に、顔の両頬や身体にある入れ墨のような傷、それから鱗のついているらしい耳。

 心あたりがない者は、魔人と獣人双方の特徴を持っているそれを、混血児である半化けの一種だろうかと首をかしげる。これらの特徴が竜種特有のものであると知っているものには、それだけで男がこの場には珍しい部類の存在であることがわかる。

 さらに察しのいいものなら、彼の種族を知った時点で、男が何をしようとしているのか、あるいは気がつくことができたかもしれない。が、スムーズにその発想にたどり着くにはとあるヒト種の常識が邪魔をする。


 その場にいたほとんどのヒト種は、実際にその姿を見るまで理解が追いつかなかったことだろう。いや、目にしてもなお現実を受け入れがたかった。


 円形の昇降機通路エレベーターホールに、黒い影が羽ばたいている。複数ある昇降機がぶつからないよう、幅広になっている上下吹き抜けの通路だが、翼をめいっぱい広げて羽ばたこうとする生き物からするといささか狭いようにも見える。何しろ実際の身体もかなり太くたくましくがっしりしているが、広げた翼はその3倍はあろうかという大きさなのだ。



 それを一言で表現するなら夜であり闇である。

 夜闇色。何者にも染まらぬ孤高の色。黒とはこのようなものであったのか。かの生き物を目の当たりにすればヒトはそのように思わざるを得ない。


 身体の鱗はなめらかな黒。動きがある度にそれに合わせて磨き上げた宝石のように輝きがうつろう。体中、入れ墨のように広がる固有模様は血のような赤。両頬にある稲妻のような模様が一番特徴的で、それを見ればこの生き物が先ほど全裸になってホールにたたずんでた男の面影を宿すことに気がつくかも知れない。

 広げた翼もまた黒く、鋼のごとく。角は二本、まっすぐぴんと上向きに生え、本人の愚直な気質を表しているようにも思える。顎は太く頑丈そうで頑固な意志をうかがわせ、唸る口から見える牙はどれも鋭い。

 瞳の色は少々独特だ。何と言うことはない赤色に金色を帯びた結果、非常に鮮やかな夕焼けに似ている。不気味にも思えるのになぜか目が離せない。

 全体のシルエットは、雄の竜特有の太くて角張ったところが目立つが、それでいて若い竜のしなやかな線も持ち合わせている。スタンダードだが過不足がなくバランスが良い。身体は四つ足体型より二足体型に近いが、腕もそれなりにしっかりしており、爪の鋭さなどから引き裂かれればただでは済まないであろうことがうかがえる。太い両足の先に伸びる尻尾もまた長く力強く、鞭のようにひゅんとしなる。

 だが強靱な身体よりもさらに真っ先に目が惹きつけられるのは、背中で羽ばたく一対の竜翼であり、この竜は地を這うのでなく飛ぶことで完成するのだと一目でわかる飛竜タイプである。


 これは現実だろうか? 思わず観衆は自らの目の方を疑ってしまう。

 なぜなら竜とはかくあるべきであると誰もが考える、お手本のような理想がそこにいるからだ。幻を疑うほどに、その黒龍は完璧だった。




 通信機の鳥越しに変化を見た関係者二名もまた例外ではない。

 ニコは言葉もなくただただ送られてくる映像に震えている。

 ヘイスティングズは大きく目を見開き、背中の翼の羽ばたきすら止まっていた。思わず彼の口から言葉が漏れる。


「見事だ……」


 生物的な本能がある種の敗北を悟る。しかしこの存在に賞賛の言葉をかけようといざ思うと、飾れば飾るほどどれも陳腐に思える。シンプルな表現こそ一番彼にふさわしい。だからこそ一言しか出てこない。


 ヘイスティングズは同時にこのときこそ理解した。

 かの金色の女王の隣に立つ男とは、この存在を越えるようなものでなければならない。すなわち不可能ということである。これほどにまで素晴らしい竜を越えられるような生き物がいるとは思えない。いかな魔人種よりこの竜の方が勝っている。


 ――リリアナ=デビ=サタン、次期魔王は、これ以上ないほどふさわしい伴侶を選んだのかもしれない。


 呆然とするヘイスティングズが通信機越しに見守る中、黒龍はその場の空中でとどまるようにゆっくりと羽ばたいていたが、一度ぐぐっと翼をたわめて緊張させたかと思うと、上昇を開始する。


 黒い影は時折途中の昇降機を軽やかにかわしながら、上へ上へと向かっていってしまったようだった。


「シーグフリードさん!」


 消えていく黒影に向かってニコが叫ぶ声に触発されたように、弟子の本性を初めて目の当たりにして硬直していたヘイスティングズもまた、混乱でざわめいているヒトビトの中で動き出した。


「ニコ、無駄だ。通信機をこっちまで戻そう。奴はもう止まらない。呼びかけても徒労に終る」

「でも、でも、シーグフリードさん飛んでっちゃったっす、今は間違いなく外壁閉ざされてるっすし、外だってたぶん嵐なのに――」

「あれがそのぐらいで止まる男だと思うか? まして頭に血が上っている状態で。止めるだけ無駄だ、かえって被害が出る。好きにさせておけ。我々には我々のルートがある」


 彼は短命種に控えめに、けれど有無を言わせぬ響きで指示するとともに、素早く荷物を漁ると手元にずらりと通信器具を並べ、同時に操作を開始する。


「それより、お前は至急殿下に――いや、子羊達の誰かに連絡を取れ。一番望ましいのはセオドア=ヒューズとつながることだが、無理なら別の誰かでかまわん。スペンサーだったか? あの真面目な実務担当辺りに連絡が取れればベストかもしれない」

「えっ――えっと、あの、そ、そうっすね! 最初に殿下に連絡を、シーグフリードさんを止められるとしたら殿下しかっ――」

「落ち着け、短命種。よく考えろ。あれがああなったということは、そっちは十中八九応答がない。だから彼女に直接ではなく、部下の方から状況を確認するんだ。いいな。急げ――やあ、そちらはラーヴィリングス局の管理部で合っているかな? お忙しいところ失敬、私はバートランド=ヘイスティングズ。王城近衛官、黄薔薇騎士団長とも言う。――いや、違うよ、今回はオフで来ていた。ただ、これから、あるいは現在進行形で起こっている問題に対してちょっとお話がしたくてね。単刀直入に聞くが隔壁はどうなっている? ……ああやっぱり間に合わないな。忠告しておくがその化け物は通過させておいた方がいい。妨げるとそっちの被害が出るだけだから。うん、うん、いいよ、こちらは大丈夫だ。はは、担当探しも大変だな。少し待とう――ニコ、どうだ? うまくいきそうか?」


 いつにない早口でニコに言いつけたヘイスティングズは、その延長でどうやら地下都市の管理部に連絡を取り、さらに向こうとのやりとりの合間、隙間時間にさっと通信機を遠ざけてはニコの方の様子も聞いてくる。

 淡々と一連の事をこなす真面目モードの団長に、最初はあんぐり口を開けて見守っていただけのニコだったが、再度促されるとこちらも慌てて行動を開始する。持たされた魔術石版を起動し、連絡先を探して素早く文字を打ち込み始める。

 彼らの長い一日はまだ始まったばかりだった。






 円形のホールを一直線に上に向かって飛んでいく。途中にある障害物を避けることなんか、エカトリアと空中で戯れ合っていた彼にとっては目をつぶっていてもできることだ。どよめきの中を飛び、やがて前方に見えてくるのは行き止まりの天井。昇降機通路エレベーターホールは通常地下1階まで運行しており、天候が良好な場合はさらに地上まで通じている。現在は魔力停止という異常事態に加えて、地上部分に嵐が接近しているらしく安全のため封鎖されている。


 彼は堅牢な隔壁をにらみつけつつ、羽ばたきながらがばりと口を開け、思いっきり息を吸う。

 吐き出したのは灼熱の炎の塊。黒龍の口から放たれた圧倒的な熱は一気に天井を焼き切り、やや鈍い日の光が、不穏な雲行きの空が開いた穴から差し込んでくる。

 ヒトビトは衝撃に備えて息を呑み、あるいは悲鳴を上げた。しかし構えた彼らにいつまで経ってもなにも訪れない。外の風が吹き込んでくる気配すらないのだ。

 おそるおそる見上げた彼らは絶句する。


 既に穴から地上部分へ飛び出した黒龍はあっという間に遠ざかって今や小さな黒点となっている。その彼が通っていった大穴が、彼に破壊された隔壁が、みるみるうちにびしびしと音を立てながら、まるで巻き戻しでもされているように直っていく。

 どうやら防御装置と修復装置がうまく作動してくれたようだ。地下に大穴が空いた割にほぼ被害がなくて良かった。しかし今のは一体なんだったんだろう。


 おおかたがそのように胸をなで下ろし、首をかしげている一方、声を失う者がいる。

 彼らは知っている。確かに地下都市には自動で作動する防御術や修復術も施されている。

 だが、それらは一度あの竜のブレスによって完全に破壊されていた。彼は最短のための道を開き、それでいて周囲に害が及ばないように魔法を張り巡らせ、最後に元通りにしてから飛んでいった。


 一体どれほどの魔力があれば、そしてその制御が可能であれば、瞬時にそのような事が成し遂げられるというのか。震えながら空を探しても、既に飛び去った後らしく、西部のどこにももう黒い影は見当たらなかった。


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