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母は岸辺に向かう最中、同じように魚の仕入れで集まる村人を前に、不穏な空気を嗅ぎつけた。久しぶりのこの機会に、皆が喉から手が出るほどであるのは同じだった。物々交換の幅が広がり、今日と明日は腹が満たされるだろうという期待に、誰もが胸を膨らませていた。
ところが、数人の漁師が船から下した魚に、人々は物申さずにはいられなかった。種類はあれど、量はここに集まった人数の割に合わず、まちまちだった。
「うちにはヤギがいる。食うにはまず餌をやって、増やさないといけないんだぞ」
野に放たれたヤギ達を集め、もともと営む畜産業を再開するのにどれほど苦労しているかと、男性が周りに目配せをしながら漁師に訴えた。それに乗っかるように、養鶏をする男性が同じ苦労話を挟み込む。しかし、それを聞いた託児所の女性が黙っていられなくなった。
「待って。こっちは他の家の子を預かってるのよ。その子達の分の食事がいる」
人々はしばし自らの都合をぶつけ合った。だが、それをただ抑えるだけの漁師達にも首を傾げ、不満の表情を向けずにはいられない。
「すっかり向こうの連中に買われているようだな。元はこの村で一緒にやってきたってのに。この仕打ちは何だ?」
養鶏をする男性が漁師達を静かに揺さぶるも、彼らの様子はいつもと違っていた。今日の彼らは、キャップ帽を目深に被り、その下で視線が泳いでいる。言葉を探している様子は、唇が妙な動きをするほどよく分かった。
静かな緊張が漂う様子を後ろから見ることしかできないでいた一人の女性が、溜め息を吐きながら向こう岸を見た。その隣で同じように立ち尽くしていた母もまた、ふと、彼女に釣られるようにしてそこを眺める。
「今はどうなっているのかね、あの街は。以前なら歩いて行けたのに。そのお陰で、こちらも直接物売りができたもんよ。距離はあれど、助かっていた」
“大地の号哭”によって断層崩落が起き、内陸で隣り合っていた互いの地は、海流が割り込んで分断してしまった。海とは無縁だったところ、急に青い世界が辺り一面に広がり、当時は長いこと動揺が治まらなかった。
緑に頼って生計を立てる暮らしに、漁業が必要になった。ほとんどの人々がその方法を知らないでいたが、一部の異国から渡り住んでいた人々が漁の術を持っており、そのスキルは少しずつこの村にも広まった。だが、その始まりを切った彼らは今、そこの漁船で困惑している。
彼らは今日もこの狭い海域を手漕ぎで渡っていることから、燃料はまだ生み出せるに至っていない。だが漁船は、機能しなくなった港町に残ったものを引いてきたのだろう。以前、そんな噂を耳にした。海に面した新たな地となった互いの陸地。その内の向こう側――富豪の地を港町にしようとしているのかもしれない。ならば当然、腕ありの彼らが、そこを占拠しようとしている集団に買われるのは自然だった。
母は、その更に向こうに目を細める。遥か遠くで薄い影を浮かばせて聳えるのは、鉱山だ。そこの被害こそ残酷であり、今や崖下は直接海に面してしまっているらしい。
「ここのところ、人探しの連中が増えたと思わない? あの山にいよいよ踏み込もうとしているんじゃないかって、心配よ。あなたのところは平気なの? 一人でいる時間が随分長いようだけど」
女性の声に母は一度振り向くと、何も言えずにただ視線を落とした。
馬車の人間は、向こうの陸地を占拠する集団の一部で、長年存在している恐れられている者達だ。歯向かおうものなら、この身に何が降りかかるか。口にしないだけで、誰もがそれを分かっている。
武力で威圧することで生きがいを得てしまっている彼らに、いずれはこの地も持っていかれてしまうのだろうか。母は胸に渦巻く感情の中、夫や近隣の仲間がいつまでも戻らないでいることを、目の前の漁師達の様子と重ねてしまう。
「勘弁してくれ。向こうの分の仕事があるんだ。これだけあれば、こっちは他の資源で賄えるだろう」
漁師の一人が、人々をほとんど見ないまま早口に言うと、他の漁師達がオールを握った。船は早々に往路を向こうとする。
その態度に、今度は子どもの世話があると主張した女性が呼び止めた。
「あんた達、そんなことでこっちに残したままの家族をどうする気? いいように言い包められてるんじゃないでしょうね? 本来の暮らしは、この村にあるはずでしょ?」
すると、彼女の声がオールの音に消された。漁師達は込み上げるものを水面に叩きつけると、船を進めようとする。だがその船縁を透かさず、畜産をする男性が掴みかかる。彼は、素っ気ない漁師達に言い分を聞かせろと食いつくのだが
「街の復旧で忙しいんだ。今の向こうは、俺達がここから見ていた世界とは違う。いい環境が手に入るかもしれない。そのためには、どうしてもまだ時間がかかるんだよ」
以前なら、栄えた街とこの村の分かれ目は、土の地面の始まりがどこからかで見分けがついた。一歩跨げば富豪の地で、匂いや活気もガラリと変わったものだ。
そことの境界が海になってしまったとはいえ、こちらで生きる者は今、向こうに足を踏み入れやすくなっている。目を惹かれるあらゆる物資が無造作に転がっており、それらを新たな暮らしの必需品に作り変える。持ち前の力をそこで発揮することで、社会の復旧に貢献でき、今よりもいい生活環境を得られるのではないか。そう睨んだ人々は自ら、或いは馬車の男達からの提案に乗ると、海を渡る選択をした。
だがそれ以外の、もっと不穏な何かがある。母は再び、出て行ったまま戻らない夫や仲間を通して、燻んだ空気を淀ませた向こう岸を見た。
武装集団や盗賊が絶えない地だったが、震災前の秩序が失われた現在、自由は風の如く奔放に舞ってしまっている。それは、誰しもが解放されている状態を意味していた。
人々に揺さぶられ、いよいよ漁師達も荒ぶる様子を見せはじめると、母はじわじわと目を見張る。増えつつある馬車の者達が脳裏を過ると、未だ戻らない夫が浮かんだ。
騒ぐ漁師達の困り果てた顔から、この村にまっすぐ戻ることができない厳しい何かがあると察すると、夫もそれに縛られているのではないかと感じた。すると、彼はもう帰ることはないと言われているような気がし、手が震えだした。
「もう止めて……」
母が思わず呟くも、カタカタッと何かがボート内を打ちつける音に消されてしまう。
音を聞きつけた人々は、一人の漁師達の足元に転がるものに呆気にとられた。幾つかの硬貨が光ると、その漁師は慌ててそれらをポケットに隠してしまう。
「……こんなになった世の中だっていうのに、向こうはもうそんなものが扱えるまでになってるの?」
「ふざけるなっ……」
金銭取引が叶うまでに復旧しているならば――人々は、どうにも言葉にしきれない感情に、表情が定まらない。その様子を一瞥した漁師達は、村の仲間を大きく振り切ると、逃げるようにその場を後にした。
この時、母は見た。硬貨を落としてしまった彼の鍔の下から僅かに覗く、目の痣を。そして、その向こうに今でも存続している歪んだ自由を。




