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オリトは母の姿を確かめながら、素足が心地よい地面を目指してガラクタを集めていた。見慣れた言語が書かれた板やプラスチック容器。全く知らない言語が綴られたボロボロの書籍の一部。何が何だか分からない、掴むには気持ちが悪いドロッとした物体は、どうか土になってくれと願ってそのままにしておいた。真っ黒な蟲が集るものも、処分の仕方を習うまでは見なかったことにしておく。
この地が本当はどんなところだったのか、なかなか知る機会は訪れないでいた。しかし、日頃から聞こえてくる大人の話を耳にしているうちに、なんとなく想像がついてきた。それが正しい絵面かどうかを確かめたくなり、このガラクタの丘からずっと先に広がる海から、更にその向こうに見える陸地を見渡した。
空はもう、燻んでなどいなかった。薄茶色や灰色の靄――汚染した大気を境界に存在していた、“先ゆく世界”と“追いかける世界”。その二つの陸が分断され、間に海が生まれた今、互いが持つ資源などが混ざろうとしはじめている。
そうして頭の中が整理できるのは、風が運んでくる匂いのせいだった。そしてその事実を、母にだけ打ち明けられているからだった。
オリトは、海を挟んだ向こうに広がる陸地に首を傾げた。二つに別れたことで、仲違いが起きているのだろうかとも感じた時がある。だが、互いが持つ資源などが混ざるとなると、仲がいいということではないだろうか。と、瞬きを忘れて考えに耽っていると
「手が止まってるよ」
しわがれた声がしたと同時に、腰の辺りを太い杖で突かれ、オリトは飛び上がった。向かいの家に住む老婆が、ジッと目を細めた。
「お前がいるってことは一家総出だね。ぼうっとしてちゃ転げ落ちる。近くにいな」
老婆は言うと、オリトのそばに居座りながらガラクタを再び集めていく。
オリトは、手際よく仕事にかかる老婆の丸い背中を眺めた。その周辺でも、同じ作業をする人達が点々と見える。母は仕入れに手こずっているのか、まだ戻る様子はなかった。
そうして辺りを見回してばかりいたがために、また声がかかった。
「あら、ルルのところの末っ子じゃない?」
母の名前に続く問いかけに、オリトは返す言葉の準備を心で整える。そばの老婆は相手に顔を向けず、手だけを止めた。
「全然見かけないから、どうしたのかと思った」
やって来たのは、オリトが時々道で見かける顔見知りの女性だ。こうして同じ仕事もするが、たいていは修理屋をしている。家族が多く、息子は電気器具の修理店を構えているそうだ。
オリトは半端に詰まったリュックサックを両手で抱え、さりげなく彼女から距離を取った。
「げんき。おはよう」
そして、顔のずっと奥からどうにか笑みを引っ張り出した。
「ちゃんと食べてるの? 声に張りがないみたいだけど。お父さんは戻った?」
オリトは、沈みかける笑顔を引き上げ、軽い口調をしてみせる。
「まだあっちの陸で電工をしてる」
すると女性は、拾ったガラクタのカゴを持ち直しながら目を見開く。
「まだ向こうにいるの? 何も起きてなきゃいいけど……」
オリトは女性を見上げ、瞬きする。
「何があるの?」
しかし、老婆が腰を上げた。
「そこの事情はまだ、この子には早いよ」
女性はしばし眉を寄せると、オリトに視線を送っては、老婆に向き直る。
「分かってるわ。けど、何だか家庭が閉鎖的に思えて。あなたこそ感じるんじゃ?」
そして彼女は再びオリトに目をやると、老婆にやや前屈みになる。
「近隣住民が武装連中にどんな聞き込みを受けているか、もう少し気にかけてもらわないと。その子のことを知られちゃ困るってことくらい、ルルの動きを見てりゃこっちも分かる。その子が“何”か、少しくらい周りにも言っておいてもらわないと。協力しようにもできないでしょ」
そよそよ、オリトの耳元で風が細く鳴っていた。両腕に抱えるガラクタの形が分かるくらい、女性の声がガチガチと伝わってくる。
「オリト、漁船が出たみたいだよ」
老婆の声がすると、風がやや強く吹きつけた。オリトはふらふらと押しやられると、その場を下るように命じられているかのように、母が上ってくる道についた。
老婆は、オリトの影と足音が遠ざかるにつれ、肩の力をほどく。
「深入りはよしな。私はあの子を取り上げただけで、特別詳しい訳じゃない。ルルが黙りを破らないのには、考えがあるんだよ」
女性は老婆の言葉を片耳に、海辺の方へ下る途中で落ち合おうとする親子を見下ろした。
「……機会があればルルに言っておいた方がいい。あの子、うちの近所じゃ“使い魔”呼ばわりされてる。家から出ないことが殆どだってところも、結局は妙な目で見られてるの。今のままじゃかわいそう」
女性は言い終わると、足早に帰路についた。幾つも重ねた布で修繕された靴の爪先が、砕けきれなかったプラスチック製のカゴらしきものを打った音が、そっと風に流されていった。
母が来た道を戻っていると、オリトがリュックサックを背負いながら下りてくるのに気づいた。今朝はどちらも大した収穫はないと見て、溜め息が漏れてしまう。だが、昼を過ぎるころには後の子ども達が戻る予定だ。今日の食事分くらいなら、どうにか交換できるだろう。
体力勝負の生活に拍車がかかり、縫製の仕事を再開する目標を、つい遠い空に描いてしまう。
鮮やかな空と澄んだ空気が舞い戻り、植物がようやっと大地を緑に染めようとしている。その最中にありながらも尚、変わらないものがあることに、奥歯を噛まずにはいられなかった。
手元の魚は、盥いっぱい仕入れられた時の四分の一にも満たない。それでも今朝の自分なら、仕入れられるだけ、貰い手がいるだけ幸いと言い、割り切れた。しかし、そんな余裕はどこへ吹き飛ばされてしまったのかと、近づいてくる娘を透かしてでも探してしまう。
冷ややかな潮風が、娘が来るにつれて温かみを増していくような気がした。この手で人目につかないようにしているからこそ、その子の髪が覗いているところが見えてしまう。不必要に光るからだ。
それを気にせず、たった一度だけ、その子を抱いて外を歩いた。陽の光をその髪に蓄え、弾けるように煌めいた時が懐かしい。だが、夫婦共にそのような性質はないだろうと、何人かの住民が訝し気な目を向けて口にした。それ以来、娘との生き方に、布を織るように細部まで気をつけるようになった。
娘は周りをよく見ており、こちらを大声で呼ぶことはせず、静かに拾ったものを両腕に抱えた。そして落ち合うと、こちらを見上げてきた。陽射しが娘の目に触れ、その瞼が半分だけ下がってしまっても、茶色い瞳は鮮やかさを主張している。そしてそこにはまた、何らかの疑問を宿しているようだった。
「ダヨが困ってた」
母はそっと、上からこちらを見下ろす老婆を見やる。その更なる先に視線を伸ばすと、女性が遠ざかる姿があった。背中から押し寄せる冷たい風と、娘の方から漂う温かい風の狭間で、その女性が見えなくなるのを見届けた。なのに何故か、娘に向き直ることができなかった。首が動いてくれなかった。
「父さんは、“先ゆく世界”にいて平気なの?」
柔らかな疑問の声に、母は首で否定しかかるのを咄嗟に止める。
「下で喧嘩してた人達は、仲直りできた?」
「見なくていいって言ったでしょ」
口が勝手に動くと、母ははっとし、娘を抱き締めた。抱えられていたリュックサックが、トスッと落ちる音がした。
「よく集められたわね。交換に行きましょう。もしかしたら、お金が流れてくるかもしれないけど」
母は娘にそっと笑いかけるのだが、娘は表情を変えないまま、真っ直ぐな眼差しを向けてくる。それはいつも通り、矢で射抜かれるような感覚だった。
「どうして喧嘩をするの? 分け合えるなら、仲良くなれるんじゃないの?」
母の身体に、だんだん鼓動が響いていく。
「神様の木は、今のここのことをどんな風にお話しするかしら……」
そして次第に、呼吸までも忘れていく。
「地震があって大変だから、みんなで助け合うために、あちこち移動してるんでしょ? 畑をしていたところの叔父さんは、一体いつ帰るの――」
「止めなさい!」
無意識に放った大声に、母は我に返った。娘は首を竦め、視線を落とし、シャツを両手で握り締めてしまった。縮み上がる小さな身体を、母は慌てて抱きしめ直す。そして何度も、ターバン越しの“秀で過ぎる頭”を撫でた。
誰かに打ち明けようにもできないでいる、娘の中に蠢く数多の不相応。誰かにこのことを口にしようものなら何が起こるか、そんなことは疾うに分かっていた。
「おいで。あの子達と落ち合わないと」
母は娘の手を引き、ガラクタの丘を登ると、急ぎ足でマーケットに向かった。
オリトはこの時、母が口にしないでいるざわめきを肌で感じていた。




