四章 水槽少女
日曜日の朝、空いた電車に二人は揺られていた。一方は短い金髪の女の子で、もう一方は長い黒髪の女の子だった。
金髪の方は黒いピーコートを、首には暖かそうな紫のマフラーを巻いて、ジーンズにロングブーツを履いていた。黒毛の方はカーキのモッズコートを着ていた。チェックのショートパンツから黒タイツの足をぷらぷらさせている。
窓から見える景色は、山々を抜けて、開けた海沿いを走っているのが見て取れる。県の外れにある水族館へ、二人は向かう途中だった。
一緒に行こうと誘ったのは桜の方だった。それを電話で聞いた枝理は、前夜から用意を始めた。この頃では、朝の寒さは夜のそれと地続きだった。だからか、この時間に好んで電車に揺られる人は少ない。
車輪はしきりに硬い音を立てて、冷えた線路の上を回った。たまに休憩しては、ぽつぽつと人を入れ替える。そうしてまた走り出す。
しばらくすると、海沿いの広々とした土地に、半球状の建物がそびえているのが見えた。象牙色の壁面に、東から昇り始めた太陽があたっていた。建物はちょうど今、うるさい光に目を覚ましたように、てかてかとしている。駐車場には、まだほとんど車はない。
「水族館ってあれじゃない?」
「みたいだね」
駅員の放送があり、目的地の駅で降りる。外に出ると、身体の芯をきんと冷やすほどの空気が辺りを包んでいた。
エントランスにやってくると、高校生料金のチケットを二枚買う。入場口でそれを渡して、ふたりは園内に入った。家族連れが二、三いるだけで、辺りは静かだった。
「開園すぐだから、そんなに人いなくていいね」
「そうね」
円形のホールにやってくると、そのままエスカレーターから地下に入った。視界はすぐに暗くなり、外界を隔てた館内はしんと静かになった。天井に電灯がいくつか付いている。
正面にまず、端から端までを大きく縁どったガラスの水槽があった。その中で人間ふたり分にもなるほどの鮫が泳いでいた。鮫は躰をくねらせて、悠々と水の中を泳いでいた。
「鮫だ!」
「桜、声が大きいよ」
水槽の手前までやってくる。
「あの水面の方で固まってる魚はイワシかなぁ」
「そうみたい」
ふたりが下から覗いた水面は、寸秒毎にかたちを変えてきらきらと光った。ひとつの波紋がその周りの波紋に柔軟な動きを与え、形を変える。それがまた他の波紋にくっついて押し付けあう。
波紋には大きいものや小さいものがあった。それら全てはひとつの模様となって、すぐに移ろいでいった。そうして、気がついたときにはすでに、異なる模様に変わっていた。水面の下を、何百ものイワシが群れて泳いでいた。体面に照る光は柔らかい。
「ねえ、次に行こ。ぼーっとしてると、人が来ちゃう」
水槽を見る桜の腕を、横から枝理が引っ張る。階段を降りると、マグロの水槽があった。展示版には、様々な種類の魚が描かれている。こちらの水槽も大きい。
「マグロって太いんだねぇ」
コンコンとガラスを叩いて桜が言った。そうして横の展示版を見ると「こんなに沢山の魚なんて覚えられんわ」と言った。いくつもの展示物を横切り奥へ向かうあいだ、枝理が呟いた。
「みんな少しずつ形が違ってて、みんな少しずつ違う水槽に入れられてるのね。なんか不思議。当たり前だけど」
しばらく進むと、地域ごとに分かれた水槽が展示されていた。水槽は太平洋、インド洋、大西洋、カリブ海と続いた。最後にひっそりと、一段と暗い照明に下ろされた区域があった。展示版には小さく<深海の魚>と表記されている。
惹き付けられるように、枝理が水槽の前に立った。手をガラスに当てて、中にある空間を、両眼を開いて見つめた。
それはえげつなく隔離されて、今にも息が詰まりそうな空間だった。あまりにも身近であるために、気づきようもない景色。それを外側から眺めた枝理の足は、地面に刺さる棒のようになった。決して動かず、水の流れの機微を見逃さないように、瞳はただ水槽の奥へ、奥に泳ぐ奇形の魚へと注がれた。
奇形の魚は、透明なガラスを一枚隔てて、ひっそりとそこにいた。水槽というひとつの区切られた世界の奥に、魚はヒレを揺らして、静かに浮かんでいた。無感情で真っ黒な瞳だった。魚と向かい合う枝理は、同じように瞳を見つめ返した。ふたつのあいだを分けるものは、薄いガラス板一枚だった。それはあまりにも薄く、あまりにも固かった。
「 ……綺麗」
心ここにあらずといった声音で、枝理が呟く。
「ラットフィッシュって魚。名前の通り、ネズミみたいなかたちをしてるんだってさ」
展示版を見た桜が言った。静かに枝理の傍へ戻ると、同じように奥の魚を見つめた。
水槽の中に浮かぶ奇形の魚。魚はヒレをゆっくりと動かして、ふたりを見た。しばらくすると、魚はこちらにやってきた。ガラスの手前で、その躰を見せつけるように、するりと横に泳いでいった。
しだいに、家族連れやカップルが増え始めた。彼らは少しのあいだ水槽を眺めると、それぞれ一言二言会話をして、すぐに通り過ぎた。これ以上ここに留まっているとうるさくなると思ったのか、桜が言った。
「そろそろ次に行こうよ」
枝理は相変わらず、水槽を見つめたままだった。
「……気に入った?」
枝理は小さく息を吐くと、由衣の手を取った。
「ううん。すこし、見とれただけ」
それからしばらく進むと、建物から外側に出る扉があった。立札には、傾らかな曲線を描いた、二脚生物の影絵があった。それを開けて、外に出る。外には柵があり、その向こうにはペンギンがいた。ふたりの視線に、岸の向こうのペンギンが「なんだお前」という表情を浮かべた。
「飛べない鳥も、大地でのんびり暮らしてるんだね」
桜がそう言うと、枝理もそれに頷いた。
■
帰りの電車の中で、枝理はご機嫌だった。端末に記録した写真をスライドさせては、しきりに桜に見せていた。水槽の底から天井まで届きそうな藻の前で、桜が背伸びしている写真や、タチウオの写真など、枝理は沢山の写真を撮っていた。
ペンギンの写真について会話を交わしているうちに、電車は桜の街を通り過ぎた。乗り換えて戻るのも面倒なのでと、ふたりはそのまま枝理の家に向かうことになった。
電車を降りると、空はペンキを水に溶かしたように黒かった。冬は夜が早いね、と枝理が言った。アスファルトに立ち並ぶ寂れた商店街を、二人は歩いた。
シャッターはほとんど閉まっていた。人の気配がない街の中で、冷え込んだ夜の中、吐く息は少し白かった。歩くふたりの姿を除いて、街はぽっかりと、そのままどこか別の空間に離れてしまったかのように静かだった。
通りを抜けて家の近くまで来ると、丘を降りて海を見ようと枝理が言った。水族館の名残りがまだ冷めていないのか、彼女の声音は少し弾んでいた。桜はそれに頷いて、枝理の隣を歩いた。
木でできた柵を伝って丘を降りる。桜は腕を服のポケットに入れて、空を見上げた。雲がかかって月は霞んでいた。隙間から柔らかく月光が漏れる。まばらに浮かんだ星は、針でついたように点滅していた。空は海のようだった。その水面に浮かんでいるのが月と星だった。
しだいに波の音が聞こえた。音は少しずつ強くなって、それに包まれるくらいになると、砂浜に降り付いた。海は空よりも濃い黒をしていた。指先で触れると色がつきそうなほどだった。海面の奥の方には、ふたつの小島が浮かんでいた。桜はそれを見た。島の上には木々が茂っていて、登ることはできないように思える。
「ふたつ島って言うんだって」
枝理が言った。
「並んで立ってるからふたつ島。私が生まれる前からここに浮かんでて、たぶん私が死んでもここにあり続ける。この子らは、ここでずっと海を眺めてる」
「へえ……」
「たまに飽きないのかなって思うけど。そういうあり方も、いいかもって思うわ。もしこれがひとつだったら、寂しい気もするけど、ふたつ並べばそんなことないでしょ?」
「ひとつだったら寂しいかもなぁ」
でしょ、と枝理が肯定する。
「よくここに来んの?」
「ううん、いつもは、窓から眺めるくらい」
「もうすっかり寒くなったよなぁ」
桜が首に巻いたマフラーに指を入れて口元までひっぱった。風が彼女の金髪を穂のように揺らす。目を閉じて「さぶい」と声を漏らした。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、いいよ別に」
「ここはひとりで歩きたくないんだ」
「……ふーん」
浜辺の砂を踏んで歩く二人の後ろに、ぽつぽつと足跡が残った。奥まで行くと、浜辺は途切れて、二本の鉄棒を鎖で繋いだ区域があった。看板には<立入り禁止>と書かれている。ふたりで辿れる場所はここが最後だった。踵を返して引き返す。
近くの磯に飛沫が打ち付けて、強い音が鳴った。打ち付けた飛沫は、それに満足すると引いていった。それからもう一度。奥から競り上がってきては、張り手のように磯を叩く。海水は少しでも海から出ようともがいた。しかしなんの努力のかいもなく、水は引いていった。枝理はそれを無言で見つめた。
「例えばの話だけど……」
逆向きの足跡に靴を重ねながら枝理が言った。
「桜はさ、神様って信じる?」
その言葉に桜が吹き出した。
「なんか宗教勧誘みたいだな」
「そんなんじゃなくて、素朴な話」
少し考え込んで桜が言う。
「さあ。でもいたら面白いかもね」
「なんで?」
「そうだなぁ……色々、想像できるし?」
「そうかも……私はさ」
「うん」
「神様。もしいたら、寂しいと思うの」
「神様が寂しい?」
「うん。ちょっと長くなるけど聞いてね。……もし神様が筆を取って、このお話を綴っているとしたら。私たちが見てるはずの海も空も、書かれたある本のある頁に挟まれていて、浮かんでくるものだとしたら? あるいは、こうなってしまうように、お話は進んでいるとしたら。そしたら、私らは水槽に泳ぐ魚で、展示された種類のそれが、図版の上に描かれていて……。彼女だけが硝子の前で、それを見てるの。そう考えても、おかしくないと思わない?」
枝理の長い話に、桜は大きく眼を開き、夜空を見上げるようにして仰ぐと、一拍置いてから「続きを聞かせて」と言った。枝理が続ける。
「だからね。何のために彼女は水槽を造ったんだろうって。こちらから、鏡の前に立つ彼女の姿は映らなくて、向こうからだけ、それが見えるの。今日、水槽を眺めているあいだにそんなことを考えたのは……例えようもないくらい、魚が綺麗だったから。だから、その、なんかすこし、寂しくなった」
「やり切れない話だねー」
言い終わると枝理は笑った。つられて桜も笑う。
「枝理はそんな風に考えるんだ」
「桜はどう思う?」
「さあ。私はそんなこと考えないからなぁ。どっちでもいいや。私らは空気に触れることができるし、こうして浜辺も歩けるだろ?」
言いながら桜が手を差し出す。その言葉に枝理の瞳は、水底に漂う藻のように揺らいだ。「ほら」と言いながら差し出す桜の手を、枝理は躊躇いながら握った。
ひときわ冷たい風が凪いで、二人は縮こまるように身を寄せた。桜の手に、枝理が両腕を絡める。体温は暖かかった。
「今日、泊まっていい?」
桜が言った。それに枝理が頷く。ペンギンがおしくらまんじゅうするように身を寄せて、二人は丘を上がった。冬はまだ寒くなりそうだった。




