疾走
「ちょっ――シーグフリードさん!?」
ニコが事態の把握に手間取っている間も、なんだなんだとどよめいているヒトビトを、相手が怪我をしない最大限の配慮でもってかき分けながら、ティアは一目散に走る。
「あっ、そんな駄目っす、待つっす! ――そっ、そうだ、だ、団長さん! 団長さん! ヘイスティングズさん! どこにいるっすかあ!」
後ろでニコが慌てふためいている音が聞こえるが、それにかまってはいられなかった。
(待てるわけがない! 外へ、外へ、外へ!)
身体は熱い。駆り立てる衝動のまま走るが、頭のどこか片隅では冷静な部分もある。
(気をつけろ。やり過ぎては駄目だ)
彼の理性は訴えかける。それが気を抜けばはじけ飛びそうになっている身体の勢いを収めていた。身体は移動を続けるとともに、頭の中では素早くマッピングを行い、地下から地上に抜けるルートを今までヘイスティングズ達と一緒に歩いてきた過去の経験などを思い出しながら割り出している。飛行種の空間把握力は総じて高い。普段は眠っているすべての力が呼び覚まされ、総動員される。
地表へのルート。幸か不幸かここはヒトがいるとはいえ開けた場所だ。迷路だったら最短距離を走るために早速壁が犠牲になっていたかも知れない。
被害は最小限にしなければならない。ヒトは駄目だ。ヒト死にだけは絶対に避けなければならない。
最悪、建物なら壊しても大丈夫。修繕すればどうということはない。ただしここは地下だ。地上の建物より、倒壊には気をつけなければならないかもしれない。
確かこの広間から行ける場所は大きく四カ所。どこが一番早く地上に行ける? 階段?
昇降機通路なら、空いている。
結果として彼の頭は素早く一つの答えを導き、ティアは正面に向かって走っていた身体をぐりんと右に向ける。
その拍子――当然と言えば当然の反応だろう。誰かが力強く身体を押されたせいだろうか、悪態をつき、ほぼ突き飛ばすような勢いだった子竜に向かって拳を振り上げる。しかしおそらくその人物は、若い雄の竜人の血走った目にまともに射貫かれたせいで、瞬時に黙り込んでしまった。
一瞥したのはほんのわずか。些事にはかまっていられない。
急かす本能。なだめる理性。二つの考えは頭の中で巡り続ける。
(急げ。でも焦り過ぎちゃだめだ。加減を忘れるな。騒ぎが大きくなると、余計面倒になる)
――面倒。
(どんな状況になろうとも。民間人に死傷者を出しては絶対に駄目だ。まともな職業についているヒト種なら常識。非常事態でなければ戦闘、および戦闘に準ずる力の行使は認められない。つまり今ここでリミッターを解除してはいけない。巻き添えが出る)
――非常事態。
(犯罪現場に居合わせたとき。災害に居合わせたとき。つまり公共の場が著しく乱された場合と、誰かの安全が妨げられたとき)
――安全。
安全が妨げられている。
行かなくてはならない。
自分は彼女の竜だから。
かっと目を見開くと、彼の勢いに気圧されたせいだろうか。いつの間にか進行方向のヒトの群れが左右に割れ、道のようなものができている。前傾姿勢を深めてますます走る速度を上げた。
「ああもうっ、なんでこんな――すんません、すんません、通してくださいっす! 誰か止めて――いや止めたら怪我するっすから避けててもいいっすむしろ避けてて、でもおれっちそのヒトの関係者なんで通してくださいっす! 本当ごめんなさいっす、謝罪は後でするっすから、とりあえずおれっちを通してくださいっす――ああくっそなんでいなくなっちゃってるっすかヘイスティングズさん、長命種の肉体派相手にかけっこ勝負とか無理に決まってるじゃないっすかぁ!」
後ろでどたばたと追いかけてくる音が聞こえる気もするが、ティアは前に進み続ける。ヒトビトのどよめきはどこか遠い。彼の胸の奥で彼を急かす心臓の音がとても近く聞こえる。
ホールを抜け、大廊下に来ると未だ事態を把握していないヒトビトが猛然と走ってくる彼に向かっていぶかしげな顔をする。
(邪魔だ、どけ!)
ティアが唸りながらそう考えると、ぶわりと彼の周りにたちまち風のようなものが巻き起こる。見えない空気の圧はヒトビトを押しのけ、再び道を作る。先ほどよりさらに大きく広い道を駆け抜けるティアは、遙か先に目的地の昇降機通路を見つけると、走っていた姿勢を多少変える。
ふと思いつくことがあって、彼は自分の服に手をかけた。困惑している周囲に、さらに激しい動揺が、一部では悲鳴すら上がった
なぜなら子竜は、走りながら自分の服を脱ぎ捨て始めたからである。
「え? ちょ――はあああああ、嘘でしょぉ!?」
ニコが絶叫している声が聞こえるが、やっぱり子竜は止まらない。上半身はあっという間にあらわになった。下半身は走っている都合上ズボンが未だ死守されているが、謎の器用さが発揮された結果ブーツはどこかに脱ぎ捨てられてきているらしい。
「やめるっす! 何とち狂ってんだこの変態、マジで洒落にならないからやめろっつーに!」
全力で叫ぶニコの悲鳴はすべて黙殺される。
あ。そういえば、荷物。
一瞬そんなことも頭の中をよぎりかけたが、彼は頭を振った。
――それは、後でどうとでもなる!
迷いなく走ってきたおかげか、ついに複数の昇降機が上り下りをする場までたどり着く。昇降機とはおおざっぱに言うと角錐を逆さにしたような形をしており、四角の部分にヒトを乗せて魔力によって上下移動する、ハイテクノロジーな魔術装置だ。
昇降機を動かすために上下に縦長の、吹き抜けの空間になっているホールは、遙か上の場所まで空間が続いており――見上げる先の天井さえ抜けてしまえば、地上に直通する。期待通りだ。やはりここを通っていくのが最短経路だろう。上下に突き抜けているのもあるが、何より複数の昇降機を通すために横幅も確保されていること――これが実はこの経路を通ろうと決めた決定打だった。
しかし今の地上面は嵐が発生しているはず。当然のごとく最上部は封鎖されているものと考えた方が良い。
ティアは思考をまとめ続けながらもいよいよズボンと下着を脱ぎ捨てる。これで正真正銘全裸である。
どよめき、今や彼から全力で離れていこうとする周囲をよそに吹き抜けの大きな穴部分をのぞき、安全柵から身を乗り出そうとした瞬間だった。
「止まれ、シーグフリード=ティア=テュフォン!」
とどろく声に、ティアは思わず反射的に振り替えった。
目を向けた先には、相変わらず割れている人垣と、ぱたぱた羽ばたく小鳥のような物が見える。
これも魔術道具の一種であり、通信機の一種だった。短命種のわりにニコの声がいつまでも頑張って追ってくるなと不思議に思っていた点の疑問が解消される。彼はおそらく早々に本人の追跡が不可能であることを悟り、荷物の中から素早く魔術通信機を取り出してティアを追わせ、呼びかけ続けていたのだろう。
そして、ニコと合流したヘイスティングズが通信機の向こうからティアに向かってどすのきいた声で呼びかけてきた。こんなところだろうか。
状況を理解したティアがじっと羽ばたく小鳥を見つめていると、真面目な時のトーンでヘイスティングズは静かに語りかけてくる。
「自分が何をしているか、本当は何をするべきか、わかっているな」
「はい」
「……休暇中だが、上官命令だ。戻ってこい。ついでに服を着ろ」
「できません」
ティアはきっぱりと答え、柵にかけている重心をずらす。
「本当にわかっているのか。お前の今やっていることは、お前が今までやってきたことを全部無に返すかも知れないことなんだぞ。道を見誤るな。何か事情があるのはわかっている。にしてもやり方がどう考えてもまずすぎる」
ニコのキャンキャン響いてきたものと違い、ヘイスティングズの呼びかけはあくまでたしなめるような、感情を抑制した淡々と言い聞かせるような調子である。言い方も感情に訴えかけると言うより、論理的にティアの間違えている部分を指摘しているような感じだ。
だが、ティアは笑った。自然に頬がゆるみ、彼の師父に、おそらく彼の深い理解者に言う。
「師父。俺は最初から、このことに関しては間違えてないつもりです。これだけは譲れない。絶対に」
無機質な鳥の向こう、滅多に心を乱れさせないヘイスティングズが目をみはった――そんな光景が見えた気がした。それを最後に、ティアは目を閉じて柵から身を乗り出す。
ふわりと風が巻き上がり、身体の内側から一気に強烈な光のようなものが広がって、ティアの全身を包み込む。どろりと輪郭が溶ける久々の感触の中、彼は強くそれだけを考えていた。
リリアナの所に行かなくちゃ。
彼が再び自らを鼓舞するように上げた声は既に獣のうなり声と化しており、地下の空気を鈍く大きくふるわせた。




