─孑孑─
『 ○月△日
爽やかな風が吹く。今日もよい天気だ。
私は今、水面を見ている。そこには幼い彼女達が、水面から顔を覗かせているからだ。少し惚けた表情で、私に向けて微笑んでいる。
その丸く開いた口元も、小さな瞳も、何と愛らしい事か。
私が少しでも動くと、一斉に身をくねらせて水の中へ潜り、暫くするとまた、水面に浮き上がって顔を覗かせる。
私をあどけない笑顔で誘っておきながら、焦らすとは…あまりに愛し過ぎて、返って憎らしい。
だが、知っているのだ私は。そんなにも小さな身体で、そんなにも可愛らしい口で、実はとてつもない大食漢だと言う事を。
昨日も私が食べ易いように柔らかくした実を、皆であっという間に食べ尽くしてしまったね。私にはかなりの量だと思ったのだが…。
ああ、そんなに見つめないでおくれ、私を。
ああ、そんなに悩ましく身体を躍らせないでおくれ。
ああ……、この身悶えんばかりの熱い情熱を、私はどうすればよいのだろうか─
』
教授の机の足元には、隠される様にそっとバケツが置いてある。水臭い臭いを放ちながら。
腐る…まではいかないが、綺麗な水ではない事は確かだ。
そして、その中にはおぞましい数のボウフラが無数に湧いている。
どおりで…此処のところ、やたらと蚊に刺され易いと思ったら─!
怒り心頭でバケツを見つめ、耳元で煩く纏わり付く蚊に、杉原はその怒りをぶつけた。
一撃で仕留め、天誅を食らわす。蚊からして見れば、とんだとばっちりかも知れない。が、こんな所で繁殖なんぞされてたまるかっ!と、彼女はバケツを持って外に出た。
日光が燦々と降り注ぐ夏の真昼間。熱く焼け過ぎて、蜃気楼が立ちのぼる構内の道路を前に、彼女は軽く汗を拭った。
そういえば、どこぞの男子学生が、幾つも頭だけを千切って、背骨のような、毛の生えた長細い体を一つに丸めて、『肉団子だー』等と言いながら、捕まえたトンボに無理矢理食わせていたっけ。
杉原女史はバケツの水を、容赦なく、灼熱のアスファルトに撒き散らす。あっという間に水は蒸発し、すぐにアスファルトは元の通り乾いてしまった。それでも気化熱で幾分か涼しくなった気分を味わいながら、一息つく。
これで、あの煩い蚊に悩まされずに済むわ─
彼女はルンルン気分で、研究室へ戻った。
─ボウフラの章 完─




