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ふたつ島  作者: すずりん
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五章 括弧の中身

 薄紅色にそよぐカーテンの後ろで、雨粒が控えめに窓を叩く。まばらについた雨粒は、いくつか寄り添い合うと、一筋の滝となってしだいに流れ出した。枝理はその音に、閉じたまぶたを薄く開くと、ミルク色の天井が映った。眼と鼻の奥で、ぐるぐると混濁した記憶。身体を半分起こすと、頭痛がした。


 ふと右手に、柔らかい感触がした。横を見ると、壁向きに桜が眠っていた。目を閉じて、すやすやと寝息を立てている。枝理は反対側を向いて、机に置いた蛍光灯の横にある、緑色の箱に目をやった。中身は見るまでもなく分かっていた。桜の花の押し花。


 外の雨音は、レコードを回した際に鳴るノイズにも似ていた。きのう桜に打ち明けた話、水槽、立入り禁止の看板。記憶はそれぞれ映像を彼女の脳に映し出した。目をこすり傍をみると、桜の控えめな胸が、呼吸に合わせて揺れているのが分かった。知りようのない、踏み入れることのできない蓋の中身は、とても近くて遠かった。


 桜の穏やかな寝顔を見て、枝理はまだ眠っていようと思った。彼女の背中に手を回すと、温かい体温が胸に触れた。うなじの匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。たまにいくつか思い出す匂いがあった。ふとした拍子に蘇ってくるものは、春に咲く花の匂いだったり、夏の海の匂いだったりした。枝理のまぶたがうとうとと落ちていく。冬の寒い季節、布団にくるまって、ひっついた体はとても温かかった。





 背中に体温を感じた桜が目を覚ますと、眼の前に白い壁が見えた。真っ白になった頭を少しずつ働かせて、現在の前後の記憶を脳で探ると、枝理の家に泊まっていたことに思い当たって、桜はふと、体にすこしばかり重みを感じた。手を胸の前に持ってくると、細い指があたった。


 後ろから腕を回されていることに気づく。それから首の後ろにも、温かい感触があった。枝理が後ろで、落ち着いた寝息を立てているのが分かった。彼女の呼吸のひとつひとつが、ぼんやりした頭を少しずつ鮮明にした。起き上がるのが躊躇われる。


 枝理の手をにぎり、静かにその手をずらすと、彼女を起こさないよう、静かに布団を出た。窓のハンガーにかけたコートを羽織り、指でカーテンをすこし開くと、そこから一筋の柔らかい日差しがぼんやり降りてきて、音もなく白い床の影を縁取った。透明な空気の中に浮かび上がった埃は、千の天使のようにふわふわと舞った。


 濡れた窓からはふたつの小島が見えた。それらは互いに寄り添いあって、雨に打たれながらも、うとうとと眠っているように思われた。カーテンを締めると、桜は床に置いた鞄から、煙草とライターをとり出して、コートのポケットに入れて部屋を出た。階段を下り、玄関で靴を履いて外に出ると、霧雨が地面を音もなく叩いていた。桜は屋下に立って、枝理の話を思い出していた。


 ──私たちが見てるはずの海も空も、書かれたある本のある頁に挟まれていて、浮かんでくるものだとしたら?


 外に吹く風は雨に濾されて柔らかく、火はいつも以上に高く背を伸ばして、煙は大きく空に舞った。桜は枝理の台詞をなぞりながら、ぼんやりと庭を眺めた。すると奇妙な違和感が、桜の頭にすっと降りてきた。それはまたたく間に、彼女の頭から全身にかけて、滑らかなビロードで撫でられるようにして広がった。どこか位相のずれた世界が網膜に映った気がして、桜はいちど指で目をこすると、思い直したように眼前の庭を眺めた。


 雨に濡れた草の花は、襞に水をしっとりと含んでいた。まるい水滴はぷくぷくと膨らんで、重みに耐え兼ねた先端が、雫をひとつ落とした。桜はそのわずかな一瞬を、うんと引き伸ばしたような感覚で見た。雫はゆるやかに、すうっと地面に降りていくと、透明なまるみをぷるりと震わせて、触れた部分から音もなく広がり、半分を越えたあたりで、かたちを崩して浸透した。崩れたかたちはもとに戻りようもなく、もはや雫は、そこにあったことさえ確かめようがなかった。草の花は、一定の間隔で落ちる雫に合わせて揺れ、地面に溜まった雨水は、いくつもの縦横の波となって、つるりとした光沢を帯びると、それぞれ微妙に向きを変えながら、低い方へと集まり、とめどない水の束を形成した。それらはひとつの小さな川となって、柵の隙間へと流れていた。


 灰がぽろりと落ちて、桜ははっと意識を指に戻した。さらさら鳴る雨の音が、いつの間にか耳に戻っていた。あらゆる色彩が、もとの奥ゆきのうちに再配置されていた。違和感はあとかたもなく消えて、庭の風景は、普段の様相を取り戻していた。


 いったいその一瞬のあいだに、なにが起きたのか。何が起こっていたのかに、桜が数瞬遅れて思いを巡らせた刹那、彼女の網膜の奥がチリッと痛んだ。鼻腔と目のあいだに、粘膜のようなものがじわりと広がり、桜はそれに耐えられなくなって、煙草の火を消した。吸殻を携帯の灰皿にしまい、彼女は部屋に戻ろうと踵を返した。





 桜が部屋に戻ると、枝理がベッドで上半身を起こして、寝起きに虚ろな目を浮かべていた。「起きてたんだ」という彼女の言葉に、桜は「外、雨降ってるみたいだった」と答えた。枝理は体を動かさずに、首だけ横に曲げて、窓に閉じたカーテンのほうを向いた。向いただけで、彼女は呆けているようだったので、桜は窓際まで行ってカーテンを開けた。


 雨の膜がガラスにのっぺりついて、窓からの景色は、焦点の定まらないカメラのように、輪郭をぼんやり薄めていた。雨は勢いを増していた。雨音は壁をつたって、室内にパラパラと薄く響いた。コートを脱いだ桜がハンガーにそれを掛けると、それまでつむじから煙のように意識を飛ばしていた枝理が、するどい鳶色の目を取り戻した。意識の煙がしゅるりと糸を引いたように頭蓋へ戻り、枝理は両目を細めて部屋をぐるりと見渡した。彼女の目は、桜の着ていたコートに止まった。


「……ねえ桜、あんた外でなにしてた?」


 とがめるような枝理の視線を横目に、桜がいたって平静な声音で「眠気を覚ましてた」と言った。


 枝理はすっくと立ち上がると、素足のまま床をぺたぺた踏んで、桜に近づいていった。枝理は気難しい顔を、桜の顔前に寄せた。桜は戸惑って後ろに顔をそらした。


「え、なに」


 鼻先が触れ合うほどずいっと近づかれて、桜の目には枝理の瞳が大きく映った。くっきりした目尻から、瞼は緩やかな曲線を描き、鳶色の角膜は、内側にぽっかりと収まった眼球の中央に、ほとんど完璧な円をはっきりと浮かべていた。そのさらに中心点、瞳孔と呼ばれた黒水晶は、宇宙ぜんたいを吸い込んで濃縮したように濃い色をしていた。彼女の円の中の円に、桜は引きずり込まれるような感覚を覚えた。そうして桜が思うのは、これはどこかで見た景色、それも彼女の想像の中でのできごと、つまり枝理とキスするところの場面へと思い至ったところで、頬に手を添えられた。それからは一瞬だった。 


 息が詰まるような雨音に包まれた白い部屋は、どこか別の空間に放り出されたように無音へかえった。全ての音が遠のき、薄紅色のカーテンは、薄い光をじんわりと含んで、背後に白く蕩けた。テーブルの下に縁どられた四角い黒は息を呑んで、カーペットの綿にひっそりと沈んだ。その床の右奥の方で、ふたつの影は重なったまま、ぴくりとも動かなかった。


 やがてふたつの影が離れると、壁にかけた時計の針が音を取り戻し、雨音もいつの間にか元に戻っていた。桜は唖然として枝理を見た。けれども枝理は表情を崩さずに、桜を見据えたまま、先程まで触れていた舌をべっと出して言った。


「煙草の味しかしないんですけど」


 枝理の赤い舌を見て、桜はさらに戸惑った。


「え、ていうか、なにして……」

「なんで煙草吸ってん?」


 あわてた桜のよそおいを他所に、枝理が疑問を投げかける。彼女の鋭いまなざしに、桜が目を横に泳がせると、机の上に置かれた、みどりの匣が目に入った。


「なんでって、聞いてるの」

「そんなの私の勝手でしょ」


 持ち直したように桜が応じる。枝理が表情をさらに険しくしたのを見て、桜は対抗するように言った。


「私が野に咲くお花みたいに、綺麗だとでも思った?」 

「あんたの」


 枝理は桜の対応などまったく意に介さないような静けさをもって、桜の胸元を見た。


「あんたの、心臓が、みたい」


 枝理は枝のように細い指をぬうっと前につき出すと、桜の首元から下にシャツを引き下げて、両胸のあいだのあたりを強く引っ掻いた。ガリッと、皮膚が削れる音がした。


「痛っ……え、なに……」


 桜は自分の胸元を見て、それから枝理の引っ込めた指先を見た。彼女の伸びた爪の先には、桜の削れた皮膚がひっついていた。すこしすると、一滴の血がぷつりと、桜の胸元から浮かび上がり、皮膚をつたって流れ出た。傷口はきりきりと痛み出し、服に染みた赤色は、不快にもべっとりと皮膚についた。


「は、いや、血、出たんですけど」

「あんたの心の内側がみたい」 

「はあ?!」


 まるで悪びれていない枝理に、桜が声を荒げる。


「私をなんだと思ってるんだ! そんなやり方で見えるわけないだろ!」


 桜の抗議を背にして、枝理は机のほうへ向かうと、蛍光灯の横に置いた匣を掴んで、いくつも蓋を開けていった。張り詰めた空気のなかを、ぱこりぱこりと間抜けな音が響き渡る。枝理は真剣なまなざしでその作業を続けた。

 

「……なにやってんのさ」

 

 桜は動かずに、胸元の傷に手をあてたまま、枝理の背中を見て言った。枝理がようやく全ての匣を開け終えると、いちばん最後の小さい匣を持ち、振り返って、桜に突きつけた。枝理の目尻には、涙が溜まっていた。


「桜なんですけど」

「は、え、桜?」


 自分の名前を呼ばれて、彼女はそれを復唱した。開いた匣に目をやると、そこには桜の押し花が入っていた。


「桜の押し花なんですけど」

「……だからなに」


 その言葉に、枝理の目から涙がぶわっと溢れ出た。桜のシャツの胸元も、赤く滲んでいた。枝理は唇をきつく結んで、頬を震わせ、右手に持った匣を、握りつぶすようにして桜に向けて、それから激怒した。


「この頭パッパラパーが! 桜の押し花だっつってんのよ!」

「はあ? なんのことだか分かるように、喋ったらどうだ! この昆布あたま!」

「昆布あたまあああ?!」

「ひぃっ……!」


 枝理のあたまに雷がズガンと落ちた、ように桜には見えた。枝理は鬼のような形相を浮かべ、涙はぼろぼろと彼女の頬をつたう。それからは言葉の応酬だった。


「だいたい金髪にタバコって、人にアタマをどうこう言える立場か、この不良女! 私らJKだろうが!」

「うるさい! 誰のせいだと思ってるんだ! このうすのろ!」

「誰のせいよ」

「え、それは」

「あによ」

「うう……だからその、私が」

「…………桜が?」

「枝理を…………」

「…………私を?」


 枝理の濡れた瞳を見て、桜は口を噤んだ。桜は目をぐっと閉じると、歯を食いしばって、思いきり、ダムを決壊させたように、彼女の心のなにもかもを打ち明けた。


「おっ、女が、女をっ、好きになるなんて、その、おかしいからだよ!」

「…………は?」

「…………え?」

「はあああああああああああ?!」

「うわああああああ! こわっ!」


 枝理のあたまに二度目の雷撃が降り注いだ、ように桜には見えた。ズガンズガンと雷は、枝理のあたまに三度も四度も直撃して、あたり一辺は爆風で粉々になった。ぷしゅーと煙がのぼり立ち、桜はそのなかに枝理を見つけると、枝理は感情を押し殺した声の調子で、噛みつくように言った。


「誰がきめたのよ…………」

「え……?」

「誰がオカシイって、そんなことを決めたのっつってんのよ……! 聞こえてんでしょこのアホンダラ! 早く答えなよ!」

「お、おかしいでしょ! おかしいからおかしいんだよ……! 私にはもう、何がなんだか、分かんないの! 枝理に、私の気持ちが分かってたまるか! このすかたん!」

「分かるわ、そんくらい!」 

「うそだ! うそだ!」


 桜は「うそだ!」を叩き売りした。「うそだ、うそだ!」と続ける桜の言葉に、枝理の表情はすこしずつ、しゅんと落ち込んでいった。


「うそだ…………」

「…………嘘じゃない。わたしだって、桜のことを……」

「…………えっ、うそ……」


 いちばん最後の「うそ」に障った枝理は、目を刃物のようにギラリとさせ、桜を威嚇した。ふたりの一帯には、焼けた炎がメラメラと立ちのぼっていた。しばらくすると、火は消えて、白い部屋は元通りになった。枝理は吐き捨てるように、力を振り絞って叫んだ。


「はっ! あんたの心の奥底の、いちばんだいじな奥底の、括弧のなかに入れるもんはそれか! <おかしい>か!」


 全てを切り裂くような恐ろしい言葉の槍に、桜の心臓はズキッと痛んだ。二重の傷に苛まれて、桜は胸元をぎゅっとさせると、最後に、力いっぱいに叫んだ。声はかすれて、目の前はもう、なにも見えなかった。


「こっ、このやろ! 馬鹿にすんな……!」

「こっちの台詞だ! こんなもん!」


 枝理は走り出すと、勢いよく窓を開けて、そこから桜にもらった匣を、思いきり投げ捨てた。匣はくるくる宙に舞って、ふたつの島のあいだを切るようにして飛ぶと、すぐに落ちた。それがあまりにも、あまりにもあっけらかんとしていて、桜はぼうっとして窓の外を見つめた。


「帰って……」


 息を切らし、肩を弾ませながら枝理が言う。


「帰って……!」


 降りしきる雨はもう、ほとんど嵐になっていた。

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