<7>
日が半分沈む頃には、空は雨季を忘れ、星を瞬かせていた。それらは、まるで濃い橙から紺に布を染めるようにして変わる空の上で、静まりかえる村を見下ろしている。
村にはまだ灯が残っていた。火や、誰かが修理して売った太陽電池による人工的な光が、陸を漂う薄闇をどかしている。
オリトの家には、小さな白い光が一つ灯っているだけだ。太陽の光が電力になる照明を、ずっと前に父が持ち帰ってきた。そのもっと前では、電柱と呼ばれるものが村中にいくつも立っており、各家庭がそれぞれ、自ら家まで配線を引いていたという。兄姉は、その手伝いとして父と出かけたこともあった。
「その前はロウソクだったんだ」
電球が使えるようになりはじめてからは、ロウソクを使うことも稀になったのだと、兄は鶏肉のスープを啜りながら話した。肉を口にしたのは久しぶりで、手に入れられたとしてもガラが多かった。とびきりなものが手に入ると、世話になっている人を初め、周囲にも分けるのが決まりだった。家族はまた、明日も早くから出かけねばならないと、今日の食事を糧にしていく。
オリトは兄の話に耳を傾けながら、時折、外を気にしていた。ここ周辺は、さほど密集していない。風通しがよく、心地よい隙間風に、ついつい顔を引っ張られていた。その隙間が、今オリトが過ごしている部屋の最も奥での時間を、いつも楽しませてくれる。なのに姉は、そばにあった汚れたタオルで、そこをあっさり塞いでしまった。
「見られちゃダメなの。いまから、しごとをおえた人たちがとおるから」
概ね日が沈む頃が危ないのだと、母から聞かされている。狭い路地は光も届かず、人攫いも多いのだ。しかしそれは、マーケット周辺であって、この辺りはいつだって穏やかな夜であることを、オリトはよく分かっていた。けれども姉に口答えせず、静かに頷いた。
「父さんがもどれば、スクールにいける?」
兄は、ずっと前から憧れているそこのことを、いつも母に話していた。じっと言葉を紡いでいるであろう母を、姉もまた見つめている。オリトは、最後の肉の欠片をよく噛みながら、壁に耳を押し当てた。緩やかな風の音がする。
「じしんでなくなってしまった子どもたちのところに、うたをうたいにいくのはどう?」
姉は別の提案をしてみた。言葉に詰まる母を見て、兄の要求はきっと難しいのだろうと思った。
「スクールでは、電話はできないの? だって父さんが電気を通したんだし。父さんと話したい。何かもっていけば、つかわせてもらえるかな?」
懸命な長男に、母はそっと食事を促すだけだった。オリトはこの時、ポケットに潜ませたものを握った。
「スクールには、いかなくてもへいきなのよ」
妹の唐突な意見に、兄は目を丸くさせる。
「あそこには、いえがない子や、かぞくがいない子、びょうきの子がいるのよ。あたし、ダヨにきいたもん」
兄の横顏を見ながらオリトは、姉が言うダヨの話をふと思い出した。それはいつか、姉と一緒にダヨのところへお使いに出かけた時だった。
この家の裏に広がる丘を越え、しばし歩いた先に、孤児の子達が集まるスクールがある。大震災が起こるずっと前は、何百もの子どもが集まって生活をしていたらしい。障害は精神から身体と幅広く、身寄りのない子も多かった。その近くの呪術師達が暮らす村から通う子どももおり、多種多様の人々が関わる場所だ。そこにも外国の支援者が携わっていたことがあり、生計を立てるための知恵や技術を教示していたのだそうだ。
「今は何とも言えないの、母さん一人だから」
母は素直にこぼすと、自分の残りのスープを子ども達に少しずつ分け、食卓を後にした。
オリトは、再び器に入った小さな肉を口に入れると、何も言わなくなった兄姉を眺めては、また壁に耳を当てた。そして、姉の目を盗んで、そこに詰められた布を引き抜いた。
隙間の向こうに広がる夜の世界に吸い込まれそうになった。澄んだ空気と空にそよぐ風が、まるで自分を誘っているようだった。暗闇は嫌いだというのに、何故か、ずっと遠くまで掘り進めるように見つめていられた。
顎が反りたつほどに物が積み上げられた家は、豆が鍋の中で押し合うところを見ているように、足の踏み場もないほど狭い。そんな中で、押し合い圧し合いしながら、一つの寝床を分け合って眠るのだが、オリトは目が冴えていた。
朝の陽射しの中で駆け回ってから、時が経つのはあっという間だった。最も開放的だった僅かな時間は、夜が始まったばかりの今でも輝かしく、思い出すだけで喉の奥がポカポカしている。仕事やマーケットでのことや、母が兄姉に告げていたことが、心のどこかに痞えていながらも。
オリトは、家族が詰め合う間を這い進んだ。幸い、母とは接触しておらず、兄と姉は少々ぶつかったところで起きはしない。二人はすっかり疲れているのか、大きないびきがきこえる。兄の隣では、母が壁を向いて横になっていた。
家族の様子を横目に、オリトは寝床から忍びおりる。冷たい床も足が温かいせいか、寒くない。両手で喉を包めば、手はもっと温まっていく。
ふと、玄関脇のフックにかかるターバンを見上げた。あまり好きではないそれに、随分と惹かれてしまう。いつの間にか愛着が湧いたのか、それとも
「ん?」
オリトは、すうっと細く吹き込んだ風に首を傾げた。ターバンがふわりと揺れたかと思うと、するりと、足元になびきながら落ちた。
「そう。なら、持ってく」
虫の翅がこすれ合うような声で呟くと、ターバンを手首に巻き、その端をしっかり握った。これを持たずに出かけて困るのは母だけではない――風がそう囁いたような気がしたのだ。
いつもなら軋むはずのドアも、驚くほど静かに開いた。この小さな身体が抜けられる隙間だけでいい。まるで風の悪戯で開いたような、その程度の間から、オリトはころりと家を抜け出した。
外はまだ夕方の名残がある。辺りの家から小さな明かりが漏れ出ているが、ほとんどの家が暗がりの中に落ちていた。空を見上げると、夕食の時よりも星が増えていた。
オリトはしばし空を仰ぎ見ると、ひんやりとした空気を吸いこんでは、ふううっと吐き出した。風は、その息で熱を帯び、滑らかな肌触りに変わる。すると星を連れてきたのか、金色の細かな光が、宙に線を描くように連なると、あの村の方角へと伸び進んでいく。そして、何かがオリトの耳をくすぐってきた。
ドコドコ、ドコドコ、ドドンドドン――
オリトは、じわじわと目を見開いていく。じきに消えかかる光の導きの先に、息を呑んだ。
ドンドド、ドンドド、ドドドドドン――
合間にいくつもの不思議な歌声が混ざり合う。丘の向こうのアムードゥ族の声――精霊を呼び、話しかける声が。
「ゴマの音……ペポを呼んでる……」
ずっと先まで広がる闇を切るように、呪術師達の太鼓を通した神との対話が響いてきた。。こんなに鮮明に耳にしたのは初めてだと、オリトの足は、ふらりふらりと、丘の向こうに潜む温かいその村を目指そうとする。だが
「戻るんだよ」
オリトは肩を縮め、ひっそりとした小声に振り向いた。
ダヨは、オリトの様子を見て声を引っ込めると、その小さな肩を抱き寄せては辺りを見回し、建屋の影に導いた。
「お前、頭の布は?」
「ここ」
ダヨは、オリトの手に巻かれていたそれを受け取ると、細長くしていく。
「首を守っておきな。光が目につく」
オリトの喉の金色の光にダヨは目を細めると、布で仕舞うようにして隠した。
「フォーティー達の音がとても強いわ。神様の木に何か聞きたいことがあるみたい」
言いながら、オリトの足はスルスルと呪術師の村の方へ歩きだしてしまう。
「待ちな」
ダヨは慌ててオリトの手を取り、静かにと、口に指を立てた。そして、もう一度辺りを見回してから身を屈めた。
「お前だけではどうなることか」
「あたし平気よ。だってほら、光がある」
オリトは行き先を指差した。だが、ダヨにはその光が全く見えなかった。
「……お前はどうしてそこに行きたいんだい?」
太古から伝わる伝統技術の奏。その民族が維持してきた生命との共存もまた、あの“大地の号哭”にほとんど吞まれてしまっていた。見知った者が言うには、神の声が薄れるどころか、ほとんど聞こえなくなったようだ。ただ、自らの力を駆使して這い出る蟲がいるとも聞く。おおかた、この地でようやく育つようになった作物は、その力によるものだろうと伝えられていた。だが、かつてのように、大地はもう漲ってはいない。
「お言葉がない――それが、お答えであるとも言える。何か返事があれば、彼らは伝えに来る。お前が今こうして赴く必要はないんだがね」
「ダヨも一緒に行くんでしょ? 何か気になるから、帰れって言わないんでしょ?」
オリトはこの瞬間に感じられる“自由”にわくわくし、明るく声を上げた。すると、今にも花が咲き誇りそうな温かい微風が、ふわっと足元から吹き上がった。
「ほら! 来て来て!」
ダヨは何かを言うよりも先に、オリトに手を引かれてしまった。腰がスッと立ち上がり、重いはずの足が軽くなっていく。いつぶりかの速足に、声をなくしてしまう。それだけではない――目の前で微かな金色の光が舞い、そっと闇に溶けていった。その子の金色の髪が、緩やかなうねりを見せ、小さな灯になった。やがてアムードゥ族の奏は、押し迫るようにして響いてきた。




