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オリトは無意識に全力で駆けていた。足全体の痺れと痛み、噴き出る汗に、荒くなる息が、やっと今の自分に気づかせてくれると、辺りを見るなり動きを止めた。
今立っているここは、ガラクタ掃除をする仕事場であり、知らぬ間に箒を握っていた。ムワンバ達に見つからないようにとはいえ、ここまで反射的に動いてしまえる自分にゾッとした。
肩での呼吸がやっと和らいでいくと、恰もここで仕事をしていたかのように、箒を簡単に動かしながら歩いた。そして、朝一番に言葉を交わしたあの男性が居ないことに気づくと、身震いした。まるであの男性など初めからいなかったかのように、代わり映えのしない雰囲気に恐怖してしまう。
流れる時間や空気に、この瞬間までに何があったかなんて関心がない。しかし空を仰げば、陽の光は閉ざされてしまっていた。天だけは、今の心境に寄り添ってくれているということなのだろうかと、オリトは箒を握り締める。
そして、同じ仕事に黙々と打ち込む大人達に向き直ると、足は不意に後ずさってしまう。あの男性が一瞬でいなくなるように、彼らもどこかへいってしまうのだろうか。もしそうならば、何によって、その時はもたらされるのだろうか。
オリトは考えれば考えるほど、そこに立っていられなくなり、誰とも顔を合わせなくて済むよう、持ち場の中でも比較的外側の、誰の手も届いていない清掃場所へ逃げるように向かった。
奥まっているその場所には、草がたくさん生えていた。このまま誰も足を踏み入れず、手を加えなければ、身を隠せるほどの長い草になり、ここ一帯を緑に変えるかもしれない。そんな気がすると、箒を握る手が緩んでいった。そして、そこから漂う微かな草の香りを、水を飲むように吸って、吸って、吸い続けた。どんなに冷たい水よりも、この地に来たからこそありつけるようになった肉よりも、遥かに美味しく感じた。
オリトは膝から崩れ落ちると、小さな身体をより縮め、丸くなる。そして蟻が巣穴に入っていくのを見て、自分もそうしたくてたまらなくなっていく。その時、蟲の存在が頭を過り、大きく顔を上げると、草の先端に目を凝らした。何かに導かれるように、草の一本いっぽんを確かめていく。若い緑の香りに誘われてやってくるかもしれない、金色の朝の中で見つけた生き物――
「オグヨとオンゴゴ……」
探したかった。大きくて立派な彼らに、今すぐ会いたかった。会って、確かめたかった。この世界に必要なものを。この世界で長く息をし、広がっていくべきものを。
辺りを静かに見つめるだけの時間は、次第に荒っぽくなっていく。彼らの居所が分からず、両手で乱暴に草を掻き回してしまう。
「オグヨとっ、オンっ、ゴゴっ……」
助けてほしくて焦ってしまう。視界はどんどん濡れ、ボロボロに滴っていくと、草を見るのも億劫になり
「あああっ!」
草を強引に毟り取り、宙に放り投げた途端、真下から冷たい大風が吹き荒れた。ワンピースも髪も吹き上げられようとも、ムシャクシャしたものは身体にへばりついたまま拭われない。
そしてまた、膝から崩れ落ちた。そのまま、そこに生えていた細い芽の集まりを毟り取って投げつけた。その隣のものも、そのまた隣のものも、すぐ前のものも――そうして、湿った黒い土が掘り起こされ、緑が汚れていった光景を目にした時、自分が恐ろしいものに成り代わっていることに気づくと、両手を恐々と見つめた。
「あたしはムワンバ……」
血ではなく、土で汚れているだけのことだった。今自分がしていることは、あの男と何ら変わらない。
「要らない要ないっ!」
頭をぶんぶん振ると、手の土を髪にぬすくった。何度も何度も掬い、髪に塗りつけた。まだ足りなくて、地面に頭をこすりつけ、髪を黒く染めてしまう。こんな髪をしているから距離を感じてきた。母さんに言われた通り、ターバンを持っていればよかった。
くしゃくしゃに絡まり、土色と金色が入り混じる前髪を睨むと、唾を吐きかけた。その息の勢いで、目の前の草が両脇にドッと押しのけられ、一本の風がスルリと通り抜けていく。
「要らないってばっ!」
どこからともなく吹きつける風が憎たらしいあまり、箒を振り回した。生まれ落ちた時に強い風が吹いたという、たったそれだけのことで、風そのものの名前をつけられた。それを恨んだことなど、今まで一度も無かったというのに。
「あっち行ってよ! つきまとわないで! どっか行って!」
こんな声があるから誰かを傷つけてしまう。そのための道具にされてしまいかねない。“オリト”と命名された新しい武器になってしまうのかもしれない。それが恐ろしく、首を掻き毟った。それでも、喉が剥がれ落ちることはない。そして、どうしようもない自分に疲れ果てると、投げつけるようにその場に倒れ、寝そべった。すると――
“大きな声を出さないで”
オリトは目を見開いた。散々言われてきた約束が、母の声で蘇った。
“静かにしろ”
次はラテガだ。そうだった、いつだって自分は、基本的には黙っていなければならなかった。その約束を破ってしまったから、こんなことになってしまっている。
両親はこのことを知っていたのだろうか。知っていて、黙っていたのだろうか。また、ダヨはどうだったのだろう。
オリトはむっくりと起き上がると、頭の中で縺れ合う思考や感情を呆然と眺めた。歪な光景だった。例えるならばきっと、あの神様の木に辿り着こうとしても辿り着けなくさせてくる流れのようだ。誰も寄せつけなくなった、声を返そうとしなくなった、千年以上も息をする力強い大樹。その感情なんて知る由もないけれど、夜に溶け込んでしまうほど暗いところに陥ってしまった存在は、何となく今の自分と重なってしまう。
オリトは立ち上がり、視界にかかる泥だらけの髪を雑に払うと、箒を拾った。そして、散らかした土を寄せ集め、そこら中に空いてしまった穴を埋めていった。
「ごめんなさい……」
何度も何度も、穴の数だけ口にしながら。
一通り終えると、来た道を振り返った。そしてまた、元の荒んだ世界が飛び込んできた時、聞こえてきた。
“私達に必要なのは作物の種と、そこから芽生える希望。銃弾ではなく”
オリトは、はっと、後ろを向いた。そよそよと風に撫でられる草の音にのって、緑の香りがした。毟り取ってしまっても、彼らは変わらず匂いと穏やかさをくれた。そこにどんな言葉が織り込まれているのか、今は全く分からなかった。風は、前のように言葉をくれなかった。ただ不思議なことに、刃のような感情が薄れていくと、忘れてしまっていた想いが浮かび上がった。
「誰かを、助ける……」
だが、喉に触れてそれをイメージしようとした時だった。視線を感じ、身体を縮めて辺りを警戒すると、ずっと遠くで誰かがこちらを見下ろしているのに気づいた。
「……アシャ?」
オリトは首を傾げ、そこへ向かおうとした。ところがアシャは素早く掌を向け、何度もそれを繰り返した。まるで止まれと言われているようで、オリトは足を止めると、アシャの横から誰かがやって来るのが見えた。透かさず身を屈めると、偶然、建屋の壁に佇んでいたドラム缶に目が留まり、その陰に隠れた。




