<11>
そこはまるで、明るみなど見たこともないような場所だった。外は肌がヒリつく暑さでも、ここは湿った土の中と同じで、風すら届いていない。
不意に背中を押されると、目の前に居座る者の影が、くっきりと輪郭を浮かび上がらせた。煙が淀む中に燻んだゴールドの僅かな艶が見えると、白い眼玉がこちらを向いた。
ムワンバと目が合い、オリトは腹の前で両手を握りしめる。眼からビリリと電気が迸るように、足先まで動かなくなる。
硬直するオリトを前に、ムワンバはその容姿を頭から足までじっと見つめた。暗闇で鮮やかに浮かび上がる少女から立ち込める異様さに、目が細まっていく。その、今日まで感じたことのない違和感は、確かにこの世界のものとは違っていた。
「俺が言ったことを覚えているか」
ゆるやかな問いかけだった。オリトはそれを、まずは静かに聞くだけに留めた。
他の兵達に比べ、ムワンバの口調は大人しかった。鋭い眼差しで縛りつけてくるのは変わらないが、こちらの出方を待つ余裕はあるようだった。オリトは両手を力ませたまま一つ瞬きすると、口を開いた。
「貴方の“使い魔”になれと言った」
詰まっていた息が声になって抜けたところで、身体が少し軽くなった。オリトは再び瞬きすると、静かに息を吸い、自分の口調を取り戻していく。
「ここへ来る前は貴方の仲間に、この国の“盾”になれと言われた」
オリトの眼差しが尖り、表情が引き締まると口調がハッキリしはじめると、ムワンバは僅かに眉を上げた。
「そうだ。そして、その時はもうじきだ」
オリトの胸が早鐘を打ちだすと、ムワンバが顔を覗いてきた。瞬きをしない大きな目は、先ほどの調達局の男の頭を掴みながら、ラテガ達に向けていたものと同じだった。
「何もできないと思うわ……」
思わずこぼした言葉の半分は本当だ。自分を使おうとしている大人に応じるやり方など知らない。だが、ムワンバの眉がぴくりと上がった。
「声を上げりゃアいい。お前ェの得意なことだろう」
「……言われた通りに声を出したことなんてない」
戸惑いながら言い返したオリトだが、ムワンバは小さく笑うと、首を横に振った。
「お前ェはその時、声を出さずにはいられなくなる」
そして煙を吐くと、またじわじわとオリトの顔に鼻を近づけた。
「わざわざ俺が命じなくとも、なァ……それがそいつの放ち方ってことくれェ、見りゃア分かる」
オリトは言葉に詰まった。しかし、妙な態度を見せるわけにはいかないと、ラテガやマライカ、ジャバリ、そしてアシャが巧みにこなす技を、自分もできねばならないと、頭を働かせた。
「あたしはまだ、この能力をよく分かってない。アシャに学べと指示された」
ムワンバは顔色を変えず、言葉を一度止めたオリトをじっと見つめたまま、その先を静かに促した。
オリトは自分の喉を掴む。
「今のあたしはきっと、何もかもを傷つける。何もかも、ね」
仲間をも殺しかねない――そう意味しているのだろうと察したムワンバだが、オリトの懸命な顔を吹き消すように煙を吐きつけた。
「だがお前ェは、母親を守るためにその力を操った……」
そしてムワンバは、オリトの鼻にまで顔を近づけ、瞳の奥を覗きこむ。
「お前ェはもう、充分そいつに気づいている」
言いながら、オリトの喉を掴む手を突いた。
「そいつは見込みある上等品だ」
オリトは心で何度も首を振り、耳を塞いだ。だが外面は一切変えず、ムワンバの眼の中に滲む自分の瞳を見た。この狭い闇を、唯一自分の髪色が灯してくれているような気がして、胸の激しい騒つきが鎮まっていく。
「お前ェの力は為になる。あらゆるものの、だ。この新たな世界に、神がもたらした。誰もが早ェ段階でそれに気づいた。だから隠された」
ムワンバが遠ざかると、その眼に見ていた髪の灯が消えてしまった。煙と闇と圧迫感が、またしても身体を締めつけようとし、鼓動が速くなる。隠されたという表現が、部屋の隅やマーケットのテーブル下に追いやられたこと、外に出てはいけなかったことを、ミシミシと呼び寄せてきた。
「で……お前ェを隠したところで、一体ェ何になったァ……? 何にもなりゃアしなかった」
カッと火が点いたように過去が消し飛び、ムワンバの顔が浮かんだ。先ほどまでとは違う、眩暈がしそうな臭いが細く漂った。何か分からないモノを差し出されると、オリトは小さく身を逸らせた。煙が目に沁み、しばしばと瞬いてしまう。
「お前ェが身の丈を超える力を知り終えるのを待てるほど暇じゃアねェ」
オリトはだんだん気が遠のいていくのを感じた。だがムワンバの声に耳を立て、表情を崩さんと、足を踏ん張った。そして、聞いている姿勢を見せようと背筋を立て直した時、顎を掴まれた。
「時間をもて余して何が起こるか……冴えてるなら分かるだろォ?」
“お前さんのその“息の力”の出番って訳だ”
急に飛び込んだ、あの調達局の男性の声に、オリトの目がメキメキと張っていく。そして、大きな掌の中で打ちあう硬貨の音が過った。
震える唇が辛うじてパクパクと動いてしまうが、顎を掴まれており、その様子は派手にさらされることはなかった。危うく声にしかかるところだった――自分はただの道具なのか、と。
目が乾きそうになるところで、顎から手が解けた。こぼれかけた唾液を拭うと、また嫌な臭いがジリジリと漂った。
「蟲が集る前に排除する。わんさかいる邪魔の一部に、今夜試してみろ」
「今夜?」
うっかり声にしてしまい、オリトは口を噤んだ。せめて、口を塞ごうと上がりかけた両手だけは腹の前に留めることはできた。だが、ムワンバの鋭い視線が全身を這い、目の奥まで貫いてくる。
「今夜だ……寝込んで働けねェとなりゃア、お前ェはそれまでだ」
互いが示す“今夜”の間に淀んだ静けさに、オリトの目は震えていく。瞬きを忘れるくらい、今夜の動きが崩れてしまいそうな予感がしてならなかった。
「忘れたとは言わせねェ。下手に使やァ、命は無ェ。いくら神が寄こしたモンだろうがなァ」
ムワンバの歯が、闇に細く鈍い光を浮かび上がらせる。そしてその場が静かになると、そばに居合わせていた副官がオリトの鎖を引いた。そして今夜、無駄な動きはせず、兵の誰かが呼びに来るまで大人しくしていろと指示されてしまった。
気が気でない顔を隠せないまま、オリトはそろそろとムワンバから身を逸らしていく。その間、彼の姿がハッキリと分からずとも、その視線をヒリヒリと感じた。
下手な動きをしてしまったに違いない――そう思うや否やラテガの顔が浮かぶと、オリトは、そっと足を止めてムワンバに向き直った。首の鎖がピンと張られる音が煙の中で響いた。
「神様があたしを“使い魔”として送ったなら、神様以外にあたしを扱うことなんて、本当はできないんじゃないかしら」
しんとした空間にオリトの声が沈んでいくと、それを追いかけるように続けた。
「神様が秘めているものを人間が知ることなんて、できないんだわ。知る必要がないか、知られては困るのかも……」
あの木が声を届けてくれなくなったのにも訳がある――と、オリトはフォーティーとダヨと眺めた大樹を思い出した。
「人間が知れば、どこまでも食らいつこうとするからかもしれない」
木が失われ、土が消えていったようにと、オリトはフォーティーとダヨの会話を振り返りながら言葉を紡いだ。そして、一つ息を吸うと、ムワンバの燻んだ瞳と自分の目を、真っ直ぐに合わせた。
「あたしが貴方に従うというより、神様が貴方に従うかどうかじゃないかしら。風はただ、自由に吹いているだけ……人が自由に生きるみたいに……次にどう吹くかなんて、誰にも分かりっこないんだわ」
ムワンバは鼻で笑うと同時に、見た目にはそぐわない、とんだ発言を並べるオリトに目を細めた。
「全ては試すまでだ。それが、人の形をして生きるお前ェの運命だ」
この時オリトは、何の音も聞こえなくなった。ただ唯一、腹の底でボコッと何か熱いものが湧き、その湯気が全身を満たしていくのを感じた。唇が震えると、そこから温かい息が漏れ出てきた。が、それ以上吐き出してはいけないような気がして、グッと奥歯で噛み殺した。そして、いよいよ首が力強く引かれると、視界がぐわんと揺れた。身体が翻り、その先から急に射しこむ陽の光に目が眩むと、しばし顔に手をかざして歩くことしかできなくなった。




