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大嵐 前編

 翼を思う存分広げ、高い空の冷たく澄んだ空気を思い切り吸い込むと、全身の鱗がぶわりと逆立ち、歓喜の声を上げている。抑圧された自我の解放感は、久々の竜型に対する感覚の戸惑いをはるかに上回った。身体の構造から大きさ、感覚器官から届く情報の受け取り方まで、何もかもが変わる。それでもこちらの姿の方がすぐになじんでしっくりと収まっていくような、そんな気がするのだ。


 本性に戻るということは、獣である、竜であるということはこんなにも心地よいものだったのか。

 ずっとヒトの鋳型の中で押し込められるように過ごしてきたティアだからこそわかる、圧倒的な自由の喜びである。

 やはり彼が常に過ごしている場は、常にこうであろうと努めているあり方は本来の物から逸脱したいびつな形であるのだ。

 おかえり、おかえり、おかえり。

 取り巻くすべてが彼のことを歓迎している。ここには邪魔な服も、うるさいヒトの群れも何もない。静かだった。風を切って羽ばたく躍動の音だけがどこまでも空に吸い込まれていく。


 ヒトの姿に慣れ、過ごしていてもやはり彼の本質は飛竜。四つの脚と二つの翼を持ち、自由に空を羽ばたくこそが本分。



 が、久々に元の姿に戻ったからと言って、楽しくテンションを上げているだけでもいられない。そもそも何のために竜型になったのか? 遊びではないのだ。

 ティアの冷静な思考は、そのままどこまでも高く飛んで行ってしまいそうになる身体も心もなだめ、現実に、自分に引き戻す。ピンと立てた耳がとらえる音は、彼が動く音と、いくつかの不穏な自然現象の前触れ。どこまでも広がっている雲の上はとても静かだった。

 しかしティアは実際の音を聞こうとしているのではない。耳の奥側でピンと立つセンサー、第六感を働かせようとしているのだった。



 地下都市で魔力停止が起きた直前から、彼の頭の奥ではずっと警鐘が鳴り響き続けている。


 リリアナが、危ない。

 本能というか感覚というか、とにかく彼の中のどこかからそういうふうに情報が回ってきているのだ。


 勘と言ってしまえばそれまでだ。そのときはただ、馬鹿な竜が馬鹿なことをしただけで済む。

 だがティアにはなんとも言えない嫌な予感があった。思えば少し前からずっと予感を覚え続けていた。何か嫌なことが起こる。もうすぐ、必ず。




 ふと脳裏に浮かぶのは、青い液体を飛び散らしながら果てていく幼い人外の姿である。


(なな、は――パパの、こ――パパのため、に――し、ぬ――)


 満足そうに、心の底から幸せそうに消えていった。その幻影を、頭を振って振り払おうとする。


 なぜ今、あの時の事が? そんな場合じゃない、忙しいんだから――。


 しかしそんな風に思ってしまおうとした直後、ふとひらめいた。


 逆なんじゃないか? 今だからこそ、思い出したと考えれば。


 そもそも、ずっと疑問に思っていた。なぜ邪眼は、あんなにあっさり負けたのか。

 さらにそれを裏付けるかのようだったのは、あの幼体の最期の様子だ。親が絶対だと言うのなら、なぜあれは幸せだと言い切ったのか? 既に死んでいる親に向かって?


 瀕死だったし、あいつらは明らかにおかしかった。だから、そういう物なのかと思った。そういう哀れな生き物なんだ、で一括してしまっていた。

 ――でも。もしあの個体が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それこそ本人の語ったとおり、目的は果たされたんだとしたら?


 思考はもう一つの回想の情景を導き出す。明らかに関係者でいながら黙秘の多い男は、それでも彼が根気よく尋ね続けるといくつかの答えを残した。


(暇つぶし。そう言ったんでしょう、あれは。だから、そういうことですよ)

(別に近衛と遊ぶことはどうでも良かったんじゃないかな。他に目的があったんだから)



 頭を雷で打たれたような強い衝撃が身体に駆け抜ける。

 いやまさか、そんな。打ち消そうとするのはあまりに浮かんだ考えがおぞましいからだ。



 仮に邪眼があの時、襲撃による殺戮を目的としていなかったのなら、なぜあそこまで派手に暴れなければならなかったのか? その場で急造した息子達を使って、少しの犠牲者は出せてもすぐに鎮圧できる無意味なテロなんか起こして、何がしたかったのか?

 ――陽動。

 そう、思えばあの時の一連の事件は、あまりにわざとらしすぎたのだ。肝心の本人と戦闘をした騎士達が、死者なく負傷程度で済まされて帰ってこられた理由を、単なる戦力差という言葉で片付けるのでなく、もっと考えるべきではなかったか。

 ――大量殺人鬼のイメージは、邪眼が常に殺戮を目的としているような考えを、無意識レベルで与え続けてきた。

 殺戮が目的でなかったのなら、なぜ邪眼はあの時城に侵入しなければならなかったのか。

 本当は何を必要として潜り込んでいたのか。

 あの虹色の目は、一体何を、誰を、最初から見ていたのか。

 ――今回の目覚めの生け贄に。



 全身が悪寒で震える。

 なぜもっと早く思いつけなかった? 人型になっていたせいで感覚が鈍っていたとでも言うのか?


 やっぱり、終わっていなかった。あの程度で終わるはずがなかった。




 明確に目標が、敵の輪郭が浮かび上がったことで彼は自分の感覚がさらに研ぎ澄まされていくのを感じる。

 目標の位置をおぼろげに割り出したところで、彼は思う。



 遠い。



 ピンと伸ばしていた翼をたわめる。魔法を使おうと思うと、角と喉、それから背を通って翼が熱を帯びるような感じがする。


(角と翼は魔力制御器官だ。この辺りに意識を集中するようにすると、魔法も魔術もうまくいく)


 彼のアドバイザーがかつて言っていたことがよみがえる。


(それから竜の場合は喉。ブレスって言って、お前達は吐く息で魔法を起こすことができるし、息に魔法を込めることもできる。火を吐き出したり出来るのはそういうわけなんだぞ)


 大気中の薄い空気を思いっきり吸い込み、彼は彼女の言っていた通りの場所に力を込めるように念じる。

 それから自分の前方に向かって思いっきり吐き出す。彼の口からあふれ出た魔法の粒子は門を作り、空間をゆがめる。



 自由空間移動。

 超高位魔法と言われていたそれだが、使い方なら本能で知っていた。使いこなせるという自信もなぜかふんだんにあった。



 ぐわんと青と白の光景が溶ける。ワープ中の情景を描写するのは難しい。基本的に時空の狭間とかワープゾーンだとか呼ばれている場所を構成している物はやはり闇だと思う。その中を飛ぶと粒子がちかちか舞っているように見える。激しく舞い散る雪に少し似ているが、雪と異なるのは粒子が七色に輝くことだろうか。

 それから周囲にぼんやりいろいろな場所の光景が見えて、その中を目的地を探して飛んでいくのだ。こうやって言葉にすると、竜型になって空を飛んでいることとそこまで大差ない気がする――。




 ガツン!




 突如思考を止め、襲いかかったのは衝撃。彼は自分が飛び込もうとした光景から弾かれたと感じた。身体が狭間から投げ出され、落ちていく。彼はぐるぐると身体が旋回しながら落ちていくのを察知した瞬間、翼に力を込めて広げた。間一髪、地面にたたきつけられそうになっていた身体は危うく揺れながらもなんとか空に戻る。

 心臓がうるさい。何が起きた? ガンガンとなる頭をなだめながら周囲を見回すと、先ほどまで飛んでいた西部とは違う場所に来られた――つまり一応空間転移はできたらしい、ということは把握する。


 ここはどこだろう。見渡す限り広がる光景は荒れ地だ。竜巻が発生しやすい地方の特徴上、地表に建物の少なかったラーヴィリングスよりもさらに殺風景な眺めが広がっている。ヒトの気配は全く感じられない。むしろ生き物が見当たらない。右を見ても左を見ても、草木もないごつごつとした岩、崖と絶壁が広がるだけのさみしい土地。


 一通り見渡したところで、ああ、とティアは自分の口から息のような声のようなものが漏れ出たのを感じる。


 ぴりりと乾燥した空気。生命を拒む大地。耳の奥に残る残響。嵐の中に出ていく彼女――。


 ここは、北部だ。

 彼は今、自分がかつての生まれ故郷まで飛んできたのだと理解した。


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