六章 桜餡
ことの顛末を、枝理はふかみに打ち明けた。
「それは明らかにマズいでしょ」
「うん……」
公園のベンチに腰をかけて、ふかみは空を見上げながら言った。
「煙草ひとつで、もらったプレゼントを、本人の目の前で投げちゃうなんて……それはマズいよ」
「うん……」
枝理はふかみの隣で俯いて、地面をじっと見つめていた。
「謝らないとダメだよ……」
「うん……」
「せめて隠れて捨てなきゃ……」
「うん…………えっ?」
「帆鳥!」
ふかみが叫ぶと、隅っこのブランコのほうで、紙飛行機を飛ばしていた帆鳥が駆け寄ってきた。
「なーに?」
彼女の傾けた顔にあわせて、栗毛の髪もさらりと揺れる。
「ちょっとあんたも加わりなよ。あんたなにやってんの」
「紙飛行機を飛ばして遊んでました」
「今日び小学生だって、紙飛行機を飛ばして遊んだりはしないよ……」
「いやぁアハハ。話が重そうだったから、わたしは軽いものを飛ばすべきだと思いました」
「あんたのその紙、あたしにはテスト用紙にしか見えないんだけど?」
「正解です! ……って枝理、ほんとにだいじょうぶ?」
帆鳥は俯いた枝理を、潜るようにして覗いた。
「……あちゃー、これは重症ですね。お姉さんに話してみなよ」
枝理が言いづらそうにしたのを見て、ふかみは合いの手を入れた。
「まぁ、帆鳥相手なら、話しても大丈夫な内容だと判断したよ、あたしは」
「さすがふかみ。私の良き理解者……みたいな?」
ふかみは帆鳥を無視して、枝理の肩に手を乗せた。枝理は泣き止んだ目を腫らして、再度ぽつぽつと言葉を紡いだ。
「二人とも、ごめんね。実は──」
■
枝理が話し終えると、帆鳥は「なるほどね」と納得した表情を浮かべた。
「もう一週間もお互いを避けていると……」
「うん……」
帆鳥は顎に口をあてて「むぅ」と唸った。
「どうすれば良いのかは、だいたい分かってると思うけど」
「うん……」
「……まぁ普通に謝っても、かなり厳しいことになると思うよ」
「ちょっと帆鳥」
ふかみの遮りに、帆鳥は「まぁまぁ」と手を振った。それから確認するように枝理に尋ねた。
「いちおう聞くけど、プレゼントは拾ってきた?」
「うん、ここにある」
枝理はカバンから匣をとり出すと、帆鳥に見せた。匣は綺麗に磨かれていた。
「大事な中身は入れてきてある?」
「入れてきてある」
「ぬふふ」
帆鳥はほくそ笑んで、ひとつ咳払いをした。
「謝るのは自分でやんないとだけど、それだけでは難しいと思うので、私からひとつ提案があります」
「いいよもったいぶってないで言えよ」
ふかみがジト目で帆鳥を睨んで言う。帆鳥は嬉々とした目でふかみを見た。
「これはもう完璧に、アレしかないでしょ。ねえ、ふかみ?」
「アレってなにさ」
帆鳥は手から紙飛行機をぽろりと落とすと、口をあんぐり開いてふかみを見た。
「え。本当に分かんない?」
「いや、あんたの頭の中なんか知りようないし」
「いやいやいやいや」
帆鳥は予想外というふうに頭を掻いて、公園の辺りを見回すと、再度ふかみに向き直って「ヒントです」と、指を口に当てた。
「ヒントなに」
「それはですねえ」
「……ちょっとイライラしてきた」
「分かったよ、怒んないで。……ヒントは、食べ物系です」
帆鳥がそう言うと、ふかみはむすっとした表情のまましばらく考え込んだ。それから地面に落ちた帆鳥の解答用紙を見て「あ」と声を上げた。
「……分かった?」
帆鳥の探るような視線に、ふかみは表情を崩した。口角を上げて、彼女に答える。
「あんたも、にくいこと考えるね」
「ようやく分かったかー」
ふたりの会話についていけない枝理は、疑問の表情を浮かべて彼女たちを見た。
「とりあえず、私たちはあるものを用意するから、ちょっと待っててね。それから、この公園の向かいにある河川敷に、桜を呼ぶから。あとはがんばって!」
ふたりはさっそく用意に取りかかった。
■
河川敷に腰を下ろして、枝理は桜を待った。右手に置いた軽い袋は、風にぱたぱたと揺れた。昼間の太陽は徐々に落ちて、すでに夕日に傾いていた。さらさらと草は揺れて、目の前の川の透明では、鳥が一羽小石に降りて、魚を啄んでいた。
桜になにを話せばいいのか、枝理はあたまの中で、順を追って言葉を並べていった。それを何回も何回も繰り返していた。時間が近づくにつれて、彼女の心臓の鼓動ははやまっていった。不安しかなかった。桜に来てもらえるかも分からない、もし来てもらえたとしても、ちゃんと言いたいぜんぶを話せるかどうかも分からない。それに彼女は枝理を見て、帰ってしまうかもしれなかった。
枝理は、自分には思い出す必要がある、と思った。彼女に言ったことと、言われたこと、したことと、してもらったことの、思いつく限りのぜんぶを、うんとあたまを凝らして考えた。それから、ふたりに貰ったこの袋がいったい、どういう意味を持つものなのかも考えた。最後に、じぶんがどうしたいのかと、桜にどうしてもらいたいのかを考えた。
言葉はなによりも棘だった。一方で言葉には、心を癒せるなによりも綺麗な魔法があると、枝理は思った。だから、それをどう使えばいいのか、彼女は考えなければならなかった。見上げると、太陽の方に向かって、飛行機がひとつ飛んでいた。鼻水が出てきたので、枝理は鞄からティッシュを取り出して鼻をかんだ。
じゃりっという足音が聞こえて、枝理は左後ろの小道を見た。金髪だった短い髪が、黒くなっているのを見て、枝理の思考は一瞬停止したものの、すぐにそれが桜だと分かった。心臓の音が跳ね上がり、鼓動は瞬く間に体中へ広がった。耳が圧迫されるような感覚をおぼえ、体中から汗が吹き出た。声を出そうとすると、うまくいかなかった。声帯がしびれて、喉はからからに渇いて、枝理は小鳥がなくように口を開けたまま、絞り出そうと力を入れた。
「……いつから待ってたの?」
枝理は体育座りのまま、二、三、唾を飲んで答えた。
「分かんない」
桜は静かに枝理に近づいていくと、彼女の横に座ってあぐらをかいた。鳥が飛び立って、鳶色の綺麗な羽は、太陽に鋭く光った。体育座りした枝理のあたまの中は、なにもかもがからっぽになっていた。枝理のあたまのすべてはもう、新品同然のノートを開いたときのように白くなっていた。それでも、なにか言わなければいけないと、枝理は自分の首を掴んで、震えた声を絞り出した。
「む、むなもとの……」
「え、あぁこれ? もう治ったよ」
桜はコートのボタンをいくつか外すと、枝理に向けてぐいっとシャツを下げた。一筋の小さい傷跡は、朱いかさぶたになっていた。枝理はそれを見て、鼻の奥がつんとした。彼女の傷の奥にあるものが、たまらなく愛おしくなった。陽に透けて、穂のように靡く細い髪も、耳も、顔の輪郭をつたって、首の下の浮き出た鎖骨も、そしてそのあいだの、したのところにある傷跡も、なにからなにまで愛おしく感じて、枝理は鼻をずびりとすすった。右手に置いた袋にふと気づいて、枝理はそれを必死で開いた。まんじゅうをふたつとり出すと、ひとつを膝の上において、もうひとつを桜に渡した。
「名物、島まんじゅう」
「なにそれ」
「二ツ入でさんびゃくえん」
「たかっ」
「ひとつずつ食べよう?」
「……うん、いいよ」
「桜餡が入っているらしい」
「へぇ……」
桜はそのまんじゅうをしげしげと眺めた。それからふたりはビニールを剥がして、もぐりと口をつけた。まんじゅうを咀嚼する音が響いて、枝理の腔内は、さらにぱさぱさになった。お茶を用意しておけば良かったことに思い当たり、それからすぐに、そんなことはどうでもいいと思った。
「美味しいね」
「うん、桜餡、だから……」
桜が「なにそれ」と笑う。枝理はリスのように頬張ったまんじゅうを、ぐっと飲み込んでから、かすれた声で言った。
「ごめん」
「うん」
「ごべんなさい」
「いいって」
「でも煙草はハタチにならないと違法だよ……」
「……わかった」
枝理がふたたびまんじゅうに口をつけると、餡子は歯がとろけ落ちそうなほど甘くて、それで胸の内側が、堰を切ったように痛み出した。甘くて、痛くて、美味しくて、胸がきりきりして、頬から流れる涙がそれに、僅かばかりのしょっぱさを付け加えた。
枝理は嗚咽混じりに泣きながら、まんじゅうをはぐはぐと頬張った。桜もいっしょにそれを頬張った。半分ほど食べ終えると、枝理がまんじゅうを膝において、鞄から、桜にもらったプレゼントを取り出した。みどり色に夕日があたって、匣はきらりと光沢を帯びた。
「匣、拾って持ってきたの。押し花も入れてある」
「うん」
泣きながら枝理が言葉を続ける。
「大事に飾っとくから」
「そうしてくれると、私も嬉しい」
「桜の押し花も、大事に、此処に、しまっとくから」
「うん」
枝理は耐えられなくなって「嗚呼」と哭いた。
「嗚呼。まんじゅう旨くて目に染みる」
桜は吹き出しそうになって、なんとかそれを堪えた。
「なにそれ」
「聞いて、桜、わたしは……」
「……うん?」
「桜のことが──」
■
河川敷の向こうの原っぱに隠れて、ふかみと帆鳥は、彼女たちの様子を伺っていた。出歯亀だった。
「あっなんかいい感じになってる」
あたまにみどりのヘルメットを被り、草をべしべしと貼り付けた帆鳥が言う。
「ほんとにいいの? ばれたらたいへんだよ」
ふかみの方はそれに加えて、片手に望遠鏡を携えていた。ジト目にあててふたりを観察する。
「あ……枝理がなんか言ったみたいだよ」
「私には遠くてそこまでは見えないけど」
河川敷に座ったふたりの姿は遠く、帆鳥の方から彼女たちの表情を読み取ることはできない。
「あっ……! あれは…………!」
驚嘆の声を上げるふかみに、帆鳥も意識を鋭く集中させてふたりを見た。
「えっ……うわー! うわうわうわっ!」
「ちょっと帆鳥、うるさい!」
ふかみが望遠鏡を下ろすと、帆鳥のあたまを手でぐりんと下げた。ゴキンと首の骨が鳴る。
「あだっ」
「上手くいったみたいだし、もう帰ろう」
「その、もうちょっと、優しくして。いきなりはきつい」
「……ごめん」
ふかみと帆鳥は、もそもそとその場を離れた。
■
ふかみは開口一番に「疲れた」というと、ベッドにころりと横になった。帆鳥が苦言を漏らす。
「わたしの部屋なんだけどね」
「いいじゃん、なんかもうすごい疲れたし」
帆鳥は荷物を下ろすと、大きな袋から箱を取り出した。
「そんな疲れたふかみにはこれ。名物島まんじゅう、箱パック詰めです」
「……あ、それ助かるかも」
「ね」
帆鳥は箱を開けると、中からまんじゅうをひとつ取って、ふかみに渡した。ふかみは起き上がると、座椅子に座った。
「あ、箱のなかに写真入ってる」
「……ええ?」
「箱パック詰め限定みたいです」
帆鳥はつまんだ写真をひとしきり眺めると、ふかみにそれを渡した。
「あ、ほんとだ……」
見ると、写真にはこの地域一帯をちょっとした観光地たらしめる、ふたつの小島が映っていた。荒々しい波が打ち上げて、ふたつの小島は寄り添うようにして足を伸ばしていた。
「ほんとにふたつとも、似てるんだね、双子みたいに。……姉妹かな? それとも兄弟かなぁ」
ふかみの投げかける疑問に、帆鳥はあっさりと、しかしどこか確信を持った声で返す。
「恋人じゃない?」
ふかみが普段のジト目をゆるめて帆鳥を見る。
「……そうかもね」
帆鳥も座椅子に座ると、背もたれを後ろに返して、大きく腕を伸ばした。
「あー、腰が痺れる。……私たちはなんだろ? 友人? 親友?」
大きく欠伸をした帆鳥に、ビニールを剥がしながらふかみが言う。
「いまは親友?」
「あはっ」
帆鳥が満足そうに笑う。
ふかみはまんじゅうに口を付けながら、なんとなく、次にやってくる夏のことを考えた。それから、テーブルに置いた写真をもう一度、ちらりと見た。島まんじゅうの写真には、小島がふたつ浮かんでいた。ふかみはそれを見て、この荒波にたつ恋人たちの、ささやかなしあわせを祈った。




