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代表作シリーズ最終作「大海の冒険者~不死の伝説~」
第四話 だから 必要だった(5)-(10)の部を、別視点でお送りします。
冷ややかな空気と激しい雨音に人々が恐怖すると、オリトははっとし、両耳を塞いだ。
キンッと鋭い風が肌を這ったかと思うと、力強い雷鳴が轟いた。馬は暴れ、荷台が大きく傾いていく。
人々が転がるところに、オリトは巻き込まれてしまう。その重みでとうとう、荷台は横転しかかっていく。
その場に犇めく悲鳴が、不思議とオリトの中では遠ざかっていく。そして、周囲の音と入れ替わるように目の前に現れたのは、いつか道しるべで宙を泳いでいた、細い金色の光だ。息が詰まるこの場に緩やかに漂うそれらは、蝶の自由な羽ばたきのように闇を舞い、歌を運んできた。
母ともダヨとも歌ったそれに、オリトはじわじわと目を見開いていく。気持ちに合わせて歌う速さを変えてきた、歌詞が長くて覚えるのに苦労した思い出の歌。だがどうしても、この世界に辿り着いた夜に口ずさんだ時、忘れてしまって歌いきれなかった。
光は、フワワッと曲線を描いては消える。と、その一節が花開くように浮かび上がった。
(オグヨがきた……明け方のにおいをつれて……オグヨがきた……始まりの風にのって……目を開けて……土に足をついた……わたしたちは、また……今日を自由に生きられる……)
抜け落ちていた歌を心で呟いた時――雷が轟き、空間を切り裂いた。
辺りの音が瞬時に蘇ると、オリトはきつく目を閉じた。皆の悲鳴がドッと押し寄せたかと思うと、馬車は大きく寝そべるようにして横転した。
荷車の中で掻き回される人々は声を上げ、互いの身体が縺れ、押し潰し合う。
オリトは身体が跳ね上がったかと思うと、ふと、時の流れが緩やかになったように感じた。
ゆったりと宙に浮かんでいると分かると、恐怖に目を開け、何もない闇に縋ろうと両手を伸ばした。だが、再び訪れた金色の光は、その手を握り返してはくれなかった。
(こんなものいらないって、言ってるのね……)
金色の風にもそっぽを向かれてしまうのかと、力が抜けた。そして遠のいていく光を追いかけるようにして、父と母、兄姉やダヨの顔が引き延ばされて消えていく。その端を掴むようにして、アシャ、ラテガ、それからジャバリにマライカ、エシェが消えていった。
(傷つけて、ごめんなさい……)
馬車は、雷鳴に打ち砕かれるようにして側道の縁を打ち、深い激流の川へ落ちていった。
転がる馬車は山肌を打ち、布や木枠を飛散させる。人々の目には、とうとう外の景色が広がった。天井や壁から開け放たれたそこから、皆は瞬く間に放り出されていく。オリトはその流れに巻き込まれる恐怖に息が止まり、最後、残された荷台の頼りない縁を力いっぱい掴むと、水中に投げ込まれた。
馬車の残骸ごと呑まれていく。骨まで沁みる流水が、気泡と共に全身を這っていく。これまでに負ってきた傷がビリビリと疼き、痛みに耐えきれず口を開いてしまう。次第に潮辛くなっていく水が、容赦なく喉に流れ込んだ。
水面に顔を出しては覆われてを繰り返すうちに、馬車の残骸が手を差し伸べるようにして腕に流れ着いた。身体が乗るほどの広い板に、透かさず縋りつく。しかしこの流れは、いつか故郷から川に落ちてしまった時のものよりも激しく、身を支えながら息をするのがやっとだった。
川に何度も引き剥がされそうになるのを抗い続ける。そして、辺りを僅かに見渡す隙ができた時、気づいた。川幅は更に広がり、流れ着こうとする先はもっと広大で、障害物はどこにもない。また、共に落ちた人々も見当たらず、その殺風景な様に恐怖心が煽られていく。
(どうしよう……どうしよう、どうしようっ!)
沈んでいるならば引き上げねばならない。自分だけがこうして浮かび、息をしているなど耐えられず、震える唇を開くと、声を張り上げようとした。ところが、出しているはずなのに聞こえてこない。水の音と雨、そして時折聞こえる柔らかな雷鳴に負けてしまっている。そう察した刹那、傷を抉るような痛みに似た疼きが喉を迸った。声など、その痛みが妨げていたせいで、そもそも出ていなかったのだ。
やがて目の前が広がっていくと、とうとう陸に繋がるような手掛かりすら見つけられなくなった。真っ暗な空の下に揺れる、どこまでも黒くて終わりのない海が待ち受けていた。
(戻って……こんなところに来たかったんじゃない、戻って!)
心の嘆きに合わせ、海を引っ搔き回す。振り返ると山が聳え、冷たく見送るようだった。
オリトは首を振り、がむしゃらに海を掻いては流れに逆らおうとする。だがその力も、水に溶け出すように尽きていく。
(何もできてない……皆に何も返せてない……)
何もかもが半端のままだった。“自由”を掴むことを考えてみても、それは始まってすらいなかった。その悔いが僅かに腕力に変わると、上半身に力を加え、縋りついていた板に乗り上げようと片足を上げる。だが、波がどうしても妨げてきた。それに、この瞬間も体力を奪い続ける枷も重すぎる。
「ああああっ!」
意地になり、ビリリと喉が裂けるのも忘れて張り上げた。それも長くは続かず、嗚咽になってしまう。こんな事態だというのに、風はどこをほっつき歩いているのか。馬車で見た光と、それが呼び寄せた皆の顔が流れ去るのが最後だったというならば――
ことんと、オリトは板に顔を落とした。黒い大海原にもったりと揺られていると、再び雨脚が強くなりはじめた。大声で泣き叫びたい気持ちがそのまま描かれているようだった。そして涙は、静かに板に吸い寄せられ、染みの一部になっていく。
このまま返されるならば、また戻る日が訪れるだろうか。そんなことが不意に過ると、重い顔を再び山の方に向ける。だが、それは姿形をすっかり失くしてしまっていた。
(やり直したい……)
もう一度、友達や家族のためになりたい。そして村に、国に“自由”を広げたい。
(幸せに、なるんだ……)
ラテガの言葉を心で呟いた瞬間、腕の力が抜け、海の中へ身を預けた。




