偽装結婚の誓約(アグリーメント)
「相変わらず、物騒な報告を笑いながら聞いているんだな、お前は」
外套のフードを下ろし、呆れたような、しかしどこか楽しげな声で口を開いたのは、第2王子アレクシス殿下だった。
生誕祭の夜会以来、彼の立場は劇的に変わった。
レオンハルトが失脚したことで、彼は実質的な「唯一の王位継承者」として、ようやく王宮で正当な扱いを受け始めたのだ。
「ようこそ、アレクシス殿下。私にとって情報は最高のデザートですから。……どうぞお掛けになって。今日は極上のワインをご用意しておりますのよ」
私がソファを勧めると、彼は向かい側に腰を下ろした。
テーブルの上には、二つのクリスタルグラスと、一本の高級ワイン。
そして――羊皮紙に美しく記された、分厚い「契約書」が置かれている。
「さあ、殿下。いよいよ正式な『調印式』ですわね」
「ああ。……まさか、俺の人生の伴侶となる相手と交わす言葉が、『愛の誓い』ではなく『契約条項の確認』になるとは思わなかったがな」
アレクシス殿下は皮肉げに笑いながら、契約書を手に取った。
そこには、前世の法律知識を駆使して私が作成した、完璧な「偽装結婚の合意書」が記されている。
「重要なポイントをおさらいしておきましょう。第一項、お互いのプライベートには一切干渉しないこと。第二項、私が殿下を次期国王に推し上げるための全資金と政治的バックアップを提供すること。第三項、殿下が国王に即位した暁には、私を正妃とし、領地の自治権と莫大な個人資産を保証すること。……異議はありますか?」
「ない。俺にとっては利益しかない、完璧な契約だ。……だが、一つだけ聞かせてくれ、セレスティア」
アレクシス殿下は、書類から視線を上げ、その鋭い氷水色の瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「お前はなぜ、そこまでして『自由』と『権力』を求める? 莫大な富を手に入れたのなら、どこか他国へ逃げて、悠々自適に暮らすこともできたはずだ。なぜ、あえて泥沼の政争に身を投じる?」
彼の問いは、もっともだった。
普通の令嬢なら、復讐を果たした時点ですべてを捨てて逃げるだろう。
しかし、私の中にある「神崎玲奈」の魂が、それを許さなかった。
「……逃げるのは、性に合わないのです」
私はワイングラスを手に取り、その深紅の液体を見つめながら答えた。
「一度目の人生で、私は理不尽にすべてを奪われました。だから決めたのです。二度目の人生では、私がルール(法律)を作る側に回ると。誰かに運命を握られるのではなく、私が盤面を支配し、国を動かす。そのための権力と自由ですわ。……それに」
私は顔を上げ、彼に向かって前世で得意としていたビジネススマイルを向けた。
「落ちぶれた企業(国)を立て直し、優秀な人材をトップに押し上げる。これほどやりがいのある仕事、コンサルタントの血が騒いで見過ごせるわけがありません」
私の答えを聞いたアレクシス殿下は、一瞬目を丸くした後――耐えきれないというように、肩を揺らして低く笑い出した。
「くっ……はははっ! お前、本当に女にしておくには惜しいほどの『傑物』だな。兄上は、こんな恐ろしい女を敵に回したのか。同情すら覚えるよ」
「あら、失礼ね。私はただ、少しばかり計算が得意なだけの、か弱き令嬢ですわ」
「その口が言うか」
アレクシス殿下は笑いを収めると、テーブルに置かれた羽ペンを手に取り、迷うことなく契約書の署名欄にサインを書き込んだ。
そして、自分のグラスを掲げた。
「誓おう、セレスティア。俺はお前という最強の盾と矛を得て、必ず王になる。そしてお前に、誰も手出しできない最高の地位を約束しよう。……俺の『共同経営者』よ」
「ええ。期待しておりますわ、私の『未来の王様』」
カチンッ、と澄んだ音を立てて、二つのグラスが交わされた。
愛でも恋でもない。しかし、そこには並の夫婦よりも遥かに強固な「利害と信頼の一致」が存在していた。
偽装結婚の契約は、ここに完璧に成立した。




