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母と男性は、ようやっと肩の緊張がとけたとしても、心中は重たいままだった。
母は、娘の名前を咄嗟に口にしてしまったことに胸が騒いでいた。声に反応するかのように吹き荒れた風に、あの客は確かに何かを察したに違いなく、それがまたどこかへ情報として伝わってしまうことを思うと、肌の粟立ちは治まらなかった。
ところが、そんなソワソワした空気を、これまでとは違う軽やかな声が切った。
「かあさーん! 見てほら、かあさんのぬのがうれた!」
八つの長男が、一つ下の妹を連れながら、ひと塊の肉を持ち上げた。
「大きいでしょ。ダヨにもひさしぶりにおかえしができる」
オリトは、遠くからやって来る兄姉の声に気持ちが和らいでいく。男性の脇腹から商品棚に近づき、鼻を出し、口を出し、首をぬうっと出すと、彼らを見た。
ところが母は、周囲の目を気にすると、娘をまた棚の下に押し込んだ。
「主人や仲間のことは聞いていないのか?」
母は隣の彼を見向きもせず、ただ首を横に振る。
「向こうが以前の街並みを取り戻す裏側は、碌な話しかない。距離をとる方がいい。僕の家の周りも、奥の地へ移ることばかり言っている」
同じ家に居続けてはリスクがある。特定の人間に目をつけられないためと言い、親族で住んでいた人達までもが分散している。だが遠くに行き過ぎても、生活を繋ぐことが難しくなる。それぞれが、いい中間地点を見つけて生き延びるのがやっとだった。
オリトは、大人達の険しい表情に目を見開いたまま震えていた。そして、やっと落ち合った兄姉にそっぽを向いてしまうと、棚の奥で小さく閉じこもる。商品棚に、雨粒が跳ねるのが聞こえてきた。
昼を過ぎた頃。スコールに見舞われる中、母はオリトの手を引き、その両側に後の子ども達を連れて、帰路についていた。リュックサックや盥、カゴに、雨の音や振動が響く。その音に負けじと、長男は得意気に声を張った。母が以前に仕立てた布が、家畜屋で育つ赤子のいい衣類になると言われたのだ。
そんな大きな声を耳に、オリトはじっと口を噤んだまま歩いている。
その隣にいた姉は、まだ一度も話していない妹を覗き込むと、その頭を優しく撫でた。そして、二階建ての住居が見えてきた時、そこに張られた洗濯紐を指差した。
「あれ見て。くつがひっかかってるでしょ?」
バラバラの三足が、どういう訳か高いところに吊るされていた。洗ったから干しているという様子でもない。どこもかしこもボロボロで、じきに落ちてしまうのではないかと、オリトは首を傾げた。
「この村にいたギャングたちのものよ。あらそいで、なくなったの。この村にわるさをしにきた人を、おいかえしてくれたんだって。そのことをわすれないために、ああして、かれらがはいていたくつをつるしてる」
オリトは、頭上を過ぎていく彼らの靴をしばらく見上げていた。
「そして、そうすることで、ここにわるい人はいないって、あいずをおくれるの」
オリトはふと、姉の横顔を見た。なかなかこうして一緒に歩くことがないので、どこか嬉しそうにしている。彼女の言うギャングが戦った相手とは、一体どういう人達だったのか。それを訊ねてしまうと、その表情は崩れてしまうのだろうか。心配が胸に渦巻いてしまうと、オリトは質問を腹に仕舞い、言葉を変えた。
「皆、仲良しでいられるのがいい」
そうして何気なく歩いていると、姉はあることを思い出した。
「かあさん? あっちでは、山のしごともあるんだって。水や生きものをよくしってる人が、出かけていくんだって」
母の手が冷たくなるのを、オリトは静かに感じ取る。母は長女を見向きもせず、雨の音に紛れるほどの小さな声で返事をすると、聞き流してしまった。だが
「そうだ! これもらったんだ」
母は長男を大きく振り返ると、土だらけの小さな手に光る硬貨に目を見張る。
「もの売りが上手だって――」
母は咄嗟に長男の手を叩くと、透かさず抱きしめた。オリトと姉は、真横を跳ねて転がる硬貨に目を奪われる。それはみるみる雨に打たれ、泥水に漬かっていった。
「……いるんじゃないの?」
「なくていいのよ」
「でも、あつめたらおなかいっぱいになれるって」
「聞きなさい。あなたも、来て」
母は長男と向き合うと、すぐそばの長女の手を引き、二人の目を見つめた。母の震える眼差しに緊張してしまい、二人は胸が騒ついていく。すると長女が、素直に話しはじめた。
「ちかくにいたから、きょうだいだっていうしかなかった。でも、オリトのことはいってない」
母は頷くと、二人を優しく撫で、和らいできたスコールに濡れる小さな頬を拭いながら、静かに口を開いた。
「ここには大地の恵みがあるだけじゃない。それと共に生きる術を教わった人達もいる。時間をかけて、命を強く繋いでいける方法を探すの。お金は、もっともっと後のこと。今から握っていても捌けない」
三人が見つめ合うところを、オリトは遠目に眺めていた。そして、片耳をそちらに向けたまま、土に埋もれかけた硬貨をそっと拾った。
「でも父さんたちは、あつめるのにがんばってるから帰らないんじゃないの?」
母は、長男の怪訝な表情をほぐそうと、また顔を撫でる。
「あなたはまだ、同じことをしなくていいの」
「あたしも、そうじがじょうずって、ほめてくれたのに」
長女も黙ってはおれず、母の言い分に首を傾げる。
オリトは硬貨を握りしめた。そして、言葉を選んでいる母をしばし見つめた後、兄姉を見た。二人から感じる温かい風が、今朝の仕事を頑張ったんだということを伝えてくる。大人に褒められ、父と同じようにお金を手に入れられた。その嬉しさは、まるで花が咲くように見えるほどだったが、母は何故かそれを刈り取ってしまう。
「今の私達が、幸せじゃないと思う?」
母の問いかけは柔らかかった。
雨はやがて霧になり、雲間を光が割って出る。陽射しはそっと、家族を照らしはじめた。
オリトは、じわりじわりと家族に近づいていく。考えることに気を取られる兄姉に、寄り添うように。
母は、やって来る末娘を見て微笑みかけると、輪の中に引き込んだ。
「父さんがいないのは寂しい……でも、私達はそばで一緒に暮らせてる。生きる術をそれぞれ使って。たくさん歩いて大変なこともあるけど、それができるのは幸せなこと」
日の出よりも早く起き、何時間も歩いて物を仕入れにいくこと。子ども達と共に働きに出なければ食事にありつけないこと。絶えず続く苦労だけを見れば辛いだろうが、そうして生きる道すがら、目に留まるものや耳に触れるものがある。それによって気持ちが照らされると、辛いものは吹き飛ばされていく。
「お金は光と音で私達を惑わせる。私達の耳と目を泳がせ、気持ちを操ろうとする。それを見極められるように、まずは自然の声を聞けるようになりなさい」
広く失われた大地が戻ろうとしている。木々から若芽が出はじめている。それを整えるために手を加える人がいる。母は村の風景を指差しながら、子ども達に語りかけた。
「世界を本当の意味で繋いでいるのは、お金ではない、もっと別のもの」
陽射しが広がりはじめると、母は静かに笑った。兄姉は互いを見、母を見、そしてオリトを見ると、くすくすと笑った。
「これ食べて、あったかくして、父さんたちをまてばいいね」
「びょうきになっちゃ、しんぱいかけるものね」
兄と姉に顔を覗かれたオリトは、こくりと頷くと、そっと笑みを浮かべるに留めた。
母は長男の手を引き、その後ろを長女がオリトを引いて、再び歩き出す。温かい風がふわりと舞うと、その隙間を縫うように冷たい風が細く混ざり込む。
オリトは、雨粒に紛れた母の涙と、どこか苦しそうに話すのを見逃さなかった。そしてそっと、硬貨をポケットに忍ばせると
「もう今日は奥にいるんだから、帰ったらターバン取っていいでしょ?」
母は肩越しに振り返ると、静かに頷いた。
「あたしがはずしてあげる」
姉は笑いかけながらオリトの頭を撫でると、ぎゅっと手を繋ぎ直した。
オリトは小さく礼を言うと、その向こうに広がる荒れ野の風景を見渡した。そよそよと、消えかかるほどに細かな金色の光の舞が見える。ガラクタの撤去に勤しむ人々の汗を、乾かそうとしているのだろうか。そこの土が蘇れば、トウモロコシ畑になるかもしれない。スクールの生徒達で賑わうかもしれない。
多くの命が失われた大地に再び、小さな命がゆっくりと芽生えようとしている。その時が早ければ早いほどいいが、それはいつになるのやら。オリトは、家の方角から少し逸れた先の景色を見やる。呪術師が住む地があるところだ。風の光が見えた時、どういう訳か、その地のことを思い出す。何度か訪れたことがあり、気さくな老爺がいる。
オリトは姉に急かされながら、胸の中で、あの木について思いを馳せていった。
オリトの姉が語る、吊るされた靴について。
本シーンを描く上で参考にしたスポットでは、姉が意味している形で靴が吊るされていました。ただ他の意味としては、違法なやり取りをしている目印とされている場合もあります。




